読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼第二、第三の<狼>

先にも述べたように、東アジア反日武装戦線を世論は激しく指弾した。(略)

このように、彼らは世間から理解を拒否されることをもとより覚悟していたわけだが、その予想通りに、鈴木邦男の言葉によれば、マスコミは「「彼らは気違いだ」「人間ではない」といった、ヒステリックな糾弾キャンペーン一色」となった。

 

 

 

だが鈴木いわく、全く別の反応もあったのだという。犯人逮捕後、救援連絡センターには異例なほどに多額の救援カンパや物資の差し入れが集まっていたという。しかし、そのような状況は報道されない。その理由を鈴木は次のように指摘している。

 

 

すなわち<気違い>にすることによって、彼らの思い詰めた背景も、理論も無視することが出来るからである。(中略)

 

 

あの三島事件の時も、[日本赤軍の]テルアビブ事件の時も、そうであった。(略)

 

 

鈴木の言うようには、「第二、第三の<狼>」は出なかった。しかし、東アジア反日武装戦線が過激な方法によって提起した問題は、「何ら解決はしていない」がゆえに、形を変えて今日まで埋火のようにくすぶり続けている。(略)

 

 

 

そして、「第二、第三の<狼>」は「形を変えた」というのは、東アジア反日武装戦線のような日本人による思いつめた自己批判ではなく、あの戦争の未処理の問題を、被害者自身が追及するようになったということだ。一九九五年には、花岡事件に関して鹿島建設(旧鹿嶋組)が損害賠償請求訴訟を起こされ、二〇〇〇年に和解金五億円を支払うことになったことはその一端であり、日韓の間の懸案であり続けている従軍慰安婦問題はその典型である。(略)

 

 

▼なぜ「自立した日本帝国」を指定したのか

東アジア反日武装戦線の理路には、さらに読み取られるべき特徴がある。

(略)

これは、戦後日本がすでに自立した帝国主義国家と化していると見る立場である。

戦後日本を「日帝本国」と呼び、労働者階級まで含めた日本人全体を「帝国主義本国人」と呼ぶ東アジア反日武装戦線が、日帝の草刈り場たるアジア諸国民への「血債」の返却を迫るのは、この立場を真っ直ぐに敷衍したものである。

 

 

 

今日奇妙に映るのは、なぜこれほどまでに戦後日本の「自立性」が強調され得たのか、ということだ。(略)

してみると、六〇年安保闘争を根っこのところで衝き動かした動機が占領者としてのアメリカに対する反感であったとすれば、この自立性の過度の強調はナショナリズムの無意識的な発露であったようにも思える。(略)

 

 

 

▼「理想の時代」のエンドロール

とはいえ、六〇年安保から約一五年を経て、日帝自立論は相対的に現実に近付いていた。(略)

ゆえに、三島由紀夫の死と東アジア反日武装戦線テロリズムは、政治ユートピアを求める「理想の時代」の終焉を、言い換えれば、「アメリカの日本」である現実に対する原理的な異議申し立ての終焉を意味したのと同時に、来るべき「アメリカなき日本」の時代への移行を刻印する。(略)

 

 

 

出口のない、完成された擬制のど真ん中で、三島は自らに刃を突き立てた。それはあたかも、虚構的存在となった祖国の有り様を自分自身に集約させ ― 言うまでもなく、楯の会結成から自決に至る途上の三島の姿は極度に芝居がかっていた —、それを切り裂くことによって、虚構から腸をえぐり出そうとするかのごとくであった。(略)」