読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

論語の読み方 ― いま活かすべきこの人間知の宝庫 ―

「(略)

「子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民能くすること鮮(すくな)きや久し」(雍也第六147)

 

では、この「徳の極致である中庸」とは何であろうか。まず「四書」の一つである「中庸」を開くと、その冒頭に次の言葉が出てくる。

「天が人に授けたものを性という。この人性の自然に従うこと、これを道という。その道を修めること、これを教えという」

 

 

つまり「天の命これを性(せい)と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修るこれを教えと謂う」(一章)であるが、諸橋轍次氏はこれを「天理」と訳し、「天理と人性とは同一のもの」とされる。

 

 

とすると「天理のままの状態」が「徳」であろう。では「天理のままの状態」「人性の自然に従うこと」とは具体的にどのような状態であろうか。(略)

 

 

 

「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」と。

いわばこのような感情に動かされていない状態である。そしてこの状態にあることが前提で、そこではじめて「徳」に至ることができる。

この考え方は中国の伝統的な考え方で、朱子の「近思録」には次のように記されている。

 

 

「……徳は、愛するを仁と曰い、宜しきを義と曰い、理あるを礼と曰い、通ずるを智と曰い、守るを信という。焉(これ)を性のままにし焉に安んずる、之を聖と謂う。焉に復(かえ)り焉を執る、之を賢と謂う………」と。

 

 

したがって、その状態にある者が指導者であれば、おのずから秩序ができあがり立派な政治となるのであって、これが「中庸」の「政を為すは人に在り」であろう。そこでその道を修めることが教えとなるわけである。(略)」

 

〇 天の命とか天理とかがどうもよくわかりません。

天理のままの状態、人性の自然に従うとは、どういうことなのか。

あの「東洋的な見方」を思い出してしまいます。