まだ読み始めたばかりなので、先ずは読み終えることを目標に読んでいきます。白井氏は「主権者のいない国」という本も書いていて、いつかそれも読んでみたいと思っているのですが、読めるかどうかという問題もあるので、先ずは、この薄い本から、と思います。
「序 ーなぜいま、「国体」なのか
(略) 「戦前の国体」とは何であったかと端的に言えば、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制であった。
この体制は、「国体」への反対者・批判者を根こそぎ打ち倒しつつ破滅的戦争へと踏み出し、軍事的に敗北が確定してもそれを止めることが誰にもできず、内外に膨大な犠牲者を出した挙句に崩壊した。
単なる敗戦ではなく無惨極まる敗戦は、「国体」の持っていた内在的欠陥、その独特の社会構造が然らしめたものにほかならなかった。
そのようなものとしての「国体」と手を切ったのが、敗戦後の諸革命を経た日本であり、現代のわれわれの政治や社会は、「国体」とはおおよそ無縁なものになっている、というのが一般的な認識であろう。
しかし、筆者は全く逆の考えを持っている。現代日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が「国体」である。(略)」
〇 福島の事故を経験しても、原発による発電のデメリットの大きさを見ようとしない人の多さ。安倍政治による不公正さや犯罪的行為を次々とを突きつけられても、なお、自民党を支持し続ける人の多さ。コロナ禍でPCR検査や感染者の早期隔離の必要性が叫ばれても、一向に手を打とうとしない政府を、それにも関わらず、支持し続ける人の多さ。
そして、これほどの感染拡大の危機の中、今もオリンピックをやめるという決断が出来ない政府と、その政府を支持する国民。もしくは、何もしない、沈黙するという態度で、政府のやり方を追認している国民。
これは、日本人の体質によるものなのだろう、と絶望的な気持ちになっています。
でも、ここで、白井氏は、「日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が「国体」だ」と言っています。
どういうことなのでしょうか。
「(序のつづき)
本文で詳しく見てゆくが、「戦前の国体」が自滅の道行きを突っ走ったのと同じように、「戦後の国体」も破滅の途を歩んでいる。「失われた二〇年」あるいは「三〇年」という逼塞状態は、戦後民主主義と呼ばれてきたレジームの隠された実態が「国体」であったがためにもたらされたものにほかならない。
その果ての破滅がどのようなかたちで生ずるかは、不確定要素が多いため、誰にも確言はできないだろう。(略)
真珠湾攻撃当時の日本が戦場では勝利していたにもかかわらず本質的には破滅していたのと全く同じ意味で、われわれの今日の社会はすでに破滅しているのであり、それは「戦後の国体」によって規定されたわれわれの社会の内在的限界の表れである。(略)」