読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「終章 国体の幻想とその力

1 国体の幻想的観念

▼「国体」の再定義

以上、われわれは駆け足で「国体」の二度にわたる形成・発展・崩壊の歴史をたどってきた。(略)

ところで、戦後に天皇制を語る際に繰り返し参照されてきた、「一木一草に天皇制がある」という中国文学者の竹内好の有名な言葉がある。

 

 

 

この言葉は、「天皇制的なるもの」が、天皇と実際に近接・接触している政治機構上部の統治エリートのなかで発生し、社会全体に一方的に押し付けられて行ったのではなく、日本社会の至る所で「天皇制的なるもの」が形作られているとの指摘である。

 

 

 

あの天皇ファシズムという異様な統治構造は、それを受け入れる広範で肥沃な土壌があったからこそ、成立し得たのであると。

この指摘は、日本社会のさまざまな組織や共同体にボスと茶坊主たちによる不条理な支配が見られるという現実に照らして、正当である。(略)

 

 

 

それゆえ本書は、天皇制あるいは国体を、基本的にあくまで近代日本が生み出した政治的および社会的な統治機構の仕組みとしてとらえることに、自己限定した。一木一草の揺らぎにまで天皇制の痕跡を求めずとも、われわれは十分検証できるほど近い歴史的起源をたどることでその機能を把握できるはずだ、という確信に基いてのことである。(略)

 

 

 

天皇による宮中祭祀の起源が農耕社会を前提としているのだから、その社会基盤が根こそぎ入れ替わってしまえば、天皇の執り行う宗教的および儀礼的実践は、日本人にとって訳の分からないものとなるだろう、というのが赤坂の見立てである。

しかし、本書で見てきたのは、社会の主要な生産様式に支えられなくとも、近代日本において「天皇制的なるもの」は十分に機能し得る、ということである。

 

 

それはなぜなら、少なくともわれわれにとって身近な天皇制とは、古代的意匠をんまとった近代的構築物であり、天皇の存在そのものならびに天皇制という統治構造が、その出来の良し悪しはともかくとして、近代化を意図してつくられた装置に他ならなかったからである。

 

 

そうであるからこそ、戦後においては、アメリカニズムと天皇との間に、代替可能性が生まれ、アメリカニズムはわれわれをとりまく物質的生活において、それこそ「一木一草に」宿るものとなり得た。

歴史家の安丸良夫は、「近代天皇像の形成」において、「天皇制=近代的構築物」との見方に基いて、天皇制の基本観念を次の四つにまとめている。(略)

 

 

 

主として近代天皇制の形成過程を扱っている「近代天皇像の形成」は、末尾部分で現代における天皇制の機能について言及しているが、そこでは天皇が関与するさまざまな儀礼と国民の日常生活との乖離が指摘され、天皇制は「人畜無害の骨董品」のごときものとなり、国民国家の統合の原理として無力化する可能性が指摘されている。

 

 

 

しかしその一方で、同じ天皇制が、日本国家の統制する秩序の「基本的な枠組み全体のなかでもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している」とも述べられている。

 

 

 

率直に言って、この論旨は筆者には理解できない。なぜなら、一方で天皇制はもはや無力だと言われながら、他方で同時に、全く逆のことが主張されているからである。(略)

 

 

▼「戦後の国体」の幻想的観念

戦前の天皇制については簡にして要を得た特徴づけに成功している議論が、天皇制の現在を扱おうとするや否や甚だしい混乱に陥るのは、なぜだろうか。それは、「戦後の国体」はアメリカという要因を抜きにしては考えられないからである。(略)

 

 

すなわち、「①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統性秩序の絶対性・不変性」における、「万世一系の皇統」の観念は、天皇による支配秩序の永遠性(天壌無窮)を含意するが、今日、外交の場面で大真面目で謳い上げられているのは、日米同盟の永遠性(天壌無窮)である。

 

 

 

ここにおいて米大統領は神聖皇帝的性格を帯びることになるが、安倍政権による米大統領やその近親者に対する接遇の様式は、それを報じるメディアの報道姿勢と共に、この観念を裏書きするものであった。(略)

 

次に、「②祭政一致という神政的理念」における「祭政一致」のそもそもの意味は、司祭者が政治権力を保持する神政政治である。(略)

今日の社会でこれに類似する昨日は、「グローバリスト」たちによって醸成される経済専門家(中央銀行関係者、経済学者、アナリスト等)集団が果たしている。(略)

 

 

 

そして、「③天皇と日本国による世界支配の使命」は、戦前国体の「八紘一宇」のイデオロギーと直結するものであるが、その戦後的形態は「パックス・アメリカーナ」に見いだされうる。後述するように、この観念こそが、今日最も差し迫った危険の原因として立ち現われつつある。(略)

 

 

アメリカが失策を続けている中東の情勢や、激変しつつある東アジアの情勢に鑑みれば、パックス・アメリカーナの追及は、日本に利益をもたらすとは限らない。にもかかわらず、「パックス・アメリカーナへの助力」以外の選択肢が一切思い浮かばないのであるとすれば、それはパックス・アメリカーナが合理的判断から推論される望ましい秩序ではなく、八紘一宇としてとらえられていることを意味するであろう。

 

 

 

最後に、「④文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者としての天皇」もまた、戦後におけるアメリカニズムの流入に鑑みれば、その機能を了解することが出来よう。(略)

 

 

労働慣行の改革や司法制度改革、大学改革等々、「グローバル化への対応」を旗印とした一九九〇年代以降の制度改革において、ありうべきモデルの参照先はまことにしばしばアメリカであった。(略)

 

 

目につくのは、これらの改革が総じて失敗しているにも関わらず、停止されないことである。(略)

あたかも「神国ゆえに負けるはずがない」という命題が、「アメリカ流なので間違っているはずがない」へと転化したかのごとき光景を、われわれは目にしている。そこには一片の合理性もない。」