読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「3 律令制の成立

◎”科挙抜き律令制”の導入

(略)

「では天皇は日本人の教皇(ポープ)なのか」。この質問には少々弱った。後にイエズス会の東洋宗教研究所(当時)トマス・インモース師から、キリシタン宣教師が「天皇教皇に、足利将軍を実権なき神聖ローマ帝国皇帝に、分国大名をその帝国の大諸侯になぞらえている」と聞いた時、「ウーム、あのときこれを知っていれば、もっとうまい答えようがあったものを」と思ったが、あとの祭りだった。(略)

 

 

「帝権と教権」とか「教皇の俗権停止」とか言った言葉は、西洋史にしばしば登場する。(略)

 

 

 

中国の場合は、皇帝が聖人で、官僚が君子、そして律令が順守されれば、孔子が理想とした「王道」の国すなわち理想社会ができるはずであった。(略)

では、中国へ行って律令制を知った七世紀の日本の留学生は、果たして以上の基本的な考え方を正確に把握して帰国したのであろうか。七世紀の留学生が何を考えていたか現在ではわからないが、日本に移植された律令の運命を見ると、この基本には余り関心を持たなかったと思われる。(略)

 

 

 

というのは日本の律令制は「科挙抜き」であった。もっとも実施してみた、あるいは実施しようとしたらしい形跡はあるが、科挙で選抜された者が国政を担当するという体制はついに実現しなかった。(略)

 

 

 

しかしいずれにせよ「科挙抜き律令制」とは「選挙抜き民主制」のようなものである。

というのは中国では官職の世襲は許されず、同時に全中国人に科挙の受験資格があり、合格した者のみが官職につきうる。これは選挙で当選した者のみが国会議員になり、首相にもなりうるのと似た意味を持ち、もしここに「官職の世襲」が入ってきたら、律令制の基本精神は崩れて、文字通り、似て非なるものになってしまう。

 

 

 

中国はこの体制を完成させていったが、日本は別の道を歩んでいった。というのも、この律令制を導入するのは、当時の日本に要請されている政治目的に合わせてこれを利用することが目的であったし、またそれだけが可能であったからである。」

 

 

※ この本、上巻だけは一応読みました。難しく、古文書が載せられている部分は、

理解できない所も多く、それでも興味深く読んでいたのですが、ここで一旦やめます。またやる気が出た時には、続きを載せたいと思います。(12月1日)