読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「(略)「論語」からは、あまりはっきりとはわからないが、「孟子」になると、悪い政治をして人望を失うと人民が他国に逃げ去り、よい政治をして人望を得るとその国に人民が集まってくるという状態が、はっきりと記されている。(略)

 

 

では、為政者とは「徳」さえあれば「己を恭しくして正しく南面」していれば、それで十分なのか。もちろんそれは理想で、現実にはそうはいかない。

 

孔子は言う。天下に道があれば礼楽と征伐は天子から出る。ところが、道が乱れて諸侯から出るようになれば、その政権が十代つづくことは稀であろう。さらにその下の大夫から出れば五代、さらにその下の家臣から出るようになると三代つづくことは稀であろう。天下に道があれば、一般の庶民は政治上の議論などしないですむ」

 

孔子曰く、天下道有れば、則ち礼楽征伐天子より出ず。天下道なければ、則ち礼楽征伐諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋し十世失わざるは稀なり。大夫より出ずれば、五世失わざるは稀なり。陪臣国名を執れば、三世失わざるは稀なり。天下道有れば、則ち政大夫に在らず。天下道あれば、則ち庶人議せず」(季氏第十六422)(略)」

 

 

〇 「天下に道があれば、一般の庶民は政治上の議論などしないですむ」

ここが気になっています。

論語の世界では、「天下に道がある」状態が理想的な状態で、

「一般の庶民は政治上の議論などしないですむ」のが望ましい状態なのだと

言っているように感じますし、実際、私の感覚の中にも、本来、政治のことになど、関心を持ちたいとは思わない、という気持ちがあります。

 

そこで、少し前に書かれていた「天の命これを性と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修(おさ)むるこれを教えと謂う」

という言葉を考えてしまいます。

 

私などは、「持って生まれたものに従って生きることが道だ」と思ってしまうのですが、そうなると、この世のどこかに、「天の秩序に則した秩序を地上に打ち立てる偉大な君主」がいるはずで、ただひたすら、その人を待ち望む状態になります。

 

そして、その人に、ほんの少しでも、偉大な君主らしからぬ欠点が見えた場合、

即、違う!あの人ではない!と評価する。

実際、私たちはいつも、リーダーに対して、過剰に理想的な姿を求めすぎては、いないでしょうか。私が経験した市民運動の団体でも、熱心な人であればあるほど、他の人のほんの些細なミスや欠点を許せないのは、何故なんだろう、と思いました。

 

 

いつも不思議だなぁ、と思うのですが、「神」などという物語めいた存在を持ち出さない、現実的な「論語」の世界の方が、結果として、人間に理想的な姿を被せてしまっているような気がします。

 

一方、キリスト教では、理想的な姿は、「神」というイメージの中だけのものとされる。その美しい理想的な姿の前で、あらゆる人間は皆、等しく、「欠けた器」だとされている。

昔、私は自分の中に「天の命」めいたものを探し、それが本当に醜い姿だと思えて、

絶望的になったことがあります。

その時、助けてくれたのは、「醜いままで大丈夫。たいていの人はみんな似たり寄ったりだよ」と言ってくれた、キリスト教でした。

 

つい、比較してしまいます。