読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「記録し、アップロードし、シェアしよう!

 

だが、ことによるとわざわざあなたを説得するまでもないのかもしれない。あなたがニ〇歳前ならなおさらだ。人々はひたすらデータフローの一部になりたがっている。それがプライバシーや自律性や個性の放棄を意味するとしても、だ。(略)

 

 

芸術的創造物や科学的創作物が増え続けている。ウィキペディアを書いているのは誰か?私たちみんなだ。

個人は、誰にもよくわからない巨大なシステムの中で、小さなチップになってきている。毎日私は、電子メールや電話や論説を通じて無数のデータを取り込み、そのデータを処理して、さらに多くのメールや電話や論説を通じて新しいデータを送り返している。

 

 

私が世の中のより大きな仕組みのどこに組み込まれているのか、あるいは自分が生み出すデータが他の何十億という人間やコンピューターが生み出すデータとどう結びつくのか、実際にはよくわかっていない。私にはそれを解明する時間はない。(略)

 

 

この容赦ないデータの流れは、誰も計画も制御も把握もしていない、新たな発明や混乱を引き起こす。グローバルな経済がどう機能しているか、グローバルな政治がどこに向かっているのか、誰にもわからない。だが、誰にも理解する必要はない。必要なのは、自分宛メールにもっと速く返信することだ。そして、データ処理システムがそれを読むのを許すことだ。

 

 

 

自由市場資本主義者が市場の見えざる手の存在を信じているように、データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。

グローバルなデータ処理システムが全知全能になっていくと、このシステムにつながることがすべての意味の源になる。人はデータフローと一体化したがる。データフローの一部になれば、自分よりもはるかに大きいものの一部になるからだ。(略)

 

 

 

熱狂的な信者にしてみれば、データフローと切り離されたら人生の意味そのものを失う恐れがある。何かをしたり味わったりしても、誰もそれを知らないとしたら、また、グローバルな情報交換に提供するものがないとしたら、何の意味があるだろう。(略)

 

 

 

一方、データ至上主義によれば、経験は共有されなければ無価値で、私たちは自分の中に意味を見出す必要はない、いや、じつは見出せないと信じている。私たちはただ、自らの経験を記録し、大量のデータフローにつなげさえすればいい。そうすればアルゴリズムがその意味を見出して、私たちにどうするべきかを教えてくれる。

 

 

 

二〇年前、日本人旅行者は万人の笑い種になっていた。いつもカメラを携えて目にしたものをすべて写真に撮っていたからだ。だが、今では誰もが同じことをしている。(略)スマートフォンを出してゾウの写真を撮り、フェイスブックに投稿し、その後は自分のアカウントを二分おきにチェックして「いいね!」をどれだけ獲得したかを見るのに忙しいからだ。(略)

 

 

私たちは本書を通して、人間を他の動物より優れた存在にしているものは何か、繰り返し問うてきた。データ至上主義には、新しい単純な答えがある。人間の経験それ自体は、オオカミやゾウの経験より少しも優れてなどいない。(略)

 

 

とはいえ人間は、自分の経験を詩やブログに書いてネットに投稿し、それによってグローバルなデータ処理システムを豊かにできる。だからこそ人間のデータは価値を持つ。オオカミにはそれができない。したがって、オオカミの経験は、人間のものと同じぐらい深遠で複雑であったとしても、価値を持たない。(略)

 

 

 

私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに変えることにある。(略)

 

 

 

 

汝自信を知れ

 

データ至上主義は、自由主義的でも人間至上主義的でもない。とはいえ、反人間至上主義的ではないことは特筆しておくべきだろう。データ至上主義は、人間の経験を敵視しているわけではない。人間の経験には本質的な価値はないと考えているだけだ。(略)

 

 

たしかに過去七万年ほどの間、人間の経験はこの世界で最も効率の良いデータアルゴリズムであり続けた。だから人間の経験を神聖視するのは当然だった。ところが私たちは、このアルゴリズムがその座を奪われ、重荷にすらなる段階に間もなく達するかもしれない。

 

 

サピエンスは何万年も前にアフリカのサバンナで進化したため、私たちのアルゴリズムは二一世紀のデータフローに対処するようには構築されていない。私たちは人間のデータ処理システムをアップグレードしようとするかもしれないが、それでは十分ではないだろう。

 

 

 

「すべてのモノのインターネット」は、あまりにも大量で急速なデータフローをほどなく生み出すかもしれないので、アップグレードされた人間のアルゴリズムでさえ対処できないだろう。自動車が馬車に取って代わったとき、私たちは馬をアップグレードしたりせず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない。(略)

 

 

 

ハリウッドの多くのSF映画のクライマックス・シーンでは、人間がエイリアンの侵略宇宙船団や、反乱ロボットの大群や、人間を一掃しようとする全知のスーパーコンピューターに直面する。人類の前途は絶望的に見える。だが人類はこの苦境に屈することなく、最後の最後に、何かエイリアンやロボットやスーパーコンピューターには思いもよらず、理解もできないもののおかげで勝利する。

 

 

 

その何かとは、愛だ。(略)

データ至上主義者は、そのような筋書きは完全に馬鹿げていると考え、ハリウッドの脚本家たちに忠告する。「まさか。考えつくことと言えばそれだけですか?愛?それもプラトニックな広大無辺の愛のようなものですらなく、一対の哺乳動物が肉体的に惹かれ合うことだけとは。全知のスーパーコンピューターや銀河系全体の征服をたくらむエイリアンが、急激なホルモン分泌に物も言えないほど驚いたりするなんて、あなたは本当に思っているのですか?」

 

 

 

データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同様に見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、一八世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。(略)

 

 

 

一八世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。二一世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

データ至上主義の革命には、一、二世紀とまでは言わないまでも、おそらくニ、三〇年かかるだろう。

 

 

 

だが、人間至上主義の革命も一夜にして起こったわけではない。(略)

同様に、今日ほとんどのデータ至上主義者は、「すべてのモノのインターネット」は人間が人間の欲求に応えるために創出しているから神聖だと主張する。だがいずれ、「すべてのモノのインターネット」はそれ自体が本質的に神聖になるのかもしれない。(略)

 

 

 

同様に、「生き物はアルゴリズムだ」というデータ至上主義の発想が重要なのは、それが日常生活に与える実際的な影響のためだ。発想が世界を変えるのは、その発想が私たちの行動を変えるときに限られる。

 

 

 

古代のバビロンでは、人々は厄介なジレンマに直面すると、夜の暗闇の中で近くの神殿の上に登り、空を観察した。バビロニア人は、星が自分たちの運命を支配し、自分たちの未来を予言すると信じていた。(略)

 

 

 

ユダヤ教キリスト教のような聖典に基づく宗教は、別の物語を語った。「星は真実を語っていない。星を創造した神が、聖書の中にすべての真実を啓示した。だから星の観察はやめて、代わりに聖書を読むのだ!」これも実際的な提案だった。(略)

 

 

次に人間至上主義者がまったく新たな物語を引っ提げて登場した。「人間が神を考え出し、聖書を書き、多種多様に解釈した。だから人間自身があらゆる真実の源泉だ。聖書を、インスピレーションを与える人間の創造物として読んでもかまわないが、本当はそんなことをする必要はない。

 

 

もしジレンマに直面したら、ただ自分自身に耳を傾け、内なる声に従おう」。人間至上主義は、夕日を眺めたり、ゲーテを読んだり、私的な日記をつけたり、良い友人と腹を割って話したり、民主的な選挙を行なったりといったテクニックを推奨し、どのように自分自身に耳を傾けるのか、詳細にわたる実際的な指示を与えた。

 

 

科学者も、何世紀にもわたってこうした人間至上主義の指針を受け入れてきた。物理学者も、結婚すべきかどうか迷ったとき、夕日を眺め、自分自身を知ろうとした。化学者も、問題含みの仕事の依頼を受けるかどうかを考えたときは、日記をつけたり良い友人と腹を割って話したりした。

 

 

生物学者も、戦争を始めるべきか平和条約を結ぶべきか論争になったときは、民主的に票決した。脳科学者は、自らの驚くべき発見について本を書くとき、インスピレーションを与えるようなゲーテの引用を巻頭に載せることがしばしばあった。

 

 

 

これは、現代における科学と人間至上主義の提携の基礎を成し、それが理性と情動や、研究所と美術館や、生産ラインとスーパーマーケットといった、現代の陽と陰の間の微妙なバランスを保ってきた。(略)

 

 

 

私たちの愛情や恐れや情熱は、詩を創作することだけに役立つ不明瞭な霊的現象ではない。何百万年分もの実際的な知恵を内包しているのだ。(略)

それに対して、自分の感情に耳を傾ける場合は、進化が何百万年にもわたって発達させ、この上なく厳しい自然選択の品質管理検査にも耐えたアルゴリズムに従う。あなたの感情は、無数の先祖の声だ。

 

 

 

その先祖のそれぞれが、容赦のない環境でなんとか生き延び、子供を残した。あなたの感情はもちろん完全無欠ではないが、他の手引きの源泉のほとんどよりは優れている。何百万年にもわたって、感情は世界で最高のアルゴリズムだった。だから孔子ムハンマドスターリンの時代には、人々は儒教イスラム教や共産主義の教えよりも、自分たちの感情に耳を傾けるべきだった。

 

 

 

ところが二一世紀の今、もはや感情は世界で最高のアルゴリズムではない。(略)グーグルとフェイスブックアルゴリズムは、あなたがどのように感じているかを正確に知っているだけでなく、あなたに関して、あなたには思いもよらない他の無数の事柄も知っている。

 

 

したがって、あなたは自分の感情に耳を傾けるのをやめて、代わりにこうした外部のアルゴリズムに耳を傾け始めるべきだ。(略)人間至上主義が「汝の感情に耳を傾けよ!」と命じたのに対して、データ至上主義は今や「アルゴリズムに耳を傾けよ!」と命令する。(略)

 

 

 

以下にデータ至上主義の実際的な指針を挙げておく。

「自分は本当は誰なのかを知りたいんですか?」とデータ至上主義者が尋ねる。「それならば、山に登ったり美術館に行ったりする必要はありません。自分のDNA配列はもう調べてもらいましたか?まだ?!何をぐずぐずしているんです?

 

 

 

今日、調べてもらってきてください。それから、祖父母と両親と兄弟姉妹にも、DNA配列を調べさせないと ―― 彼らのデータは、あなたにとってとても貴重なんです。そうそう、血圧と心拍数を一日二四時間測定できる、ウェアラブル・バイオメトリック装置のことは聞いたことがありますか?

 

 

 

よかった。それなら一つ買って、装着して、自分のスマートフォンにつないでください。買い物のついでに携帯型の録音機能付きカメラも買って、あなたがすることをすべて記録して、インターネット上に掲示してください。そしてグーグルとフェイスブックが、あなたのメールをすべて読んだり、チャットやメッセージをすべてモニターしたり、あなたが「いいね!」したものやクリックしたものをすべて記録したりするのを許可してください。

 

 

 

 

こうしたことを全部すれば、「すべてのモノのインターネット」のアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、そして戦争を始めるべきかどうかを、教えてくれるでしょう」

 

 

だが、こうした偉大なアルゴリズムはどこから生じるのだろうか?これがデータ王主義の謎だ。キリスト教によると、私たち人間は神と神の構想を理解できないというが、ちょうどそれと同じように、データ至上主義は、人間の頭では新しい支配者であるアルゴリズムをとうてい理解できないと断言する。

 

 

 

むろん現在のことろ、アルゴリズムの大半は人間の専門家によって書かれている。それでも、グーグルの検索アルゴリズムのような、真に重要なアルゴリズムは、巨大なチームによって開発されている。チームの各メンバーが理解しているのはパズルのほんの一部で、アルゴリズム全体を本当に理解している人はいない。(略)

 

 

 

もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発されるのかもしれないが、成長するにつれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間がついていけない場所にまで行くのだ。」