読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (下) (第10章 意識の大海)

「宇宙がぶら下がっている釘

 

テクノ人間至上主義は、さらに別の恐ろしい脅威に直面している。人間至上主義のあらゆる宗派と同じで、テクノ人間至上主義も人間の意志を神聖視し、それを全宇宙がぶら下がっている釘と見做している。テクノ人間至上主義は、私たちの欲望がどの心的能力を伸ばすかを選び、それによって未来の心の形態を決めることを見込んでいる。とはいえ、テクノロジーの進歩のおかげで、まさにその欲望を作り変えたり生み出したりできるようになったら、何が起こるのか?

 

 

人間至上主義はつねに、自分の本物の意志を突き止めるのは簡単ではないことを強調していた。私たちは、自分自身に耳を傾けようとすると、相容れないさまざまな雑音の不協和音の洪水に呑み込まれてしまうことが多い。実際、自分の本物の声をあまり聞きたいとは思わないこともある。(略)

 

 

多くの人が自分をあまり深く探らないように、心を砕いている。出世街道をひた走っている弁護士は、一休みして子供を産むように言う内なる声を抑え込むかもしれない。不満だらけの結婚生活にはまり込んだ女性は、その生活が提供する経済的な安心感を失うのを恐れる。(略)

 

 

だが人間至上主義は、私たちが多少の度胸を見せて、たとえ怖いものであっても内なるメッセージに耳を傾け、自分の本物の声を突き止め、困難をものともせずにその指示に従うことを求める。

一方、テクノロジーの進歩には、それとはかけ離れた狙いがある。テクノロジーの進歩は、私たちの内なる声に耳を傾けたがらない。その声を制御することを望む。これらの声をすべて生み出している生化学系を一旦理解すれば、私たちはさまざまなスイッチをいじり、ここでボリュームを上げ、そこでは下げ、という具合に調節し、人生をはるかに楽で快適にできる。

 

 

 

気が散った弁護士にはリタリン(訳註 中枢神経を興奮させる向精神薬)を、罪悪感を抱えた兵士にはプロザック(訳註 抗うつ薬)を、不満な妻にはシプラレックス(訳註 抗うつ薬)を与えるだろう。しかもそれはほんの序の口にすぎない。(略)

 

 

自分自身に耳を傾けるようにという人間至上主義の勧めは、多くの人生を破綻させてきたのに対して、適切な化学物質の適量の服用は、何百万もの人の幸福を増進し、人間関係を改善してきた。自分自身に本当に耳を傾けるためには、内なる悲鳴や酷評のボリュームをまず下げなければならない人もいる。(略)

 

 

臨床的うつ病の人は、将来有望なキャリアや健全な人間関係を繰り返し捨ててしまう。何らかの生化学的な不調のせいで、物事を暗い色の眼鏡を通して眺めてしまうからだ。(略)

サリー・アディーは、注意力を高めるヘルメットを使って頭の中のさまざまな声を沈黙させたとき、射撃の名手になれただけでなく、普段よりはるかに強い自己肯定感も得られた。

 

 

私たちはそれぞれ個人的には、こいうした問題について見方が異なるかもしれない。とはいえ、歴史的な視点に立てば、何か重大なことが起っているのは明らかだ。(略)

 

 

自分の頭の中のうるさい雑音を消すのは、素晴らしいアイディアのように思える。ただし、それによってついに、自分の奥底にいる本物の自己の声が聞こえるのであれば。だが、本物の自己などというものがないのなら、どの声を黙らせ、どの声のボリュームを上げるかを、どうやって決めればいいのか?(略)

 

 

彼は一〇万ドルを手に、クリニックに行く。モルモン教創始者のジョセフ・スミスに少しも劣らぬほど強い異性愛志向を抱くようになって帰ってこようと決意を固めて。(略)それからベルを鳴らすと、ドアが開き、ジョージ・クルーニーばりの医師が立っている。「先生」と、その魅力にすっかり参ってしまった若者は言う。「ここに一〇万ドルあります。どうか、二度と異性愛者になりたくならないようにしてください」

 

 

この若い男性の本物の自己は、自分が経験した宗教的な洗脳に打ち勝ったのだろうか?それとも、一時的な誘惑のせいで自分を裏切ったのだろうか?はたまた、従ったり裏切ったりできるような本物の自己などというものは、まったく存在しないのだろうか?(略)

 

 

人間至上主義によれば、人間の欲望だけがこの世界に意味を持たせるという。とはいえ、もし自分の欲望を選べるとしたら、いったい何に基づいてそうした選択ができるのか?(略)

じつは、テクノロジーの進歩が私たちのために生み出そうとしているのは、まさにそのような戯曲なのだ。もし私たちが自分の欲望を厄介に感じることがあっても、テクノロジーはそこから掬い出してくれることを約束する。

 

 

全宇宙がぶら下がっている釘が、問題を孕んだ場所に打ち込まれているときには、テクノロジーはその釘を抜き取り、別の場所に打ち込んでくれるだろう。だが、いったいどこに?もし私が宇宙のどこにでもその釘を打てるなら、どこに打つべきなのか?そして、よりによって、なぜそこでなければならないのか?

 

 

 

人間至上主義のドラマは、人々が厄介な欲望を抱いたときに展開する。たとえば、モンタギュー家のロミオがキャピレット家のジュリエットと恋に落ちたときは、はなはだ厄介なことになった。(略)そのようなドラマのテクノロジーによる解決は、私たちがけっして厄介な欲望を抱かないようにすることだ。ロミオやジュリエットが毒を飲む代わりに、不運な恋心を別の人に向け直すような薬を飲んだり、ヘルメットを被ったりできていたら、どれほどの痛みと悲しみが避けられたことか。

 

 

 

テクノ人間至上主義は、ここでどうしようもないジレンマに直面する。テクノ人間至上主義は、人間の意志がこの世界で最も重要なものだと考えているので、人類を促して、その意志を制御したりデザインし直したりできるテクノロジーを開発させようとする。

 

 

つまるところ、この世で最も重要なものを思いのままにできるというのは、とても魅力的だから。とはいえ、万一そのように制御できるようになったら、テクノ人間至上主義には、その能力を使ってどうすればいいのかわからない。

 

 

なぜならその時には、神聖な人間もまた、ただのデザイナー製品になってしまうからだ。私たちは、人間の意志と人間の経験が権威と意味の至高の源泉であると信じているかぎり、そのようなテクノロジーにはけっして対処できないのだ。

 

 

したがって、より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義の臍の緒をすぱっと切断しようとする。そういうテクノ宗教は、何であれ人間のような存在の欲望や経験を中心に回ったりはしない世界を予見している。あらゆる意味と権威の源泉として、欲望と経験に何が取って代わりうるのか?ニ〇一六年の時点では、歴史の待合室でこの任務の採用面接を待っている候補が一つある。

 

 

 

その候補とは、情報だ。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する。」