読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

〇 PCの不具合が酷く、入力がスムーズにいかないこともあり、

ブログの更新が出来ませんでした。

やっと新しいPCになり、また、少しずつメモして行きたいと思います。

斎藤学著「「家族」という名の孤独」という本は、1995年に刊行されたようです。

私は多分そのころ、図書館で借りて読んだのではないかと思います。

家に本は一冊もないのですが、この斎藤学氏が、とても信頼できる人だという

記憶が強くあり、また読み直したい、と思いました。

自分の感想は〇で、本の引用は「」で、表示します。

 

「図々しいのは父親のほうで、我が子を完全にネグレクト(無視、育児放棄)していても、自らの責任を感じない。それどころか、折檻で子どもに大ケガを負わせたような場合でさえ、「あれは躾だった」で済まそうとする。もちろん、治療などに来るはずがない。

 

だから、強制治療が必要だというのである。刑務所か治療かを選択させてもいい。そういうことになって、男たちが治療にやってくるようになったらどうするか。

 

 

私だったら、まずこの本を読ませる。読ませて、親の理不尽な暴力がいかに暴力的な青少年を作るかについてしっかり学習してもらう。夫婦関係の悪さが、いかに子どもを傷つけるかを知ってもらう。その上で、加害者らに子供時代を回想させ、悲惨な子供であった過去の自分に「かわいそうだったね」と優しい言葉をかけてもらう。

 

自分に優しくなった男だけが、妻にも子どもにも優しい。(略)」

 

「彼女らは異国の地で専門職や管理職についている高学歴の女性たちだが、二人や三人の子どもは育てている。彼女たちと日本の高学歴女性たちとの違いは、女房の活躍を喜びながら自分と子どものパンツの洗濯は当たり前と心得ている大人の男を配偶者にしているかどうかというところにあるのだろうと、私は思った。

 

 

日本の男は家というもの、女というものについて根本的な思い違いをしてきたのではないか。女に世話をしてもらいたい、帰りを待っていてもらいたい。誉めてもらいたいなどというのが日本の男であるのなら、日本の女がそんな甘ったれと一緒になって子どもを育てることに情熱を失うのも、もっともなことである。(略)」

 

 

「結局書くことになるのは、私の側の必要のためである。家族や社会というものがひとつの拘束として働いているときに、「自分の欲望」(それを知ること自体が大事業だ)を知り、それに沿って生きることの楽さを知るのは本当にむずかしい。(略)」