読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下) (第11章 データ教)

「情報は自由になりたがっている

 

資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。この新宗教が信奉する至高の価値は「情報の流れ」だ。もし生命が情報の働きで、私たちが生命は善いものだと考えるなら、私たちはこの世界における情報の流れを深め、拡げるべきであるということになる。(略)

 

 

この概念は伝統的な宗教のビジョンをいくつか思い起こさせる。たとえばヒンドゥー教徒は、人間は宇宙の普遍的な魂(アートマン)と一体化できるし、また一体化するべきだと信じている。キリスト教徒は、成人は死後、神の無限の恩寵で満たされる一方、罪人は神との関係を絶つと信じている。

 

 

 

実際、シリコンヴァレーではデータ至上主義の予言者は、救世主を想起させる伝統的な言葉を意識的に使っている。たとえばレイ・カーツワイルの予言の著書のタイトル「シンギュラリティは近い― 人類が生命を超越するとき[エッセンス版](NHK出版編、NHK出版、ニ〇一六年)は、「天の国は近づいた([マタイによる福音書]第3章2節)」という洗礼者ヨハネの叫びを真似ている。

 

 

 

データ至上主義者は、依然として生身の人間を賛美している人々に、次のように説明する。彼らは時代遅れのテクノロジーにこだわり過ぎている。ホモ・サピエンスは時代遅れのアルゴリズムだ。つまるところ、人間はニワトリよりどこが優れているだろう?それは、人間の中では情報がはるかに複雑なパターンで流れるということにすぎない。(略)

 

 

 

 

それでは、もし人間よりさらに多くのデータを取り入れ、さらに効率的に処理できるデータ処理システムを創り出せたなら、そのシステムのほうが人間よりも優れていることになりはしないだろうか?ニワトリより人間が優れているのとまさに同じように。

 

 

データ至上主義は根拠のない予言にとどまらない。あらゆる宗教と同じように、実際的な戒律を持っている。データ至上主義者は、何よりもまず、ますます多くの媒体と結びつき、ますます多くの情報を生み出し、消費することによって、データフローを最大化しなければならない。栄えている他の宗教のように、データ至上主義も宣教を行なう。

 

 

第二の戒律は、接続されることを望まない異教徒も含め、すべてをデータフローのシステムに繋ぐことだ。「すべて」とは人間に限らない。文字どおり、すべてを意味する。(略)

 

 

 

人々が完全に新しい価値を首尾良く思いつくことなどめったにない。それが最後に起こったのは一八世紀で、人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸躍る理想が唱えられ始めた。一七八九年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず、人間は新しい価値を何一つ思いつくことができずにきた。

 

 

 

その後の紛争や闘争はすべて、人間至上主義者のこの三つの価値を掲げて、あるいは、神への服従や国家への忠誠といったさらに古い価値を掲げて行われてきた。一七八九年以降、紛れもなく新しい価値を生み出した動きはデータ至上主義が初めてであり、その新しい価値とは情報の自由だ。(略)

 

 

二〇一三年一月一一日、データ至上主義の最初の殉教者が出た。二六歳のアメリカ人ハッカーアーロン・スワーツが自分のアパートで自殺したのだ。スワーツは他に類を見ない天才だった。一四歳できわめて重要なRSSポロトコル(訳註 RSSとはウェブサイトの更新情報をまとめて配信するためのフォーマットのこと)

の開発に協力した。彼はまた、情報の自由を固く信じていた。(略)

 

 

 

JSTORによれば、もし私が自分の生み出したアイデアに対して支払いを受けたければ、支払ってもらうのは私の権利ということになる。スワーツの考えは違っていた。情報は自由になりたがっており、アイデアはそれを生み出した人の所有物ではなく、データを壁の奥にしまい込んで入場料を請求するのは間違っている、と彼は信じていた。

 

 

 

そして、MITのコンピューターネットワークを利用してJSTORにアクセスし、大量の学術論文をダウンロードした。それをインターネット上で公開して誰でも自由に読めるようにするつもりだった。

スワーツは逮捕されて裁判にかけられた。そして、おそらく自分は有罪判決を受けて刑務所に送り込まれるだろうと悟ると、首を吊った。

 

 

 

ハッカーたちがこれに反応した。情報の自由を侵害し、スワーツを追いつめた学術機関や政府機関に対して陳情や攻撃を行なった。JSTORは重圧を受けて、スワーツの悲劇に加担したことを謝罪した。そして今日では、全部ではないが多くのデータに無料でアクセスできるようにしている。

 

 

 

データ至上主義の宣教師たちは懐疑的な人を説得するために、情報の自由の計り知れない利点を繰り返し説明している。資本主義が、良いことはすべて経済成長にかかっていると信じているのとちょうど同じで、データ至上主義者は、経済成長も含めて、良いことはすべて情報の自由にかかっていると信じている。

 

 

 

なぜアメリカはソ連より速く成長したのか?アメリカのほうが、情報が自由に流れたからだ。なぜアメリカ人の方がイラン人やナイジェリア人より健康で裕福でわせなのか?情報の自由のおかげだ。だから、より良い世界を作り上げたいなら、そのカギはデータを自由にすることにある。(略)

 

 

二〇一〇年、世界の自家用車の数は一〇億台を超え、以後も増え続けている。(略)人々は自家用車での移動の便利さにすっかり慣れてしまったため、バスや電車では我慢できそうもない。ところが、人々が本当に求めているのは自家用車ではなく移動のしやすさであり、優秀なデータ処理システムならこの移動のしやすさをはるかに安くはるかに効率よく提供できることをデータ至上主義者は指摘する。(略)

 

 

 

コンピューターなら、私が八時四分に家を出なければならないことがわかり、いちばん近くにいる自動運転車を迎えによこして、時間ピッタリに私を拾わせるだろう。車は大学のキャンパスで私を降ろしたら、駐車場でじっと待つ代わりに、他の目的に使える。

 

 

午後六時一一分ちょうどに私が大学の門を出ると、別の共同利用型の車がやってきて私の目の前に止まり、家まで送ってくれる。この方法なら、五〇〇〇万台の共同型の自動運転車が一〇億台の自家用車に取って代われるだろうし、道路や橋、トンネル、駐車場もはるかに少ししか必要なくなる。

 

 

もちろんそれは、私が自分のプライバシーを放棄して、私がどこに行きたいかを、アルゴリズムがつねに把握するのを許せばの話だが。」

 

〇 ここでも、引っかかった部分が何か所があります。その部分を太文字にしました。

 

「生命が善いものなら…」「良いことはすべて情報の自由にかかっている…」など、このデータ至上主義の基盤は、「良い社会を作る為に…」という価値観にあるようです。

 

以前読んだ、「サピエンス全史 上 神話による社会の拡大」の中から引用します。

 

「そのような生物学的本能が欠けているにもかかわらず、狩猟採集時代に何百もの見知らぬ人同士が協力できたのは、彼らが共有していた神話のおかげだ」

 

この神話が様々に変化し、普遍的な価値観を掲げるキリスト教になり、そのキリスト教の基に、帝国が作られ、人々は「一つ」になることができた、という内容が、サピエンス全史の中にもあったと思います。

 

そして、その普遍的な価値観は、「人工的な本能」になったと。

私は、ここがとても印象的でした。というのも、私たちの国は、幸か不幸か、帝国主義で一つになるという世界の動きから外れたところで発展したため、「普遍的な価値観」からも外れているように感じたのです。

 

サピエンス全史からその部分を引用します。

 

「農業革命以降、人間社会はしだいに大きく複雑になり、社会秩序を維持している想像上の構造体も精巧になって行った。神話と虚構のおかげで、人々はほとんど誕生の瞬間から、特定の方法で考え、特定の基準に従って行動し、特定のものを望み、特定の規則を守ることを習慣づけられた。

こうして彼らは人工的な本能を生み出し、そのおかげで厖大な数の見ず知らずの人同士が効果的に協力できるようになった。
この人工的な本能のネットワークのことを「文化」という。」

 

 

〇 ハラリ氏や、データ至上主義者は、おそらく「人工的な本能」の自覚は、本能だけに、生まれた時から自然に身についているもの、と感じていると思います。「善い」もの「良い」システムを求める行動をするのが、人間だと。そして、そのために協力しあうのが人間だと。

 

 

でも、日本人には、そのような「人工的な本脳」は培われなかった。むしろ、「サル」を基準に自分たちの行動を考える習慣がある。

「サルはみな、本能のままにセックスする。なぜ人間がそうであってはいけないのか…」という調子で。

 

 

そして、人工的な本能を培わなかった日本人が、どんなに自分たちの同胞を悲惨な目に合わせたかが書かれているのが、あの「私の中の日本軍」であり、「一下級将校が見た帝国陸軍」です。

 

日本にも、もともとは、それが例え借物でも、善い悪いを日々語る

「教え」があったと思います。仏教だったり、儒教だったり、キリスト教だったり。ところが、世界のどこよりも早く、そんなものは、「ウソ」だ、と脱宗教をし、経済やシステムによって、人々は結果的に良い行動をとるはずだ…というやり方になったのが、戦後だと思います。

その結果、日本人はどんな人間になったか…。

それは、あの「人間を幸福にしない日本というシステム」を読むと、

よく分かると思います。

 

 

ここで、言われているデータ至上主義には、そんな危うさを感じます。