読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

「もちろん、自由主義国家主義と結びついたからと言って、難問をすべて解決することはとうていできなかった。それどころか、新たな難問が数多く生まれた。共有経験の価値と個人経験の価値をどう比較すればいいのか?ポルカやブラートブルスト(訳註 ドイツの国民的なソーセージ)やドイツ語を維持するためなら何百万もの難民を貧困や、ことによると死の危険にさえもさらしたままにするのが許されるのか?

 

 

そして、一九三三年にドイツで、一八六一年にアメリカで、一九三六年にスペインで、二〇一一年にエジプトで起こったように、国家の内部でほかならぬ自国のアイデンティティの定義をめぐって根本的な対立が勃発したらどうなるのか?そんな場合には、民主的な選挙が万能の解決策になることはまずない。対立する陣営の双方が、結果を尊重する理由を持たないからだ。(略)

 

 

 

社会主義的な人間至上主義は、それとはまるで違う道を歩んできた。自由主義者は私たちの注意を他者が経験していることではなく自分自身の感情に集中させる、と社会主義者は非難する。たしかに、人間の経験はあらゆる意味の源泉だが、世界には何十億もの人がおり、その全員が自分とまさに同じだけ価値があるのだ。

 

 

 

自由主義は一人一人の独自性と、その人の国の独自性を強調して、人の視線を自分の中へと向けるが、社会主義は、自分と自分の感情にばかり夢中になるのをやめ、他者がどう感じているかや自分の行動が他者の経験にどう影響するかに注意を向けることを要求する。世界平和は各国の独自性を賛美するのではなく、世界中の労働者を団結させることで達成される。社会の調和は、各自がナルシシズムに浸りながら自分の内なる深みを探求することではなく、他者の欲求や経験を自分の欲望よりも優先させることで成し遂げられるというのだ。

 

 

自由主義者はこう反論するかもしれない。人は自分の内なる世界を探求することによって思いやりを育み、他者への理解を深めるのだ、と。だがそのような理屈は、レーニン毛沢東には通用しなかっただろう。(略)

 

 

豊かな人も貧しい人も、生まれた時から洗脳される。豊かな人は貧しい人を無視するように教えられ、一方、貧しい人は自分の本当の関心を無視するように教えられる。どれだけ自分を見つめても、どれだけサイコセラピーを受けても、役に立たない。なぜなら、サイコセラピストたちもまた、資本主義体制の為に働いているからだ。

 

 

実際、内省すれば、自分についての真実を理解することからなおさら遠ざかるばかりである可能性が高い。個人の決定ばかり考慮に入れ、社会的な状況はあまり顧みないためだ。もし私が豊かなら、それは自分が賢い選択をしたからだと結論する。

 

 

もし貧困の泥沼にはまっていたら、何かミスを犯したに違いない。気分が落ち込んでいたら、自由主義のセラピストはおそらく親のせいにし、人生の新しい目標を設定するように促すだろう。資本主義者に搾取されているから、そして、現在広く浸透している社会制度の下では自分の目標を実現することは望むべくもないから、気分が落ち込んでいるのかもしれないと言ったら、セラピストは多分、自分の内に抱えている困難を「社会制度」に投影している。母親との未解決の問題を「資本主義者」に投影していると応じるだろう。

 

 

 

社会主義によれば、自分の母親や情動やコンプレックスについて何年もくだくだと語り続けるのではなく、次のように自問するべきだという。自国の生産手段を所有しているのは誰か?自国の主要な輸出品と輸入品は何か?政権を担う政治家たちと国際的な銀行業界との間にはどんなつながりがあるか?支配的な社会経済度を理解し、他のすべての人の経験を考慮に入れた時に初めて、自分が何を感じているかを本当に理解できるのであり、団結した行動によってのみ、制度を変えられるのだ。とはいえ、すべての人間の経験を考慮に入れ、公平なやり方で比較できる人などいるだろうか?

 

 

だから社会主義者は自己探求を思いとどまらせ、私たちのために世界を読み解くことを目指す、社会主義政党や職種別組合といった強固な集団的組織の設立を提唱する。自由主義の政治では有権者が一番よく知っており、自由主義の経済では顧客がつねに正しいのに対して、社会主義の政治では党が一番よく知っており、社会主義の経済では職種別組合がつねに正しい。権威と意味は依然として人間の経験に由来する(政党も職種別組合も人々から成り、人間の悲惨さを軽減しようと努めている)が、それでも個人は自分の個人的な感情よりも党と職種別組合が言うことに耳を傾けなくてはならない。

 

 

 

進化論的な人間至上主義は、人間の経験の対立という問題に、別の解決策を持っている。ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しているこの人間至上主義は、争いは嘆くべきではなく賞賛するべきものだと主張する。(略)

 

 

 

ヨーロッパ人がアフリカ人を征服し、抜け目ない実業家が愚か者を破産に追いやるのは善いことだ。もしこの進化論的な論理に従えば、人類はしだに強くなり、適性を増し、やがて超人が誕生するだろう。(略)

 

 

ところが、もし人権や人間の平等の名のもとに、環境に最も適した人間を去勢したら、超人の誕生が妨げられ、ホモ・サピエンスの退化や絶滅まで招きかねない。

では、超人の到来の先駆けとなる、その優秀な人間たちとは誰なのか?それはいくつかの民族全体かもしれないし、特定の部族かも知れないし、個々の並外れた天才たちかも知れない。それが誰であれ、彼らが優秀なのは、新しい知識やより進んだテクノロジー、より繁栄した社会、あるいはより美しい芸術の創出という形で表れる。優れた能力を持っているからだ。

 

 

アインシュタインベートーヴェンのような人の経験は、酔っ払いのろくでなしの経験よりもはるかに価値があり、両者を同じ価値があるかのように扱うのは馬鹿げている。同様に、もしある国が一貫して人間の進歩を先導してきたのなら、人類の臣下にほとんど、あるいはまったく貢献しなかった他の国よりも優秀だと考えてしかるべきだ。

 

 

したがって、オットー・ディックスのような自由主義の芸術家とは対照的に進化論的な人間至上主義は、人間が戦争を経験するのは有益で、不可欠でさえあると主張する。映画「第三の男」の舞台は第二次世界大戦終結直後のウィーンだ。先日までの戦争について、登場人物のハリー・ライムは言う。「結局、それほど悪くはない。 ……イタリアでは、ボルジア家の支配下の三〇年間に、戦争やテロ、殺人、流血があったが、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチが登場し、ルネサンスが起こった。

 

 

スイスには兄弟愛があって、五〇〇年も民主主義と平和が続いてきたが、やつらはなにを生み出したか?鳩時計さ」。(略)

その考え方とは、戦争の経験は人類を新しい業績へと押しやるというものだ。戦争は自然選択が思う存分威力を発揮することをついに可能にする。

 

 

 

戦争は弱い者を根絶し、獰猛な者や野心的な者に報いる。戦争は生命にまつわる信実を暴き出し、力と栄光と征服を求める意志を目覚めさせる。ニーチェはそれを次のように要約している。戦争とは「生命の学校」であり、「私の命を奪わないものは私をより強くする」。

 

 

 

同じような考え方を述べたのがイギリス陸軍のヘンリー・ジョーンズ中尉だ。第一次世界大戦西部戦線で命を落とす四日前、二一歳のジョーンズは戦争での自分の体験を熱烈な言葉で書き綴った手紙を兄弟に送っている。

 

 

あなたはこんな事実を一度でも考えたことがあるだろうか?(略)

平時に世界の人の一〇人に九人が送る、おぞましい営利本意の生活の愚かさや利己主義、贅沢、全般的な下劣さは、戦時には残忍さに取って代わられるのだが、その残忍さの方が、少なくとももっと正直で率直だ。(略)

 

 

平時には、人はただ自分自身のちっぽけな生活を送る。取るに足りないことにかまけ、自分の安楽やお金の問題といった類のさまざまな事柄を心配しながら、たんに自分のために生きている。なんとあさましい暮らしだ!

 

 

 

それに引き換え戦時には、たとえ本当に命を落とすことになっても、どのみち数年のうちにその避けがたい運命に見舞われることを予期しているのであり、私の見る限り、ありきたりの生活ではそういうことはごく稀にしかできない。なぜなら、ありきたりの生活は営利本意で利己的な基準で営まれているからだ。よく言うように、成功したければ、手を汚さずには済まされないのだ。

 

 

私としては、この戦争が自分のもとにやって来てくれたことをしばしば喜んでいる。人生とはどれほどつまらないものか、気づかせてくれたからだ。(略)

 

 

 

ジャーナリストのマーク・ボウデンは、ベストセラーになった著書「ブラックホークf・ダウン」の中で、ソマリアモガディシュにおけるアメリカ兵ショーン・ネルソンの一九九三年の戦闘経験を同じような言葉で描いている。(略)

 

 

 

アドルフ・ヒトラーも、自分の戦争体験で変わり、目を開かれた。「わが闘争」の中で語っている様に、彼の部隊が前線に到着して間もなく、兵士たちの当初の熱狂が恐れに変わり、めいめいがあらゆる神経を張り詰めさせ、圧倒されまいとして、その恐れに対して激しい内なる戦争をしなければならなかった。(略)

 

 

ドイツの有権者に訴えて信頼を求める時、ヒトラーには頼みの綱はたった一つしかなかった。大学や総司令部や省庁ではけっして学べないことを塹壕での経験で学んだという主張だ。人々が彼を支持し、票を入れたのは、その姿に自分自身を重ねたからであり、彼らもまた、この世界はジャングルだ、私の命を奪わないものは私をより強くする、と信じていたからだ。

 

 

 

ナチズムは、進化論的な人間至上主義と特定の人種理論や超国家主義的感情が組み合わさって生まれた。進化論的な人間至上主義者がみな人種悦をするわけではないし、人類にはさらに進化する可能性があると信じている人がみな、必ずしも警察国家強制収容所の設立を求めるわけでもない。

 

アウシュヴィッツは、人間性の一部をそっくり隠すための黒いカーテンの役割ではなく、血のように赤い警告標識の役割を果たすべきだろう。進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い。」