読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「4 ふたつのアイデンティティ

改憲論争の盲点

(略)

しかし、本書の議論からすれば、「改憲か護憲か」という問題設定は、疑似問題にすぎない。第五章で論じたように、最高法規であるはずの日本国憲法の上位に、日米安保条約とそれに付随する日米地位協定および関係する種々の密約がある。そのような構造を放置したまま、憲法を変えようが護ろうが、本質的な違いはない。

 

 

とはいえ、憲法九条の存在のために、日本はベトナム戦争のごとき不義の戦いに参戦せずに済み、イラク戦争においても部隊こそ派遣したがいわゆる戦闘行為には参加しなかったことを、筆者は心底幸いであったと考える。(略)

 

 

平和運動家の梅林宏道は、一九九五~九六年にかけて日米間で行われた「安保再定義」について、まずアメリカ側の認識を次のようにまとめている。

 

 

つまり、日米安保体制とは、締結時に意図した対ソ防衛体制ではもはやなく、米軍の全地球的(超地域的)な展開を支える体制であるというのが、米国の認識となり、公然と語られるようになっていたのである。

 

 

(略)

 

しかし、日米両政府はそのような意図を全く持たなかった。このアメリカ側の「認識」に対して日本政府の側は次のように応えたという。

 

(略)

 

要するに、日本にとっての脅威が存在しなくても米軍は駐留を続ける、ということである。「在日米軍は日本を守ってくれるために駐留している」という日本人の「漠然たる常識」は、ほかならぬ日本政府によって否定されている。(略)

 

 

その間、一九九六年の「安保再定義」が打ち出した方向性に従って、日米の軍事協力、より端的に言えば、軍事力の一体化は進み、二〇一四年の集団的自衛権を行使容認する閣議決定へと至る。(略)

 

 

米軍によるグローバルな戦争遂行、それによる激しい悲しみと憎しみの喚起ということにおいて、日本が集団的自衛権の行使を認めようが認めまいが、われわれはすでに十分に、米軍の共犯者である。つまり、憲法九条は現実にわれわれを平和主義者にはしていない。

 

 

 

▼ 矛盾の在り処 ― 憲法九条と日米安保体制

また、憲法論の次元で言えば、矛盾の根本があるのは憲法の条文と自衛隊の存在との間にではなく、憲法日米安保体制との間である。(略)

 

 

 

つまり、戦後日本が憲法九条を持つ「平和国家」であるということとアメリカの戦争への世界最大の協力者であるということが、矛盾であるとは認識されず、奇妙な共存を続けてきたのである。元防衛官僚であり、退官後の現在は安倍政権による集団的自衛権の行使容認の決定を批判する論陣を張っている柳澤協二は、次のように語っている。

 

 

現実の日本のアイデンティティーは、唯一の被爆国であるとか、戦争は二度としないのだということを敷衍していく中で、自衛であっても戦争は許されないのだというような発想になっていったと思います。

 

 

しかしもう一つのアイデンティティーとして、私が政府にいて推進していたのは何だと言ったら、アメリカにとってより良い同盟国であるというアイデンティティーでした。

だから特に冷戦が終わってから、日本のアイデンティティーは何だと問われて、アメリカの同盟国であるという以外になかなか出てこない。

 

 

結局、アメリカがやろうとすることをいかにお手伝いできるか、たくさん手伝えるほうがいい同盟国であるというものでしかありませんでした。

 

 

けだし率直な弁だと言うべきであろう。(略)

仮にわれわれに、「アメリカの良き同盟国」(正確には、「ジュニア・パートナー」あるいは「属国」)というアイデンティティーしかないのであれば、われわれは「アメリカ帝国の忠良なる臣民」としてアメリカの弾除けとなる運命を喜んで甘受すべきなのであり、安倍政権は戦後のどの政権よりも露骨にその方向へと舵を切った。(略)」