読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍

2018年11月頃に載せていた「一下級将校の見た帝国陸軍」をコピペします。

 

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〇 山本七平著 「一下級将校の見た帝国陸軍」(昭和51年12月朝日新聞社刊)を文春文庫で読んでいます。

感想は〇……で、抜き書きは「  」でメモします。
文字使いは、原本通りではありません。意味が違わなければ、PCの変換に任せています。

「”大に事(つか)える主義”

思い返すと不思議なことが多いが、その原因の一つは、昭和初期の学生は今よりも非政治化・非社会化しており、良く言えば純真、悪く言えば幼稚、概していえば内攻的だったことにあると思う。


マスコミは今のように巨大化しておらず、テレビ・民放・週刊誌・ペーパーバックの洪水もなく、情報といえばNHKと新聞だけ、だが学生はそれらに左右されず勉強に専念すべきものと規定され、そのため一言でいえば今より「世間知らず」で世馴れていなかった。

 

面白いことに当時の出版物の主力は人生論であり、また当時の思い出として、徹夜して「人生とは何か」を真剣に論じ合ったことを、一種不思議な思いで回顧している人も少なくない。時代の風潮であろうか?それを今では本人さえ不思議に感ずるのだから、当時の普通人の意識は、今の人にはなかなかつかみにくいであろうと思う。」

 

在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度の為一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまの言葉で言えばセールスマン兼配達人であった。


いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いている時もそういった顔付をしている彼。人当たりが良く、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売って行く彼。それでいて評判は上々、だれからも悪く言われなかった彼。その彼といま目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人とは_。


あとで思い返すと、あまりの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジィーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからざる奇怪な情景に、我知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。


そして以後、検査が終わるまで終始一貫この男につきまとわれ、何やかやと罵倒と嫌がらせの言葉を浴びせ続けられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。

 

軍隊との初対面におけるこの驚きは、その後長く私の心に残った。そのためか大分前、ある教授に、ある状態で”ある役つきの位置”におかれると一瞬にして態度が変わるこの不思議さについて話したところ、これは少しも珍しくない日本人的現象だと同教授は言った。

 

学生に何とか執行委員長とかいった肩書がつくと一瞬にして教授への態度がかわる。ついで就職ともなれば、一瞬にしてまた変わる。社員になればまた一瞬にして変わる。それは少しも珍しい現象ではない。

 

そして_と教授は続けた_その人がその後に”御用聞き”として現れた時は、また一瞬いて変わっていたでしょう。そしてそこのこと、矛盾友不思議とも恥ずかしいとも感じていなかったでしょう、と。「その通りでした。だがどうしておわかりですか」
私は尋ねた。「わかりますよ。いまの学生がそうですから、昨日まで”テメェ”呼ばわりしていた学生が、平気で就職の推薦状をもらいに来るんですから。

 

そしてr就職すれば平気で社長のような口をきくんですから。あなたと親しいF教授
大学騒動よりむしろこれに耐えられずに退職されたのです。この傾向は、一部の人が言うように戦後の特徴でなく、戦前から一貫しているわけですよ」

 


「どうしてそう無限即なのでしょう」私は思わず言った。教授は答えた、「無原則ではなく、これが事大主義すなわち”第に事える主義”です。その点では一貫しているわけです。

 

御用聞きにとってお顧客は”大”でしょう。だからこれに”つかえる”わけです。ただそのとき彼は、自分より”小”なものに対しては、検査場であなたに対してとったと同じ度を取っていたはずです。あなたが異常と感じられたのは、自分の立場が一転したからで、その人の方はむしろ事大主義の原則通り一貫しているのです。ということは徴兵検査場では、徴兵官に対して、かつて貴方に対してとったと同じ態度をとっていたはずです。そうだったでしょう」


「その通りです」私はその時の情景を思い出して言った。(略)
そしてこの、事大主義に基づく一瞬の豹変は日本人捕虜に見られ、また日本軍の捕虜の扱い方にも見られ、さらに戦後では、公害運動家の一部にさえ見られる。

 

従って、この”素質”を単位として構成された帝国陸軍が、徹頭徹尾”事大主義的”であったのは、むしろ当然の帰結であり、それ以外のことが望めるはずはなかった。」


〇 いつも感じるのですが、この山本氏のいう「事大主義=日本人気質」は、間違いなく私自身の中にもあります。長い長い長い間かかって、先祖からずっと受け継いでいる、と感じます。せめてそうじゃなく振舞おうとすると、「偽善」っぽくなるほどに、その嫌らしい気質の方が私自身です。

 

 

「歩けないことと高熱が、教官・助教にも重病の印象を与えたのかもしれぬ。だが実際は就寝五日ほどのことはなく、腰の痛みがとれれば、単純な軽い夏風邪、普通なら連兵休どころか、逆に”気合”を入れられそうな状態であった。だが軍医の診断は命令だから、命令通りに寝ていなければならない。


有難いと言えば有難かった。従ってこの五日間は、「一人になれるのは便所のなかだけ」という軍隊と収容所における全期間、入営から復員迄の五年弱の期間の、唯一ともいえる”孤独なる安静と思索の時間”であった。従ってこの間に考えたことは、何年たっても憶えている。

 

卒業まで平穏無事だった私にとって、この一年の変転は、それに対処する心の余裕を持ち得ないほど激しかった。(略)
するとその状態の自分は、意志をもった一人間というより、何やらごろごろした物体の群れの中の一物体で、それらはまとめて選別機のようなものに放り込まれ、ごろごろと拡販されているうちに、気がついてみたら自分がポロンとここへ放り出されていた、といったような感じであった。(略)

 


私は”幸い”大阪商船に入社できた。かつての郵船・商船は、いまの日航のような花形企業、多くの船を失いかつ軍に徴用されていたその時点では、その実体はすでに最盛時とは違っていたであろうが、報道管制はその実態を知らせず、はなやかな名声だけは残っていたので、競争も激しかった。入社して辞令をもらい、大阪本社で、社内講習を一週間受けた。考えてみれば、これが私の唯一の”大企業経験”である。

 

これも兵隊に行く者の数が少なかった時代の慣行をそのまま踏襲したものであろう。招集が来ず、そのまま社に残れた者も確かにいたが、大部分は一週間後に休職の辞令をもらい、各自の家に帰った。入営までわずか三日。その間、隣組や町会等の、当時の情勢と週刊では辞退出来ない壮行会やら挨拶まわりがあり、同時に身辺の整理と入営準備を進めねばならなかった。」


「彼は次のようなことを言った。「ここが東部十二部隊、正規の名称は近衛野砲兵連隊である。兵舎は向かって左から第一、第二中隊の順で並び、向かって右の端が第六中隊。中央の建物が連隊本部である……」。言われてみれば七棟の建物が正面に並び、中央の紋章付きの一棟、すなわちわれわれの正面にあるのが連隊本部である。

 

「第一中隊から第三中隊までが第一大隊、第四中隊から第六中隊までが第二大隊。本連隊は第三大隊は欠である……」。
「おかしいではないか、その表現は……」と私は内心で考えた。それではこの部隊が連隊と称するのは嘘で、近衛野砲兵二個大隊が、その内容に即応した正規の名称のはずではないのか。

 

それとも何かの事情で、一時的に一個大隊が欠なのであろうか。私は兵営の中を見回した。しかしどう見ても、兵舎の数も砲廠の数も二個大隊分しかない。創立以来、はじめっから二個大隊しかなかったと思わざるを得ない。なぜそれを連隊と称するのか?


これは基本的には誇大表現と同じではないのか?何のためにそういうことをするのか?あの将校はそれを少しも不審とは思っていないのか?私が帝国陸軍なるものに、最初に疑惑を感じたのはこの時であった。


この第一印象は非常に強く、以後何かあるたびに、「これは結局、二個大隊といわず、”連隊だたし一個大隊欠”と言いたがる精神構造と同じことではないか」と毛様になった。
これも事大主義の表われであろうか?最も整備されていたはずの近衛師団がこの有様。そして、私が終戦を迎えた時の第一〇三師団は、一個師団とか何個連隊とかいう言葉を、絶対にそのまま受け取ってはいない。それらはすべて、欠、欠、欠が、幾つとなくつづく存在だったはずである。」

 


「やがて各人はばらばらに内務班に組み入れられ、噂通りの内務班生活が始まった。そのときの体制は、一言でいえば徴兵検査のあの状態がそのまま延長しかつ酷くなった状態である。だが私は、特別訓練班(略して特訓班)にやられた。簡単に言えば仮採用のような形、試験的にやらせてみて、だめなら除隊という要員である。当時の陸軍は、結核患者を背負い込むことを、極度に警戒していた。」

 


秦郁彦氏が、第二次大戦のさまざまな”謎”を挙げておられるが、その中に「ナチス・ドイツが最後まで婦人を動員しなかったこと」がある。ナチスの場合は「婦人は家庭に」が一つの思想だったのであろうが、日本の場合、その理由は明確な思想に基づくとは信じがたい。ただ「インテリは兵隊に向かない」は、軍だけでなく、いわば全国民共通の常識で、日華事変のころ朝日新聞に「インテリ兵士は果たして弱いか?」といったテーマの記事がある。

 

内容は「必ずしも弱くない」といった趣旨のものだが、こういう記事が出ること自体インテリは兵士に向かず、学生は軍人に適さない」という常識があった証拠であろう。軍は最後の最後まで、学生を信用していなかった。しかし、伸び切った戦線、消耗率の高い下級幹部の補充等々で、背に腹はかえられぬ状態になったのが、昭和十七年だったのであろう。(略)

 

私はまた動かされた。幹候班が編成され、部隊内で幹部教育をうけ、二月の十五日に豊橋へ派遣され、予備士官学校に入校することになった。入営からわずか四カ月半である。(略)

 

ところが日華事変の途中から、満期除隊・即日招集ということになり、切れ目のない兵役が続く結果になっていた。だがそれでも、その選別と試験は相当に厳しいというのが定評であった_何しろ帝国陸軍の幹部なのだから。

 

軍は、明らかに何かに慌てていた。それが信頼していないはずの学生の繰り上げ卒業・即時徴集・幹候大量採用となり、さらに、兵としての教育樹をちぢめ、予備士官学校も二カ月を繰り上げ卒業にし、見習士官のまますぐに戦地へ送り出すという結果になった。


従って私の見習い士官の期間は九ヵ月余だが、私の後になると、在学中に「現地教育」の名で戦地に送られている。最も不幸だったのはこの人たちで、その大部分は海没している。」

 


「ベッドに横たわって四日目、思い返してみれば一切にリアリティがなかった。すべての人が故意に現実に背を向け、虚構の中で夢中で何かを演じ、それによってそれが現実だと信じようとしているように見えた。立派な名称は至る所に並んでいる_しかしすべては欠、欠、欠。
お前たちの一割が脱落することは、はじめから予定に入っトル」でいっさいを無視して行われる猛訓練も、結局はその内容が欠、欠、欠。急ぐと言うなら急ぐ方法があるではないか。ワンセットただし欠、欠、欠、をやめて、現実にそくして重点だけやればよいはずだ。」

 

「もちろん、本物の士官学校の生徒なら、遠い将来のため、その教育も必要かもしれないし、余裕があるなら幹部の常識教育としては、それもよいかもしれない。が、倒産の危機を迎えた会社の新入社員なら、社長教育おyり、すぐ第一線で使える現場教育が必要であろう。
同じことは、全ての点で言えた。(略)

 

教育は中隊射撃、大隊射撃、連隊射撃、砲兵段射撃と進み、射法は砲側観測から遠隔観測へと次第に複雑になっていく。しかし、欠、欠、欠の連隊で、果たして、一正面に四十門、五十門という砲を集めて集中射撃を敢行する能力があるのか。」

 

 

「まず、概説的に砲兵の射法の全般が説明され、それを頭に入れた上で個々の実技を行って行けば、いま自分が実習していることが全体の中のどの部分にあたるかがわかる。わかればすぐに会得できる。しかし、そういった教育は全くなく、訓練の原則は「馬を調教する」のと全く同じで、説明抜きで個々の実習を積み上げる方式であった。」

 


「そのくせみな急いでいた。あわてていた。だがリアリティが欠けていた。そこには、はっきりした目標も、その目標に到達するための合理的な方法の探求も模索もない。全員が静かなる自信を持ち得ず、そのため生ずる不安を消すため、わき目もふらず、ただ、今まで駆けていた方向へ、やみくもに速度を増して駆け出しているような感じだった。それは、高熱の中で見た悪夢に似ていた。


足は地に着かず、何かに追われて夢中で前に進もうとしながら、一向に足が進まないあの状態に_。
だがそんなことを考えた五日もすぐ過ぎ去った。また考える余裕のない生活にもどった。五時起床・馬手入・食事・午前演習・昼食・午後学科・馬手入・夕食・食事・自習・水飼い(軍馬に水を飲ませること)・点呼・消燈_そして休息は日曜日の昼食から馬手入までの三時間。その間だけ死んだように眠り、また、同じ毎日が休みなく繰り返されて行く。いつしか七月もすぎ、居眠りをこらえるのが精一杯の八月がやってきた。


だがこの「病床の五日間」は私にとっては貴重な時間だった。この間の思索がなければ、続いて次々に起った奇妙なことを、奇妙とも思わず見過ごしていたであろう。」

 

「奇妙なこと!忘れもしない、それは昭和十八年八月の中ごろだった。雨の日である。教壇に立った区隊長K大尉は、改まった調子で次のように言った。
「本日より教育が変わる。対米戦闘が主体となる。これを「ア号教育」と言う」と。

(略)

私は内心で思わずつぶやいた、「欠だったのだ、これが最大の欠だったのだ」。戦争が始まったのは言うまでもなく一六年一二月八日であり、一八年には、二月にガダルカナル島からの撤退、五月一九日にアッツ島の玉砕があり、欧州では米英軍がシチリアに上陸している。


危機は一歩一歩と近づいており、その当面の敵は米英軍のはず。それなのにわれわれの受けている教育は、この「ア号教育」という言葉を聞かされるまで、一貫して対ソビエト戦であり、想定される戦場は常に北満とシベリアの広野であっても、南方のジャングルではなかった。」

 


「とはいえ、あの悲惨なノモンハンの実情が赤裸々に語られたわけではない。しかし、教育上の必要から断片的に語られる個々の実例だけでも、その実情が、当時一般に言われていたような「精神力が鋼鉄を制圧した」とか「肉弾が戦車に勝った」とかいう状態とは全く別のものであったことは分かった。

 

すでに銃剣突撃が全てを制する時代ではなかった。否、そんな時代は一度もなかったのである。

 

日露戦争は、ほぼ対等の兵器で戦った戦争であっても竹槍対原爆ではない、また海軍では逆に日本の装備の方が優れている面も多かった。一体どこから、あの奇妙な精神主義が入り込んできたのであろうか。われわれを教えた教官自身が、相手の重砲群が壊滅していない限り、突撃とは文字通り墓穴にとび込むだけのことだと知っていた。

 

_ソビエト軍の陣地は少なくとも三線になっている、歩兵が第一線に突入すれば、相手は第二戦に撤退してしまう。そして次の瞬間その第一線に、徹底的な集中砲火を後方から浴びせる、射弾は実に性格、壕がくずれて生き埋めになる場合さえある、それもそのはず、今の今まで自分の陣地だったのだから完璧な諸元が出ている、突っ込んだ歩兵は進退きわまって立ち往生し、全滅する、と。
おそらくこれも実例だったのであろう。

 


だが、こう言いながらも不思議なことに、精神力を否定するかに受け取られそうな言葉は、絶対だれも口にはしない。そして、軍隊外の人間には、徹底して口にしなかった。ここには奇妙なタブーがあった。そしてこれは、戦後社会にも存在するある種のタブーと同根のもので、念力ブームを吹き出させた精神構造と、おそらく関連があるであろう。(略)

 

「ア号教育」という言葉と同時に、それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、一つの確信へと固まって行った。それは「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」という実に奇妙な事実である。これは「事実」なのだ、そして何としても理解しがたい事実なのである_というのは対米開戦を強硬に主張したのが陸軍であって海軍ではないのだから_。」

 

「問題は「つもり」という言葉である。たとえば土建屋が、建築の手付金を受け取っておきながら、図面一枚ひこうとしないでいて、「私はあくまでも家を建てるつもりでいた」と言っても、それは通らない。軍人が専門職である以上、同じことであろう。

 

一国の安全を保障しますと約束して軍事費という多額の手付金を受け取り、兵役という負担を課しながら、対米戦闘に関する一枚の図面ももたず、そのための教育訓練の基本的計画さえ持っていないなら、アメリカと戦うつもりは全くなかったのだと断定されても抗弁の余地はあるまい。そして一枚の図面すらないことは、「ア号教育」への転換期とその内容が明らかにした。なぜこういうことになったのであろうか。

 


「驚きと、疑問の氷解と、腹立たしさ」と私は書いた。驚きとは、アメリカと戦うつもりの全くなかった陸軍が強引に全日本を開戦へと持ち込んだことであり、疑問の氷解とは、なぜわれわれが対ソ戦の教育訓練をうけていたのかという疑問が解決したことである。(略)


K区隊長は、良い意味での、まことに軍人らしいさっぱりした人であり、ジメジメしたインテリ臭がなく、少年のような明るさのある人だった。彼は率直に言った。「ア号教育」と言っても、何をどう教えたらよいのか、実はさっぱりわからんのだ」と。
その通りだった。そしてそれは、たとえ彼がその言葉を口にしなくても自ずと明らかであった。

 

この世界に仮想敵の存在しない軍隊はない。そして帝国陸軍の仮想敵は一貫してソビエト・ロシア軍であり、また現実にすでに十年以上戦い続けている相手が中国軍であって、演習で想定される主要な戦場は常に北満とシベリアであった。(略)

 


従っていきなり、ジャングル戦の訓練をはじめよ、などと言われても、第一、演習場も訓練用設備もない。第二に、砲も機材も、零下三〇度になっても機能しうるように造られていても、高温多湿の熱帯用ではなかった。


第三が軍馬である。前述のように、時代遅れのこの輸送用動力は、石油資源皆無と、中国戦線における馬糧の現地調達方式への依存と、厳寒のシベリアでの作戦を想定したため、軍馬方式から離脱できなかったためと思うが、ジャングル内でも被空爆地でも対ゲリラ戦でも、丈の高い軍馬は水牛より始末が悪いだけでなく、日本馬は熱地には抵抗力がなく、バタバタと斃死するだけで、戦力にはならなかった。


だがそれ以上に致命的なことは、何一つ的確な教育も訓練も出来ないことであった。」

 


「「行き当たりばったり」とか「どろなわ」とか言った言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのが、どうしてこれほど現実性(リアリティ)が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。
そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。


第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。スーズヴェルト、チャーチルスターリン蒋介石ヒトラー_たとえ彼らが、その判断んを誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。

 

確かに計画には齟齬があり、判断には誤りはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」をはじめたが、何を教えてよいから誰にも的確にはわからない、などというアホウな話は出て来ない。


確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは、一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていない_確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたが_。(略)

 

考えてみればこの予備士官学校の教育の基本そのものが、奇妙なものだった。というのは学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一二学歴なのである。
なぜこのような方式がとられたか。その原因は戦場で最も多く消耗するのは下級将校、特に小隊長クラスだということである。連帯史などで、階級別戦死比率を調べると、中国戦線では特に、下級将校の戦死比率が異常に高い。下級指揮官を射殺して指揮の末端を混乱させるのは確かに有効な方法であり、従って狙撃の格好の標的となったためと思われる。(略)


だがこの方針を採ったもう一つの理由は、日本が貧乏国だという、如何ともしがたい現実であった。幹候中尉は恩給のつく直前に除隊になるという「使い捨て」の不文律り、これは正確に実行されていた。酷なようだが、最高七百万までふくれ上がった帝国陸軍の中の全下級将校に恩給を支給したら、日本が破産しただろう。

 


だがそれは、後述するように「学歴を基準とする選抜方式」を正当化はしない。私は、部下を見てしばしば、「なぜ、このような優秀な下士官を将校に抜擢せず、私などを将校にしたのか」と不思議に思った。」

 

「四門の砲車が、中隊長の指揮下に、横から見ると砲口が一線に見えるほど正確な四列で、早足で練兵場をかけまわる。これがはじまると連隊の全機能は「陛下の御馬前で失態なき事」に集中してしまい、「ア号教育」も招集兵教育も、すべて後回しであった。


だがだれかが危機を叫んで、こんなことではならないと観兵式の予行演習をやめさせたところで、それは危機ムードが高まるだけ、結局は何の変化もなかったに相違ない。私には連隊のすべてが、戦争に対処するよりも、「組織自体の日常的必然」といったもので無目的に”自転”しているように見えた。


事実、この膨大な七十年近い歴史をもつ組織は、すべてが定型化されて固定し、牢固としていてそれ自体で完結しており、あらゆることが規則ずくめで超保守的、それが無目標で機械的に日々の自転を繰り返し、それによって生ずる枠にはめられた日常の作業と生活の循環は、だれにも手が付けられないように見えた。そしてこれが米軍がサイパンに上陸する四カ月前の連隊内の日常であった。

 

では、危機感がなかったかというと、そうではない。ただ危機感と日常が結びつかなかったのである。そしてそこには結びつかない双方を分担するような形で三種類の将校がいた。


第一は、大声で危機を叫び、危機への認識とそれに基づく自覚の欠如を非難するが、具体的にどこから何に手を付けてよいか一向にわからず、ただ現状に憤慨する、しかしその日々の行動・振舞いは、組織自体の日常の論理に従っている、そしてそれを矛盾と思わない人々。

 

第二は、軍隊内の生き字引的存在で、規則・先例等の一切をわきまえ、その組織の日常の運営を現実に支配し、これを円滑に動かしている人、この人々には自覚的なエリート意識はなく、無口で態度は控えめだが、強い自信と一種の閉塞性をもち、第一の型を内心では軽蔑している。


第三が、私のような、いわばOL的な存在であった。」

 

「以上三種類の第一に属するのが、主として士官学校出のいわゆる「青年将校」であった。「軍部ファシズム」というものがあるとしたら、それを支えているのは彼らであったろう。だがその実態は、一言でいえば「ものまねファシスト」であった。彼らはナチス・ドイツの軍部に傾倒し、絶対的に信頼し、讃美していた。そして服装もナチ型であった。元来は平凡な丸い軍帽を、高々と前を上に曲げて、まびさしを短く急傾斜にし、乗馬ズボンの膝横をひどく広げ、ピタリと足に合った乗馬用長靴を履いていた。

 

いわばナチ・モードで、そのムードに自ら酔っていたわけだが、ナチズムへの知識は、ナチの宣伝用演出写真とそれへの解説以上には出ず、またドイツ国防軍の総兵力・編成・装備・戦略・戦術に関する専門的具体的知識はもっていなかった。


そしてまた驕慢であり、その驕慢さは、パリ・モード模倣者の驕慢に似ていた。不思議なことに、これは常に起こる現象らしい。(略)

 

松本清張氏が、二・二六事件の中橋基明中尉を一個の「驕児」と記している。事実、彼には前述のような驕慢さ、すなわち当時の青年将校の一面がよく出ているが、この驕児的要素は彼だけのものでなく、全青年将校にある程度は共通していた。(略)


もう一つ見逃せないのは、連隊における彼らへの処遇であった。
当時はまだ大学出が総じてエリートの時代であり、特に帝大出は彼らに劣らずエリート意識が強かったが、しかし多くの者は社会に出た途端に、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。日向方斉氏は入社早々新聞の社内配達をやらされてくさったと聞くが、これらは「私の履歴書」によく現れる体験である。足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ち砕き、本当のリーダーを育てるのに、これは良い方法かもしれない。


だが軍隊にはこれはなかった。少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵がつき、身の回りの世話はすべてやってくれて、殿様のようになってしまう。演習から帰った将校が将校室の机に腰を掛け、足を椅子の背に乗せ、顎をしゃくって「オイ当番」と言えば、乗馬長靴を脱がしてくれる。

 

これを見た老招集兵が、「二十二、三の若造があんな扱いをうければ狂ってしまう、二・二六が起こるのはあたりまえだ」と嘆じたことは「私の中の日本軍」で記したが、軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれが徹底していた。」

 


「だがこの挫折なき驕児たちは、閣下であれ、青年将校であれ、どこか宙に浮いていた。日常の兵務を掌握し、この膨大な組織を日々支障なく”自転”させているのは彼らではなかった。


従って驕児たちの激烈な言葉も、また「ア号教育」に関する指示も一向に浸透せずに、この”自転”の前に消されてしまっていた。そしてこの”自転”を司っていたのが、前にのべた第二の型である。だがこの、過激な変革の言葉、急展開を命ずる指示、それと関係なく”自転”する組織という奇妙な関係は、軍隊だけのことではないらしかった。

 

それをはじめて私に教えてくれたのは、最後の引揚船でフィリピンから帰る時、内地からその船に乗り込んできた復員官であった。陸士出で、かつて大尉だった彼は、はじめて一般社会に出て、結局日本の大組織のすべてが、同じような型だと知ったと言った。(略)

 

彼はまず、陸軍の末端組織の実情を一つ一つ念を押すように短く語った。「そりゃ、軍、師団、連隊と言ってもこれ分岐していく神経系のようなもので、実際に動く単位は第一線の中隊でしょ。いわば手足ですね。そしてこれを掌握しているのが本当は准尉・曹長、そして日常の兵務は週番下士と週番上等兵がいれば十分なんです。そして将校は、それをどのように自由自在に動かすかを考えるということですね。

 

そのために戦術を学び、教育訓練を施す。しかし、その組織自体が、当面の敵と当面の戦場にマッチしたものかどうかは、だれも考えなかったんです」
いわば”自転”する組織をいかに動かすかは考えても、長い日中戦争の間、だれも、自転する組織の内実がはたして目的に対応する合理的なものか否かは、考えなかったのだ。


この指摘は確かにその通りであった。いわば将棋の駒をいかに動かすかは考えても、駒の質を根本から変えて別の機能を付与して新事態に対処しようとは、夢想だにしなかった。
従って、昭和十五年戦争のはじめも終りも、軍の基本的体制には何の変化もない。」

 

「この言葉は必ずしも悪意から出た言葉ではない。彼にとっては、私の申し出がおそらく非常識だったのである。だがそこには、自分の領域には絶対に触れさせない一種の「官僚の縄張り根性」もあったであろう。(略)

 

そしてもし、本気でアメリカと戦う気なら、まず”自転”する組織を解体して、最も合理的な対米戦闘組織に再編成してから「ア号教育」を実施すべきであって、それをしないなら、一切は上すべり、成果なき無意味な「学習」のはずである。
だが、わかっていて、それが出来なかった。この”自転”を支配していた生き字引は、准尉と、年功だけで一兵卒から叩き上げた無学歴将校たちであった。

 

小中尉といえばすべて士官学校での「青年将校」だと思っていた私は、入隊してすぐ、口髭の白い「老年小中尉」がいるのに驚かされた。(略)

 

また私たちが少しも有難がっておらず、わずか二年で手に入れる少尉の肩章を手に入れるために、この人たちは、その生涯の大部分を費やしたのであった。それを思えば、結局はその人たちが掌握している全連隊の、見習い士官への一種の嫌悪感は、当然であったろう。

 


無口で実直、やや狭量で多少は偏屈、目立たないが内心確固たる自信をもち、差し出口いないが意見もきなない、なすべきことは完全に「先例通り」にやっており、自分には一切手落ちはない、といった雰囲気を全身から発散させているタイプが、この人たちには多かった。こういう人は、すべての要所要所におり、根がはえたようにそこにいた。」

 


「全く新しい事態に対処するため、確かに幹部教育は必要であったろう。だがそのほとんどは、言わずもがなのわかり切ったこと、そして、いまの組織のままでは、どうにもしようがないこと、また、何らかの最高方針が確立していない限り、言っても無意味なことであった。たとえば次のように言われたとて、だれに何ができたであろう。

 

「ジャングル戦においては迫撃砲は有利であり、野砲は甚だしく不利である。(略)
しかも発見された場合、迫撃砲はすぐに分解・退避が可能だが、野砲は樹林に囲繞されて身動きができなくなる等々々」


これを聞いて青年将校はいらいらし、危機感ばかり否応なく高まるが、現実には、何をどうすることもできない。どこかに八つ当たりするのがせいぜいである。」

 

「やることなすこと、すべてチグハグ、一切が相手の出方への反射的対応で、総合的計画性はない。従ってセミナー自体が、創造的に活用できず、訓練に直結させることさえできない。」

 

「だが、考えるひまも研究する余裕もない。起立・礼で解散になる。すぐ午後の日華となり、昨日と同じように砲車は錬兵場を早足で駆け、私は六人の観測手に、磁針方向板の整備・撤収の練習をやらせている。(略)


みな、危機感を抱きながら結局は、その日暮らしになる。そしてそのためには一つの心理操作が必要であった。

 


二月一日、米軍はマーシャル群島に上陸、クェゼリン・ルオット両島の守備隊は全滅した。敵は着実に一歩一歩と前進して来るのだが、このころになると逆に危機感がなくなり、アッツのときのようなショックは、だれも感じなくなっていた。「危機なれ」というのであろうか。人間にはまことに奇妙な「なれ」がある。

 


そしてこのように徐々に危機が迫る時は、不思議にだれも「狼が来る、狼が来る」とは言わなくなる。逆に「大丈夫、大丈夫」「平気、平気」の声があがる。」

 


「それはちょっと、石油ショック後のある時期と似ていたかもしれない。ショックを手も、日常生活に変化がなければ、人はすぐショックを忘れる。そして、それまで年中”危機”ふぉ売り物にしていた人々が、不思議に危機を口にしなくなる。人々は何となく現状が半永久的につづくような錯覚を抱き、「あの部隊はうまくやっている」「あの企業はもうけすぎている」というようなことが逆に気になって来る、と言った状態であった。

 

「現実を見ろ」と人は言う。しかしそれは、絶対にたやすいことではない。特に組織の”自転”の中では、それは不可能に近いことであろう。人に本当の現実が見えるのは、一瞬「我に帰った」時だけかもしれない。(略)

 

その時私はまた一瞬「我に帰った」。だがすぐさま、超多忙ともいうべき出発準備の中に巻き込まれて行った。」

 

〇 「ジャパン・クライシス」を読み、危機感を持ちながらも何も出来ない今の状況ととても似ていると感じました。
あの原発事故や、安倍政権の犯罪的数々の問題に対しても、「危機なれ」もあります。

日本の組織は”自転”するばかりで、問題に対処することが出来ない。


だからこそ、この「課題=財政危機」はクリアして、少し「成長」すると、日本も、大人になれるはずなのですが。あの橋爪氏と小林氏の本が一番言いたかったのは、それなのではないかと、感じました。いつまでも、何もできない、しないままの国民でいいのか!?と。