読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼不可視化され、否認された「主権の制限」

かつ、この問題は、占領が終わることによって自動的に解消されたものでもない。

サンフランシスコ講和条約の発効による占領の終結は、バーンズ回答に言う、「最終的ノ日本国政治ノ形態」が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラル」ことができる状況に移行した、つまり国体・政体の在り方を決める決定権を日本が回復したことを本来意味したはずである。

 

 

 

しかし、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。先述したように、アメリカが形式上主権を回復した日本に求めたのは、「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス米大統領特使)であった。(略)

 

 

 

一体何がそれを可能にしているのだろうか。われわれはその答えを「国体護持」に見出す。

すでに見たように、アメリカの支配を受け容れることの正当化は、マッカーサー昭和天皇の会見に象徴される、アメリカと天皇の「友好的な」結合、すなわち国体の再編成の過程を通じて行われた。(略)

 

 

 

後述するように、このアメリカを媒介項とする国体の護持あるいは再編成が、あの敗戦の結果、戦勝国によって支配されているという至極当然の事実を不可視なものとするのである。

 

 

 

▼国体護持の不可能性

だがしかし、吉田茂が言ったように、国体は「毫モ変更セラレナイ」などということが、本当にあり得ただろうか。(略)

 

 

第三章で見たように、明治憲法立憲主義的に運用しうる要素が含まれていたにせよ、第三者の視点から見た一九四五年八月一〇日の時点での日本は、神権政治的理念によって衝き動かされた極度に軍国主義的な「専制君主制国家」以外の何物でもなかったし、それは明治憲法に孕まれていた可能性の実現形態のひとつであった。

 

 

当然のことながら、サンフランシスコ講和条約の調印・発効による主権の回復、日本の国際社会への復帰は、論理的に見て、かかる政体に対する否定と改革抜きにはあり得なかった。(略)

 

 

 

ここに言う「前記諸目的」とは、軍国主義の除去や体制の民主化を具体的には指している。(略)

そうでないのならば、すなわち、大日本帝国の政体=国体に根本的な変更がなく(「毫モ変更セラレナイ」まま!)継続した状態で国際社会に復帰するというのならば、それは戦後のドイツが「第三帝国」であるがまま国際社会に復帰しようというのに等しい。

 

 

言うまでもなく、そのようなことは許されようはずがなかった。「国体は変更された」とする美濃部や宮沢の政府批判は、こうした当然の了解を講和に先立って指摘するものでもあったはずだ。

 

 

▼国体をめぐる奇妙なプロセス

つまり、生じたことの異様さは、次の点にある。すなわち、国会で政府を代表して、国体は「毫モ変更セラレナイ」と明言したのと同一の人物が、サンフランシスコ講和会議では国体が根本的に変更されたことを確認する文書(講和条約)に調印した。

国体は変更されたと同時に護持された。(略)

 

 

 

というのも、すでに見たように、そもそも占領下での主権は移動しようにも日本側(天皇であれ日本国民であれ)に存在しなかった。つまり、「国体の変更」を主張するデモクラットたちは、いまだ日本が主権国家たり得ているという幻想に依拠した。

 

 

 

それに対し、吉田茂ら保守支配層は、「国体と政体」の伝統的二元論のイデオロギーに依拠して「国体不変」を主張したが、このイデオロギーもまた国内でのみ通用する幻想である。

かつ、両者は相互補完的な関係にあった。なぜなら、先述のように、民主化改革がそれなりの成果を収めた(国体が変更された)と対外的に認められたからこそ講和条約が可能となり、国家主権回復(=国体の存続)が確定されたからである。

 

 

 

この奇妙なプロセスは、日本人の主観性の次元での国体は護持された一方、客観的次元での国体(専制君主政体)は変更された、ということでもある。あるいは、日本国民の視角から見れば、客観的次元での国体の変更を受け入れることによって、「国体は護持された」という物語 — おそらくそれは、敗北による衝撃と屈辱を和らげた ― を、主観的に維持することに成功したのであった。」