読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

こんな日本でよかったね ―構造主義的日本論―

〇 「母語運用能力について」「白川静先生を悼む」という文章が続いています。

読みました。でも、よくわかりません。

そして、その次の「親族の基本構造」という文章も、どうも私には難しすぎます。

でも、何か所か引っかかった所があるので、その部分だけでも、メモしておこうと

思います。

 

「大学院では今期は、「家族論」をやっている。

(略)

日本人の家族論の多くがサル学の知見に依拠しており、精神科医たちまでが霊長類の「延長」として家族をとらえていることに私は一驚を喫した。

 

人間の家族はゴリラやチンパンジーの「家族」とは成り立ち方が違う。

レヴィストロースは、家族論を語る時の必読文献だと私は思うのだけれど、

家族論者のどなたもこの人類学者の置県には特段のご配慮を示されておらないようである。(略)」

 

〇 ヒトとチンパンジーやゴリラは似ているけれど、実際かなり違う。

でも、私たちは自分たちの起源を知ろうとするとき、サルを参考にする。

何故なのだろうと思います。

 

あの「東洋的な見方」から引用します。

 

「何らの努力もなければ、何らの目的も意識せられぬ。ただ興の動くにまかせ、そのままに、飛躍跳動したに過ぎないのである。当面の子供から見れば、何もしていないのだ。


春の野に鳥が啼いたり、若駒が駆けまわるのと、何も変わらぬ。何らの目的をも意識していない。こうなるものとも、考えていない。やむにやまれぬ大和心さえも、ないのである。

これを仏教者は、ことに他力宋徒は「修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る」ようだという。まことにその通りである。老子の「無為」である、東洋人の「無我無心」である。ここに「自由」の真面目が活動する。またこれを活発発地ともいう。」


「人間が自分の生活を何かで締めくくっておくと、便利なことがあるので、この生命の形式化を重宝がる。(略)軌則は後から付けたもの。大用はそんなものにとらわれていない。とらわれているのは、死物だ、「自由」ではない、本物ではない。」

 

〇 何かを意図して演技するのは、「とらわれて」いること。

「修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る」ようで在りたいと思うと、

やはり、動物、サルを見倣うしかない、となるのでしょうか。

 

でも、サルはサル。ヒトではない。

一下級将校の見た帝国陸軍」から引用します。

 

「一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

 

何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。

 

黙って一回撲られた方が楽なのである。(略)そして、表れ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変わらなかった。すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった。

 

人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない。そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実態は海軍の「精神棒」という言葉によく表れている。

 

日本軍は、言葉を奪った。その結果がカランバンに集約的に表れて不思議ではない。そこは暴力だけ。言葉らしく聞こえるものも、実態は動物のう「唸り声」「吠え声」に等しい威嚇だけである。


他人の言葉を奪えば自らの言葉を失う。従って出てくるのは、八紘一宇とか大東亜共栄圏とかいった、「吠え声」に等しい意味不明のスローガンだけである。(略)

 

これがさらに八紘一宇となれば、一体それが、具体的にどんな組織でどんな秩序なのか、言ってる本人にも不明である。こういうスローガンはヤクザが使う「仁義」という言葉と同じで、すでに原意なき音声であり、言葉を奪うことによって言葉を奪われた動物的暴力秩序が発する唸り声と吠え声にすぎない。」

 

〇 「こんな日本でよかったね」親族の基本構造に戻ります。

 

「実例を挙げよう。

母系のトロブリアンド島では、父子はへだてのない親密さで結ばれており、甥と母方の伯叔父はきびしく対立している。コーカサスのチュルケス族では父と子は非寛容な関係にあり、花方の伯叔父は甥を支援し、結婚に際して馬を贈る。

 

また、トロブリアンド島では夫婦は親密であるが兄弟姉妹はきわめて厳格なタブーによって親しく交わることを禁じられている。チュルケス族では逆に兄弟姉妹はきわめて親密であるが、夫婦は人前ではけっして一緒に行動せず、夫に妻の健康を尋ねることはタブーになっている。

などなそ。

 

これらの事例からレヴィ=ストロースはこの二対の親族関係が次のようなルールで律されていることを発見する。

 

この構造は二つの相関的な対立関係で結ばれた四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)からできている。その結果、二世代のそれぞれにおいて、一つのポジティヴな関係と一つのネガティヴな関係が存在することになる。この構造は何か?この構造の存在理由は何か?答えは次のようなものである。この構造は考え得る限り、存在しうる限りもっともシンプルナ親族構造である。これがまさしく親族の源基(l'element de parente)

なのである。      (lbid.,p.56)

 

どうして二世代にわたって二対の対立関係が存在しなけれbならないのか。

その理由をレヴィ=ストロースはあっさりと「インセスト・タブー」として説明している。

 

 

人間社会では一人の男は女を別の男から受け取るしかなく、男は別の男に女を娘または姉妹というかたちで譲渡するのである。(…)親族は静態的な現象ではない。それが存在する唯一の理由は親族が存続することである。

 

 

われわれは人種を継続させる欲望について話しているのではない。そうではなくて、われわれが語っているのは、ほとんどの親族体系において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受け取ったものの間に発生した始原の不均衡は、後続する世代において行われる反対給付(contre-prestations)によって相殺されるしかないという事実である。      (lbid.,pp56-57)

 

(略)

 

 

レヴィ=ストロースが言っていないことでたいせつなことが一つある。

それは子供には戦功世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。

これは男女ともに変わらないと私は思う。

 

成熟のロールモデルというのは単独者によっては担われることができない。

タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。

これは私の経験的革新である。

 

 

 

この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。

この二つの命題の間で葛藤することが成熟の必須条件なのである。

多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子供はすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子供を成熟させないための最も効率的な方法なのである。

 

成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方をならっていない問題を解く能力」を身に着けることである。

成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。

 

 

別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。

「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として思考の対象にし、それについて記述し、それについて分析し、それについて他の人々と意見の交換をし、それについて有益な情報を引き出すことが出来るのが成人だと申し上げているのである。

 

だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。(略)

 

 

子どもはこれを自力で発見しなければならない。

それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。

成熟しない限り、「成熟の為の装置」としての親族の意味はわからない。

親族は本来そのように構造化されていたのである。

 

 

近代の核家族からは「伯叔父」が排除された。

同性を引き裂く二つの原理の対立から、父が代表する父性原理と母が代表する母性原理の性的対立の中に子どもたちは移管された。

 

性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。

というのは、人間は自分がどちらの性に帰属しているかを知っており、どちらの性の原理に従うべきかを知っているからである。

 

 

後期資本主義社会になったら、母たちまでが男性原理を内面化するようになってきた。

権力や年収や威信や情報というそれまで男性にとってしか価値ではなかったものに、女性たちも親族の存続よりも高い価値を見出すようになったのである。

これが現代の子供の置かれた状況である。

 

 

かつての子供たちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。

今の子供たちは「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでいる。

 

 

このようなシンプルな原理の下では子供たちは成熟できない。

だから、成熟することを止めてしまったのである。

親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。

その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか。

 

 

答えは一つしかない。

ここまでをお読みになった方にはすぐにわかるだろうけれど。

        (二〇〇七・一一・七)                  」