読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第三部  敗戦の思想)

 

「脱・天皇

 

竹田 最後に、なぜ革新、保守という枠組みでの戦争論天皇論はもはや無効なのか、その先どういう所へ出ていけるのかということを、できるだけポイントをしぼって言ってもらえませんか。

 

加藤 昭和天皇の責任が、左翼的に追及しようというのとは違う形でプログラムにあがるところまで、ようやくたどり着いたという印象を僕は持っているわけです。普通の人間が天皇のことを「あのおじさん、なにを考えてたのかなぁ」と思う、そういう問いのところまで、ようやく来た、それはこれまでになかった段階だという認識なんです。

 

 

たとえば今までの革新派というのは、戦後憲法の中心は第九条だと言うけれど、第一条の天皇の規定は無視する。少なくとも軽視します。また、従来型の保守派であれば、憲法という第一条の天皇の規定をあげて戦前から連続していると言うけれども、第九条のことは言わない。少なくとも軽視する。ここにも共犯的な相互依存の関係があって、第九条を強調する人は第一条の天皇規定を日陰者あつかいし、第一条の天皇規定を強調する人は第九条の戦争放棄条項を日陰者扱いするという、一対の補完構造がある。(略)

 

 

 

橋爪 日本の近代の経験というのは、天皇と切り離すことができない形で迎えられていて、それでこれまでずっと続いていたでしょう。そうすると、日本近代のルールなり規範なりに近代人としての日本人が従う場合、最終的な根拠がどこにあるかと考えていくと、このルールが普遍的だからとか、このルールの従わないと信念に背くからとか、処罰されるからとかいう形にはならなくて、かならず内部に天皇というものが密輸入されている。

 

 

そして、ほかの人間も天皇に従っているからとか、昔からこういうふうにやって来たからとか、そういうエクスキューズでもって出来上がっていると思う。

だから、近代ルールに従っているつもりなんだけれど、天皇というローカル・ルールが混じっているがために、たとえば国際ルールに違反してしまったり、思想のゲームを展開していると妙なことになったりする。そういう副作用がたくさんある。

 

 

 

それから、人格とか個人の尊厳とかいうことで言うと、日本でこれという用意もなしに自己形成しようとすると、自己と世界との関係がうまい同心円にならないで、もとのところからかならずちょっとずれてしまって、次の円をあてもなく描いていったりとか、そういうぶざまなかたちになるような気がするわけです。(略)

 

 

たしかに世の中は豊かになり、民主的になってよくなっているんだけれど、しかしあるところでは、かえってその構造はひどくなっている。その源はどこにあるんだろうと考えていくと、日本国の奇妙な成り立ちのなかにもそれがあって、江藤淳が言っている検閲とか、八月革命説だとか、妙なことがいっぱいある。(略)

 

 

 

橋爪 民主主義を名乗っているがゆえに、堕落するという構造がずっとぬぐえないと思う。それで気にしていたわけなんです。(略)

 

 

 

橋爪 明治維新のときに、外国人にいわれもなく差別され、小さな島国の劣等な国民であるというあつかいを日本人は受けた。(略)

だけど、日清、日露で勝ったあとに教育を受けた人たちは、加藤さんが独善と言ったけれど、その独善が無意識にいきわたるような形で日本人として自己形成した。アジアの人々が日本に対して反感をもち、日本を絶対に許さないという理由は、個々の具体的な被害もさることながら、その日本の独善にあると思うわけです。(略)

 

 

 

アジアがなにか言うと、やたらペコペコしたりするけれども、アジアの人々がどういうまなざしで日本を見て、何に怒ってそのようなことを言っているかということにあえてに耳を閉ざし、目をふさいでいる。相手の実態に対して無知であり、自分に対して過剰に防衛的にふるまうということが、ポジティヴにでれば独善で、消極的にでれば……

 

 

加藤 迎合。

 

 

橋爪 うん、そうです。ということで、その構造は全然変わってないんじゃないかと思う。

 

加藤  僕もね、そんなに楽観はしてないんです。ただ、少なくとも戦争に負けたことで、いまみたいな会話が可能になった。(略)

 

 

 

橋爪 日本の言論に関して言えば、そんなに楽観できないと思うんですよ。日本人の偏見のあり方をごく概括的に言うと、日本は日本であって、その外側に異文化の世界が広がっているというふうには認識しているんだけれども、それが有力な世界文化でないかぎり受け入れないという原則を持っている。

 

 

昔はそれが中国だったわけですが、百五十年前からは、欧米であるなら受け入れるということになった。(略)

 

 

 

竹田 今回、ほんとうに天皇議論は語りつくしたという感がありますが、いちおう最後に司会者として僕の立場から感想を言わせてください。(略)

もちろん過去の日本がしたことをしっかり理解することは不可欠のことです。でも、僕はお二人がそうだとは実は思っていないけれど、それがお国批判に終わるようなものであれば大した意味がないと思う。そうではなくて、近代の国家関係の普遍的な理解にとどくためのものでなければならないと思います。(略)

 

 

 

だから、日本という国はとにかく駄目だとか、日本思想の弱体などは、別に擁護する必要もないが、強調する必要もないというのが、僕の感想です。むしろひっとしたら、そうとうひどい「ねじれ」があって、さんざんこの「ねじれ」に苦労するという経験をもった日本から、ヨーロッパ=近代の「原罪」のリアクションとしての思想を乗り越える可能性がでてくるかもしれない。(略)

 

 

 

われわれはひどい「悪」を行なった、そのことで世界中の人々に非難されている。二度と「悪」を行わないように考えよう。思想は、そういうリアクションだけでは弱すぎる。戦争全体、ヨーロッパ全体、近代全体をもう一度とことん考えなおさないといけない。お二人の問題提起は、そういう流れの端緒に立つものだと思います。」

 

 

〇 この竹田氏の言葉で、この「天皇の戦争責任」は終わっています。

とても難しくよく理解できない所が多かったのですが、一応最後まで読みました。

多分、私は途中で投げ出すだろう、と思いながらも、最後まで読んだのは、難しい内容ながら、この「天皇問題」が、一般庶民を一絡げにして、動かすほどの力があるという、何か直観のようなものが私の中にもあったからだと思います。

 

 

この後に、加藤氏と橋爪氏の「あとがき」があります。

次回は、橋爪氏のあとがきをメモしたいと思います。