読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (下) (第11章 データ教)

「データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。(略)データ至上主義は科学における二つの大きな流れがぶつかり合って誕生した。

 

 

チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。データ至上主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。(略)

 

 

データ至上主義は、政治家や実業家や一般消費者に革新的なテクノロジーと計り知れない新しい力を提供する。学者や知識人にも、何世紀にもわたって私たちを寄せ付けなかった科学の聖杯を与えることを約束する。その聖杯とは、音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する、単一の包括的な理論だ。(略)

 

 

 

すべての科学者に共通の言語を与え、学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。音楽学者と経済学者と細胞学者が、ようやく理解し合えるのだ。

 

 

その過程で、データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。(略)人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、智識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。

 

 

 

もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

 

 

 

データ至上主義は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピューター科学と生物学だ。両者を比べると生物学がとりわけ重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生まれたのだ。(略)

 

 

 

今日、個々の生き物だけではなく、ハチの巣やバクテリアのコロニー、森林、人間の都市など、さまざまな形の社会全体もデータ処理システムと見なされている。経済学者はしだいに、経済もまたデータ処理システムだと解釈するようになっている。(略)

 

 

 

この見方によれば、自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。(略)

 

 

 

このように自由市場資本主義では、データ分析と意思決定の作業が、独立してはいても互いにつながっている多くの処理者に分散している。オーストリアの経済学者の大家フリードリヒ・ハイエクはこれを次のように説明している。「当該の事実に関する知識が多くの人の間に分散しているシステムでは、価格はさまざまな人の別個の行動を調整する働きをなしうる。」(略)

 

 

 

システムが円滑に稼働するためには、できるだけ多くの情報ができるだけ自由に流れる必要がある。世界中の何百万もの人が有意義な情報のすべてにアクセスすれば、石油やヒュンダイの株やスウェーデン政府公債の最も適正な価格が、彼らの売買によって決まる。(略)

 

 

データ処理の観点から見れば、資本主義がより低い税金を支持する理由も説明できる。税金が高いというのは、利用可能な資本のかなりの部分が一か所、つまり国庫に集まり、結果としてますます多くの決定が単一の処理者、すなわち政府によってなされざるをえないことを意味する。これによって過度に中央集権化されたデータ処理システムが出来上がる。(略)

 

 

 

 

自由市場では、ある処理者が判断を誤ったら、ほかの処理者がすぐにその間違いに乗ずるだろう。ところが単一の処理者がほぼすべての決定を下す場合には、ミスを犯せば大惨事になりうる。(略)

 

 

 

たとえば、ソ連の経済担当機関は次のように決めたかもしれない。(略)レーニン記念ゼンソ農業科学アカデミーの総裁で、悪名高いルイセンコは、当時支配的だった遺伝理論を否定した。生き物が生きている間に新しい形質を獲得すると、その性質は子孫に直接伝わりうると主張したのだ。

 

 

 

この考え方はダーウィンの学説とは真っ向から対立するものだったが、共産主義の教育原理とはうまく噛み合った。もし小麦を訓練して寒冷な天候に耐えられるようにしたなら、その子孫もまた寒さに耐えられることになる。そこでルイセンコは反革命的な小麦を何十憶株もシベリアに送り、それらに再教育を施した。

 

 

その結果、ソ連はほどなくアメリからしだいに多くの小麦を輸入する羽目になった。

資本主義が共産主義を打ち負かしたのは、資本主義のほうが倫理的だったからでも、個人の自由が神聖だからでも、神が無信仰の共産主義者に腹をたてたからでもない。そうではなくて、資本主義が冷戦に勝ったのは、少なくともテクノロジーが加速度的に変化する時代には、分散型データ処理が集中型データ処理よりもくいくからだ。

 

 

共産党の中央委員会は、ニ〇世紀後期の急速に変化を遂げる世界にどうしても対処できなかったのだ。すべてのデータを一つの秘密の掩蔽壕に蓄積し、すべての重要な決定を高齢の共産党首脳陣が下すのであれば、大量の核爆弾は製造できても、アップルやウィキペディアは作れない。(略)

 

 

 

それが資本主義の成功の秘訣だ。ロンドンのパンの供給に関するデータをすべて独占するような中央処理装置はない。情報は何百万もの消費者と生産者、パン職人と大物実業家、農民と科学者の間を自由に流れる。市場の力によって、パンの価格、毎日焼くパンの数量、研究開発の優先順位が決まる。市場の力は、判断を誤った場合、すぐに自己修正する。いや、資本主義者はそう信じている。

 

 

 

この資本主義の理論が正しいかどうかは、私たちの目下の論点にとって問題ではない。重要なのは、その理論が経済をデータ処理という観点で捉えていることだ。」