読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼私的幸福への沈潜と公なるものに対するニヒリズム

(略)

吉本の考えでは、戦後民主主義なるものに成果があるとすれば、それは、戦争体験と敗戦直後の経験を通じて、「天下国家・公なるもの」の欺瞞性を日本人が徹底的に認識し、国家によってであれ、「公共の利益」の名のもとに動員されることを断固として拒むようになったことにほかならない。言うなれば、「公なるものに対するニヒリズム」が、戦後民主主義の成果なのである。(略)

 

 

 

 

そして、私的幸福への沈潜は、結局のところ欺瞞に満ちた抑圧でしかない「公なるもの」へと動員さえることよりもよほどマトモであり、そのような感覚を当時の日本人が戦後民主主義の成果として身に着けつつあるのだという吉本の時代判定は、「政治の季節から経済の季節へ」という安保闘争後の時代の転換に徴して、「安保闘争戦後民主主義の成果」という見方よりも正鵠を射ていた。(略)

 

 

そして、吉本にとって、生活保守主義的であることと、最も過激に振舞うことが矛盾でなかったのは、次のような論理によってであった。

 

安保闘争というものに参加しないで、家庭の幸福を追求していて、しかし全学連の主流派のラジカルな行動を直接的に支持するという声なき声があったと思うんですよ。

 

 

吉本のこうした想定がどこまで正確であったかは不明である。(略)

 

 

 

つまり、吉本が加わった全学連主流派の行動の動機もまた、「公なるものに対するニヒリズム」であったと彼は事実上総括しているのである。(略)

いかなる過激な行動も公共性に到達しない、言い換えれば十全な政治的意味を持ち得ないことが半ば自覚的に前提されているからである。(略)

 

 

2 政治的ユートピアの終焉

三島由紀夫が嫌悪した「戦後の国体」

「理想の時代」は、「戦後の国体」がさらなる虚構性とねじれを帯びてゆく中で、その終焉の刻印を押されることになる。(略)

 

 

 

非核三原則は、いかなるかたちでも日本国は核兵器と関わらないことを宣言するものであるが、アメリカはそれ以前もそれ以後も日本に核兵器を持ち込む事実上のフリーハンドを持っていると見られ、その内実は全くの骨抜きのものにすぎなかった。(略)

 

 

この状況に深く苛立った人物のひとりが三島由紀夫であった。三島は、死の三か月前に次のように書いている。

 

 

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思ってゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

 

 

 

ここで三島が心底嫌悪している空虚な「経済的大国」こそ、「アメリカの日本」としての「戦後の国体」という選択によって可能となった果実であった。

三島の脳裏を常に去らなかったのは、膨大な数の彼と同世代の戦死者たちであったことは確実と思われる。「こんなもののために彼らは死んだのか?」— この憤りが、最終的には作家を決起へと至らしめ憤死をもたらした。

 

 

言うまでもなく、今日、三島が悲観した状況よりも、情勢はさらに悪化した。なぜならもはや、経済的繁栄も失われつつあるからである。

 

 

 

▼右からの大逆— 三島の決起と自決

一九七〇年一一月二五日、三島はあの衝撃的な事件を引き起こす。三島の決起は、巨大な謎として残り続け、今日でもその解釈論議は延々と続いている。(略)

 

 

そして、今日の視点から見て、三島の檄文において最も不可解であるのは、決起の前年にあたる昭和四四(一九六九)年一〇月二一日という日付への非常に強いこだわりである。(略)

 

 

 

一〇月二一日は国際反戦デーであるが、全共闘運動が盛んであり、ベトナム反戦運動も高揚していたなかで、三島はこの日に左翼勢力と政府の間で、六〇年安保に匹敵する大規模な争乱が起こることを期待していたと見受けられる。(略)

 

 

 

これらの不可解な点をめぐって、英文学者・鈴木宏三は、大胆な、しかし綿密に構成された仮説を提示している。それによれば、一九六九年一〇月二一日に自衛隊が治安出動する事態となれば、三島由紀夫は縦の会のメンバーを率いて皇居に突入し、昭和天皇を殺したい、という願望を持っていたのではないかという。(略)

 

 

しかし、三島の「英霊の聲」に示された激しい天皇批判が、「天皇が神たるべき時に神足らなかった」という命題に約言されるならば、「戦後の国体」の作り手としての天皇にも、同じ批判は向けられうるであろう。仮に三島の本望が大逆であったのだとすれば、それは、「擬制の終焉」(吉本隆明)どころか、擬制が現実を覆いつくさんとするなかで、擬制の核心と我が身をもって文字通り斬り結ぶ行為であった。

 

 

 

▼左からの大逆 ― 連続企業爆破事件と天皇暗殺未遂事件

三島由紀夫の行動に「右からの大逆」の意図が密かに込められていたのだとすれば、同時期に起こり、この時代の終焉を告げた「左からの大逆」と呼びうる出来事が東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件と天皇暗殺未遂事件(「虹作戦」)であった。

 

 

 

これらの事件は、大きな被害を出したにもかかわらず、同時期の左翼過激派による事件 ―連合赤軍事件や、日本赤軍による海外でのテロ活動 ― に較べて、今日では格段に言及されることが少ない。(略)

 

 

彼らの論理はおおよそ次のようなものだった。大日本帝国帝国主義は、敗戦によって打撃を受けたものの、その罪の総括と償いの義務をあやふやにやり過ごした。それは、日米安保体制の庇護下で復活を遂げ、かつての植民地帝国の版図内で再びその人民や資源を搾取している。戦後日本の経済発展とは、まさにこのことの成果にほかならない。

 

三菱重工三井物産が標的とされたのは、これら財閥資本が明治維新以来の日本版軍産複合体の中核に位置する企業であり、あの戦争をもたらし受益した責任を問われるべきであるにもかかわらず、ほとんど無傷で生き残り、戦後もまた日本資本主義の中核的企業グループを成しているためであった。(略)

 

 

 

かくて、戦後日本は「正解帝国主義に位置する」帝国主義国家であり、その住民は、たとえ小市民であっても、「日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者」であり、彼らの爆弾によって殺傷されても、無辜の犠牲者などではない、とされる。(略)

 

 

敗戦以来の革命的民主主義改革の流れがついには「擬制」をあらわにすることに終わったことを目撃した吉本が、左翼過激派のニヒリズムと生活保守主義者のニヒリズムとの暗黙の同盟に彼の政治的賭金を置いたのに対して、東アジア反日武装戦線のメンバーにとっては、後者は単に殺害されるべき存在、端的な敵となった。(略)

 

 

もっとも、無差別テロを是認する論理については彼ら自身が後に撤回し、三菱重工爆破事件以降の事件では一般人犠牲者が出ないように爆破を行なうようになる。(略)

 

 

 

彼らにとって、昭和天皇は、かつての大日本帝国帝国主義のシンボルであると同時に、戦後も君臨していることによって、再建された日本帝国主義のシンボルであり、それを殺害することは「日帝の歴史、日帝の構造総体に対して”おとしまえをつける”こと」として認識されていた。(略)」