読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「(略)

 

▼ 「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」

右に述べてきた歴史の三段階における各時代の簡潔な特徴づけは、次のように可能である。

先に言及した大澤真幸は、見田宗介が一九九〇年に提示した戦後の時代区分(「理想の時代:一九四五~六〇」「夢の時代:一九六〇~七〇年代前半」「虚構の時代:一九七〇年代半ば~九〇」)を参照しつつ、独自の戦後の時間的な区分を試みている。

 

 

 

それによれば、一九四五年からおよそ七〇年までが「理想の時代」、一九七〇年頃からオウム真理教事件の発生する一九九五年までが「虚構の時代」、一九九五年から現在までが「不可能性の時代」として定義される。

 

 

大澤は、彼独自の「第三者の審級」概念の社会的作用ないし機能不全を基準としてこうした区分を行なっている。その詳細には本書では立ち入らないが、われわれにとってこの区分規定は示唆的である。というのも、「理想」、「虚構」、「不可能性」は、戦前・戦後両方の三つの時期を特徴づけるのにふさわしい概念なのである。

 

 

第一期は、近代前半(戦前)においては「封建社会から一等国へ」という「理想」が追求・実現された時代であり、近代後半(戦後)においては「焦土から文化国家・平和国家へ、そして経済大国へ」という道程をたどった。いずれも、明快な「坂の上の雲」があり、それを目指した時代である。(略)

 

 

 

そして第二期は、あたかも「天皇なき天皇制国家」「アメリカなき日本」が可能であるかのような空気が醸成されたという意味で、「虚構的」であった。(略)

 

 

 

第三期は、第二期の虚構性に孕まれた潜在的な矛盾が昂進し爆発的に露呈する時代として定義されよう。そのような世界において人々が現実を認識する準拠点を、大澤真幸は「不可能なもの」と呼んでいる。「不可能なもの」とは、近代前半においては「国民の天皇」の観念であったと言えようし、近代後半においては「アメリカに抱かれる日本」あるいは「日本のアメリカ」であろう。(略)

 

 

 

5 天皇アメリ

▼「憧れの中心」としてのアメリ

右に述べてきた「天皇アメリカ」あるいは「天皇(戦前)からアメリカ(戦後)へ」という視点は、直接的には日米安保体制の歴史に対する洞察から与えられた。

ただし、それ自体では軍事的な同盟関係を意味するにすぎないものが、「国体化」する、すなわち、戦前のレジームにおける天皇制の継承者となって、国民の精神にも絶大な影響を及ぼすという事態は、軍治的次元や狭義の政治的次元において生起したものではあり得ない。(略)

 

 

 

敗戦直後、憲法改正を審議する国会で、憲法担当国務大臣であった金森徳次郎は、日本人にとっての天皇を、いみじくも「憧れの中心」と定義した。そして、豊かさの光を眩く放つアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを中心とするアメリカニズムもまた、戦後社会において「憧れの中心」となってゆく。

 

 

▼ 「近代化の旗手」としての天皇

この側面を考察の中心に据えているのが、社会学者の吉見俊哉による議論である。彼の著書「親米と反米 ― 戦後日本の政治的無意識」(二〇〇七年)に従えば、次のように考え得る。

 

 

すなわち、「天皇制は古いものであり、純日本的なものである」という広く流通している社会通念に反し、モダニズムそのものであるアメリカの存在が、天皇制にとって根本的構成要素として機能している。(略)

 

 

そしてr、「近代化の旗手」の役割は、近代の天皇もまた果たしてきたものにほかならない。(略)

おそらくは、戦後の天皇あるいは皇族のこの役割が最も力強く機能したのは、一九五九年の皇太子(今上天皇)の成婚に伴って起きた「ミッチー・ブーム」においてであっただろう。(略)

 

 

 

▼ 置き換え可能な天皇アメリ

以上を踏まえれば、「近代化の旗手としての天皇」と「アメリカ的なるもの」との間には、一種の交換可能性、代替可能性を想定できることがわかる。(略)

しかし、述べてきたように、「戦後の国体」を考えるためには、政治史的事実の次元においても、国民生活の精神史的事実の次元においても、アメリカ(的なるもの)の存在を参照することは不可欠である。

 

 

 

▼ 本書の記述の方法

これで本書が試みる歴史把握のための準備は整った。次章から、具体的歴史過程について論じてゆく。(略)」