読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(あとがき)

〇 竹田・加藤・橋爪氏による「天皇の戦争責任」のまえがきは、竹田氏によって

書かれていました。あとがきは、加藤氏と橋爪氏によって書かれています。

私にとって、加藤氏の言説は、分かり難いものが多く、少し苛立たしい気持ちになることも、ありました。そこで、ここでは、橋爪氏のあとがきを、メモしておきたいと思います。

 

「あとがき――

 天皇は、戦争の死者を裏切ったか

                         橋爪大三郎

 

(略)

この討論は、いま振り返ってみると、現代版の天皇機関説論争だった、と言えるのではなかろうか。もちろん、加藤氏が天皇親政説の側であり、私が天皇機関説の側である。

討論の中で、加藤氏は繰り返し繰り返し、戦争の死者に対する天皇の道義的責任に言及し、天皇その人はいったい何を考えていたのだろうと疑問を投げかけ、それについて天皇が発言しないまま死去してしまったことが非難に値するとした。

 

 

なぜ加藤氏がこの事情にそれほどこだわるのか、討論のときに私はもうひとつピンとこなかった。けれども、加藤氏と私の違いを、天皇機関説論争になぞらえてみるならば、加藤氏がそう主張しなければならなかった理由も理解できる。

そしてそこに、加藤氏の議論の問題点も集約されているのではないかと思う。

 

 

討論のなかで、加藤氏は自著「戦後的思考」(一九九九年十一月刊)の、三島由紀夫の「英霊の声」に関する議論を紹介している。(略)

その後、単行本となってから全体を通読し、今回あとがきを書くにあたってまた読み返してみて、加藤氏のモチーフが私のなかで像を結んでくるように思った。

 

 

 

加藤典洋氏の三島由紀夫についての論は、これまで私が目にしたどの三島論よりも説得的で、なるほど文学とはこういう作業ができるのかと、感心しながら読んだ。

加藤氏はここで、「仮面の告白」「憂国」「英霊の聲」をとりあげる。加藤氏によれば、三島は戦前と戦後の断絶とつながりをもっとも深いところでたどろうとした唯一の存在である。三島は、文学作品のなかで驚くほど正直に、「二重構造=仮面」性を自分の本質としてさらけだしている。(略)

 

 

 

三島由紀夫は、戦前にも戦後にも忠実でなかった。戦争の死者たちを裏切り、戦後的価値観からも距離を置いた。そして、〈戦争の死者と自分の関係の客観的相関物を、戦争の死者に対する「裏切り」の中心的存在、昭和天皇その人に、見出している〉(「戦後的思考」四三四頁)。三島にとっては、三島由紀夫昭和天皇、という等式が成り立つことが重要である。

 

 

 

そこで、皇道派青年将校の霊、特攻隊の死者たちの霊が、〈「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という糾弾の言葉を唱える〉(同・四三七頁)。そして、霊たちの言葉を述べていた霊媒の川崎君(三島の分身)が最後に死亡すると、その顔が、別人の顔に代わっている(加藤氏の丁寧な論証によれば、それは昭和天皇の顔である)。

 

 

 

〈これまで昭和天皇を糾弾して来た三島自身が、その「仮面の告白」に耐え切れず、息絶え、仮面をはぎとられてみると、実は昭和天皇だったという、どんでん返しの結末〉(同・四四八頁)になっている。

たしかにこの小説は、そのように読むべきであろう。ここまでの加藤氏の分析の手並みは、みごとと言う他はない。

 

 

 

問題は、その先である。

三島由紀夫昭和天皇、の等式は成立するのか。昭和天皇は、三島と同じように、戦争の死者たちを裏切ったのだろうか。加藤氏の言うように、〈敗戦後の天皇人間宣言が戦争の死者たちへの背信である理由は、……戦争時における政治的精神的道義的な「臣民」とのコミットメントを、一方的に破棄したことに、ある〉(同・四四六頁)のだろうか。

 

 

 

 

私が思うに、この等式は、あくまでも三島の側からのものである。三島からみて、天皇が自分の同類に見えたという話にすぎない。

皇道派青年将校は、二・二六事件のあと、天皇に裏切られたと思ったであろう。特攻隊の若者や戦争の死者たちが、天皇に裏切られたと思ったかどうかはわからない。

 

 

 

天皇の裏切りを問題視する視線は、皇道派青年将校三島由紀夫加藤典洋、と受け継がれている。さらにその元をたどれば、軍人勅諭がある。明治憲法が制定されることになったので、軍隊を、政府や議会と関係なく、天皇が直接統帥するというイデオロギーを、山縣有朋が考案した。天皇個人と、応召する軍人たちとの間にコミットメントがあるという発想は、軍人勅諭の発想であり。

 

 

 

山縣有朋皇道派青年将校→三島→加藤は、束になって、三島=天皇、すなわち、天皇に責任がある、と言う。しかしこれは、成り立たない。なぜならば、昭和天皇は、三島とあべこべに、戦前にも戦後にも、両方に忠実だったからだ。

 

 

天皇は、三島と違って、逃げ隠れのできない君主である。そして戦前の日本帝国憲法、戦後の日本国憲法に忠実に行動した。「戦前と戦後で変わった所はなんですか」という新聞記者の質問に、とくに変わらないと思う、と答えているのは、偽らざる率直な気持ちだろう。また天皇人間宣言は、真崎教育総監に反対して天皇機関説を支持したように、戦前からもともとそう考えていたことを述べたにすぎない。もちろん、その宣言の政治的な効果は十分に理解していたろうけれども。

 

 

 

昭和天皇は、戦争の死者を裏切らなかった。もちろん裏切ったという意識もない。だから、そのことについて発言するはずはなかったのだ。

 

 

 

それではなぜ、加藤氏をはじめ少なからぬ人々は、天皇が戦争の死者を裏切った、と信じるようになるのだろうか。

それはひとつには、日本国民が、戦前から戦後への変化を、受け身のかたちでしか体験しなかったからである。

 

 

 

人々は戦前、総力戦の体制のもと、戦争に積極的に協力した。徴兵に応ずることを含め、それは公民の義務であり、正しいことであった。そして戦後、平和と民主主義の価値観のもと、経済的な繁栄を求め、懸命に生きた。戦前から戦後への移行は、大きな屈曲であり、異なる空間への飛躍だった。それでも、同時代を生きた大部分の人々は、それが、生きていくためにはやむをえない屈曲であり飛躍であることを、身体で感じ取り、理解していた。

 

 

 

そして、そのような屈曲と飛躍を可能とするため、天皇が重要な役割を果たしたことを評価していた。だからこそ終戦直後、九割以上の人々が天皇制を支持すると答えたのだ。三島由紀夫や非転向の共産党員の感覚は、例外的少数者のものである。

 

 

戦前、天皇統帥権者として、戦争を指揮する役割を担った。戦争の死者たちは、天皇の指揮に従って戦争に携わり、命を落とした人々である。だがそれと同時に、天皇は、大日本帝国の主権者として、日本国民の生命と安全に責任をもつ立場でもあった。

 

 

戦争を遂行することで亡くなった三百万の死者(失われた生命)は、たしかに大きい。しかし、戦争を終結することで戦後に生きのびた七千万人の生命はさらに大きい。天皇は、これ以上死者を増やしてはならないというぎりぎりの段階で、戦争を終結させ、自らの手で日本を戦後という時代にむかって推しだしたのだ。このように主体的・能動的にふるまった人物は、天皇ただひとりだと言ってよい。

 

 

 

戦後の死者たちは、戦争からの生還者たちと切り離されて存在するわけではない。戦前(戦争が戦われていた間)、それは誰が死者、誰が生還者となっても不思議でない、入れ替わり可能な一体のものだった。

 

 

 

戦争が終わることで、戦争の死者となる扉が閉ざされ、死者/生者が、戦前/戦後の両側に分けられた。それでも戦後しばらく、生者たちは、自分たちが戦前から生き延びたものであることを濃厚に意識していた。その意識がうすれ、戦争の死者たちが戦後と切り離された、まったく意味づけられない存在となったのは、加藤氏も指摘するように、戦争が遠いものになった、ごく最近のことである。

 

 

 

戦前/戦後の二重性を、誰の目にも見えるかたちで生き、年老いた昭和天皇は、だから、戦後にふさわしい象徴天皇であったと、私は思う。

 

 

 

加藤氏が「戦争の死者たち」という場合、そのなかに加藤氏を含めていない。戦争の死者たちは、戦後日本を外からみる他者たちであり、彼らの行為や思いは、戦前の文脈の中で意味づけられる(戦後からは意味づかない)。

 

 

彼らは戦前の意味や価値のもとで、端的に言えば天皇のために、死んだ。いっぽうその天皇は、退位しないまま、戦後日本にあり続けた。天皇が戦争の死者たちを裏切り、その責任を認めて反省するのでないと気が済まないのは、さもなければ(天皇を経由するのでなければ)、加藤氏自身の中に、戦争の死者たちとつながる道筋を見つけられないと考えているからだ。

 

 

 

しかし私は、戦争の死者たちを、自分のことだと考えることができるし、考えるべきだと思う。加藤氏は、戦前の日本軍が、シヴィリアン・コントロールの不十分な、非近代的な軍隊であるという。そのとおりであろう。そこで加藤氏は、そんな軍隊にあって戦争を積極的に担ったからには、それはよくよくのこと、すなわち、天皇のよびかけに対する応答(コミットメント)としてしか可能ではなかった、と考えることになる。

 

 

 

そうだろうか。市民社会が不完全であるとして、そこには市民の義務は存在しないのか。私が「公民の義務」と述べたのは、戦前の日本軍に人々が応召したのは、天皇がよびかけようとよびかけまいと、それが近代社会を生きる市民の義務だったから、という水準を抽出できると思うからだ。

 

 

総力戦を戦うため、たしかに、戦前の日本は皇国史観をはじめ、あらゆるイデオロギーを総動員した。日本軍はその表象におおわれており、それを信じて戦地へ赴いた者もいるだろう。けれども、そもそも総力戦とは、市民社会が国家の戦争目的に合わせて再編成される過程であり、「公民の義務」が根底になければそもそも成り立ちえないものなのではないか。

 

 

天皇は、満州事変も日華事変も、大東亜戦争も、大日本帝国の法令にもとづいて、合法的に遂行されている戦争であると理解していた。合法的な命令に従って、戦地に赴いた人々は、正しく行動した。その結果、生命を失った人々のことを、天皇は残念に思っている。また、戦争目的は達せられなかったし、戦争目的そのものが間違ってさえいた。

 

 

 

そして天皇は、戦後、この戦争目的を否定する新しい憲法に忠実に、行動するようになった。言えるのはここまでであり、これらの事実の総和から、天皇が戦争の死者たちを裏切ったという結論は出てこない。むしろ、天皇は戦争の死者たちを守っているのだと言えよう。

 

 

 

昭和天皇は、戦前/戦後の連続性と非連続性について、もっともよく体現していた人物であると思う。天皇は誰よりも、その当事者であったのだから。天皇の責任を追及する人々のほうに、むしろそれが欠けていると私は感じる。

 

 

天皇に戦争責任などないほうが、よほど話がすっきりする。それならこの前の戦争は、「公民の義務」を果たそうとした一人ひとりの日本人の責任になる。「公民の義務」を果たしたはずが、なぜ忌まわしい戦争になってしまったのか。そのメカニズムを解明することも、彼ら日本人の責任になるし、それはストレートに、戦後のわれわれの責任でもある。

 

 

 

最後に、感謝のことばなどを。(略)

 

   二〇〇〇年七月三日              」

 

 

〇 以上で、加藤典洋橋爪大三郎竹田青嗣 著 「天皇の戦争責任」のメモを終わります。

 

私が一番強く持った感想は、加藤氏のような人(聡明な人)でも、天皇に関しては、

皇道派青年将校のような、天皇親政説論者になってしまう現実がある、ということの

やりきれなさです。

宗教は理屈や合理的判断ではなく、血や肉に沁み込むように心に入り込んでしまったもの、という言葉を聞くことがありますが、私たち日本人にとって、天皇は、日本神道と微妙に絡み合っているため、何かの拍子に、あっという間に、宗教的な力で、国民が乗っ取られてしまう可能性もゼロではないと感じます。

 

実際、安倍政権では、意図的にその路線を狙っていたようなフシもあり、おそろしいと思います。本来、日の丸や君が代は、私たちの大切な国旗や国歌であるのに、その汚い企みがいつもその陰に見え隠れするので、心から素直に、それを尊べない状況になっています。意識的にその企みと闘いながら、天皇制を大切にしていくのは、難しい道だと思います。