読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

パンとサーカス

島田雅彦著「パンとサーカス」が朝刊で連載されています。

2020年8月からの連載で今も継続中です。

第一回目がとても印象的でした。メモしておきたいと思います。

抜き書きは「」で、感想は〇で記します。

 

「三千世界には多様な有象無象が生息し、それぞれの生息域で右往左往している。その生態を今地上に降りてきたエイリアンのように観察しているのが詩人である。詩人は老人や廃人や病人や変人の仲間だが、偉人や賢人、美人、聖人の友人でもある。

 

 

誰もが素通りするぼんやりとした隙間で謙虚に目立たないように暮らしながら、世間を斜めから見て、裏から探るのが趣味かつ仕事。

 

 

この狂った世界、クソな社会を生き延びるには特殊技能が必要だが、詩人はあいにく生存に有利なことが苦手だ。詩人は自由人の代名詞であるが、食えない奴という意味でもある。基本、政治家も官僚も会社員も反社会勢力も組織や他者に寄生して生きていくしかないが、その枠からはみ出した者は「自由の刑」として棄民扱いになる。

 

これまで幾度となく死にかけたが、その都度、辛くも生き延びてきた。半分死んでいる奴は意外としぶとい。本籍は黄泉の国ということにしておく。栄養源はハムカツとキャベツで、この世の住まいはパチンコ店の片隅だったり、川べりのブルーシート・ハウスだったり、居酒屋の小あがりだったり、ネットカフェだったりと日替わりだが、シャワーは毎日浴びている。酒も毎日飲んでいる。

 

 

詩人は救いの神や運命の女神や死神とも縁があり、時々、彼らからメッセージをもらったり、それを誰かに伝えたりしている。

 

 

世界は自分を中心に回っていると思い込んでいる人の数はびっくりする位多いが、地球は勝手に時速一七〇〇キロで回っていることに気づけ、といいたい。みんな振り落とされないように必死に地面にへばりついている。卑怯なへばりつき方、崇高なへばりつき方、投げやりなへばりつき方、可愛いへばりつき方など、人によって様々で、詩人はその様態を他人事として見ている。

 

 

誰も詩人には関心を払わないが、彼は誰に対してもフレンドリーで、密かにみんなの弱みを握っている。誰も読まない詩を書きながら、世界を少しずつ修正する。誰も聞かない歌を裏声で歌いながら、狂った世界をチューニングし直す。詩人には何種類かの名前があったが、一番よく知られているのは「黄昏太郎」という渾名だ。

 

 

誰も本名は知らない。知った所で何の意味がある?名前なんて服と同じでTPOに応じて変えるものだ。」

 

〇 島田雅彦氏の名前は知っていました。何度か著書を読もうとしたこともあります。

でも、読めませんでした。何故読めないのか自分でもよくわかりません。

一つ思うのは、登場人物とその周りの空気が、私には縁遠い世界に感じられてしまう、ということです。

 

縁遠くても、自分の知らない未知の世界の空気を楽しめばいい、と思うのですが、厄介なのは、その世界の空気を吸うと、何となく心がヒリヒリ痛みを感じるのです。つまりその世界は、私にとって、入りたくても入れなかった社会の象徴のような世界に思えるのです。

 

 

この感覚は、島田氏だけではなく、他の著者でも感じます。物語だけでなく、テレビドラマなどでも感じます。「劣等感が刺激される空気」を吸うのが嫌になって読むのをやめ、見るのをやめます。

ちょっと精神的ひきこもりでしょうか。

 

でも、この「パンとサーカス」は頑張って読もうと決心しました。

今の私たちの社会、本当に何とかしなければダメだと思うのです。

なるようにしかならない。どうせ何もできない。

 

 

…………そうなのかもしれないけれど、

何とか出来ないか、今はこんなに絶望的でも、私たちは案外その気になれば、出来るのでは?と思う気持ちが私の中にはあります。

 

そして、この小説はそんな気持ちがテーマになっているように感じました。

 

3月28日分(233回)をメモします。

 

 

「脅迫もせず、犯行声明も出さず、沈黙理に事を進め、捜査の手がかりを一切与えない。計画段階から、空也はこの方針を徹底した。誰が何の目的で暗殺を実行したのか、ヒントが全くない中、ネットでは様々な憶測が飛び交っていた。謎が多いほど、好奇心は刺激され、野次馬は盛り上がる。だが、暗殺事件が世直しの序章だということに気づいた人はほとんどいない。内部告発の連鎖反応が起き、同時進行でさらなるテロを実行すれば、いくら鈍感な人間でも気づくだろう。

 

 

検事総長の暗殺は、検察庁の腐敗や政権との癒着に対する異議申し立てであり、最大手の広告代理店とのパイプ役の秘書官の暗殺は政権批判を忘れたマスメディアへの警告であり、そして、日米同盟の守護者であるアジア政策研究センター長の暗殺はアメリカへの隷属を拒否する示威行動であったということはもう隠しようがない。水面下で革命は進行していると敏感な人々は噂し始めた。

 

 

これまでも世直しの大義を叫ぶ人間はいくらでもいた。彼らは目の前で起きている現実の出来事に便乗して、自分たちの主張は正しかったと言い出すだろう。だが、もっとも正しく世直しの大義を唱えているのは、ほかならぬマリアだった。連続暗殺事件が起きるずっと前から、彼女の赤い手帳には反乱を焚きつけるコトバ、メシア降臨の預言が記されていた。彼女はホームレスに身をやつし、イソノミアの路上でそれらのメッセージを発信し始めていた。

 

 

長い歴史を振り返っても、この国が自発的に変わろうとした例はない。いつだって外圧頼みだった。戦国時代も、明治維新も、敗戦も。今度こそ自分の手で歴史を塗り替えたらいい。カミカゼ・ドローンで空襲をかましたら、政権交代くらいは起きるはずだ。

 

 

限られた少数者の利益に奉仕する政権を、利益に与れない多数者が支持するという茶番がもう何十年も続いていた。「絶対多数のアホが突然賢くなることはない」と多くの知識人は諦めている。デモに参加することさえ躊躇する一般市民が反乱や暴動に加担することはないだろう。逆にその取り締まりを強化しろと主張するに違いない。

 

 

自らの手で自由を勝ち取ろうとするより、政府に服従するから、見返りをくれという者の数が圧倒的に多い。自由よりも管理の徹底を求める自発的服従者たちから見れば、内部告発者も悪性の批判者もテロリストも皆、異端だ。」

 

 

〇 社会を変えたいと強く願い、ただ願うだけではなく行動した人々がいた時代がありました。私が知っているのは、学生運動が激しかった ’60年~’70年頃のことです。でも、その後、あの連合赤軍事件が起こり、結局「革命」だとか「テロ」だとかの方法には、正すべき相手を打ち負かす前に、自分たちが自滅してしまうような、強烈な毒があると知りました。

 

どんなに変えたくても、暴力で変えようとするのは間違っていると。

 

でも、今の私たちの社会は、民主主義の型だけはあるけれど、実質が伴わない、

骨抜きの民主主義国家になっています。

為政者、管理者たちが、平然と民主主義を破壊し、法治社会を壊し、モラルを崩しています。

そのやり方が、暴力やテロを誘発しています。

この物語は、そう警告しているように聞こえます。