読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

二・二六事件

 

橋爪 次に、二・二六事件です。これは数ある事件のなかで最大のもので、ほとんど成功寸前のところまでいったクーデター事件です。(略)

いわゆる天皇の直接親政をめざす、皇道的な観念を持つ軍人が増えてきたのも、こういう変化と軌を一にする動きなわけです。

 

 

さてそこで、陸軍省参謀本部の内部に、陸軍の主導権をめぐって、皇道派と統制派の対立が生まれます。真崎甚三郎大将らが、皇道派のリーダーとして、青年将校のあいだで人気を集めていたのですが、やがて皇道派が人事抗争に敗れ、真崎大将も本人不同意のまま教育総監のポストを更迭されてしまう。

 

 

 

皇道派青年将校が集まっていた第一師団も、満州に移駐することになって、いまを逃せばチャンスがないと思い詰めた青年将校たちが配下の部隊を率いて決起したのが、一九三六(昭和十一)年二月二十六日の二・二六事件です。

 

 

 

野中四郎大尉ほか一千四百名は、斎藤実内大臣高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、首相官邸陸軍省ほか要所を占拠した。岡田啓介首相も襲撃され死亡と報じられたが、実は危うく難をまぬがれ、二日後にようやく救出された。

 

 

 

彼らの目的は、”君側の奸”を除き、皇道派の暫定政権を樹立して、”昭和維新”を断行しようというものだった。

この事件のポイントは、陸軍の内部に同調者が多くて、事件発生の当初、決起部隊が義軍であるか、賊軍であるか、という議論が起ったことです。陸軍の首脳が、決起した将校と寿司をつまんだりしながら議論しているという状態で、とても反乱軍を討伐するという雰囲気ではなかった。

 

 

 

けれども天皇は、これは反逆部隊である、鎮圧すべきだと即座に判断し、その方向で粘り強く督励し続けた。

陸軍首脳はどのように行動したか、ですが、実にふらふらしていた。川島義之陸相青年将校の代表にとりかこまれて決起趣意書を手渡され、宮中へ参内して天皇にそれを読み聞かせている。

 

 

天皇は露骨に嫌な顔をして、「それより反乱軍を速に鎮圧する方法を講じるのが先決要件ではないか」と叱りつけたといいます。このあと川島陸相は、対応を考えあぐね、宮中で開かれた軍事参議官(荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎ら七名の大将)の会合に下駄をあずけてしまう。ここで合議のうえ、次に掲げるような奇妙な「陸軍大臣告示」ができあがった。(略)

 

 

 

反乱を起こした部隊が、反乱を起こしたまま、正規の指揮系統に編入されたのです。決起部隊は、決起が成功しつつあると楽観したほどだった。

これに対して、天皇はどのように行動したか。天皇は、誰よりもはやく、決起した部隊を反乱軍と規定し、それを鎮圧して正常な法秩序に復帰することを目指して、粘り強く行動した。

 

 

 

湯浅内大臣が、岡田内閣の総辞職を認めると反乱が成功したことになるので、暫定内閣の構想には絶対に同意しないように、とアドヴァイスすると、その通りだと考えて、その通りに実行した。(略)

 

 

二十七日に戒厳令が施行され、態度のはっきりしない香椎浩平中将が戒厳司令官に任命されると、「戒厳令を悪用するなかれ」と適切な注意を与えている。本庄武官長が、決起した将校に同情的な弁護を試みると、「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、その精神に於いても何の恕すべきものありや」と痛烈に反論している。

 

 

 

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」とまで言って、事件の解決をうながした。こうした天皇の毅然とした態度が、事件の正しい解決を方向づけたのはたしかです。

 

 

 

この際どうして、天皇の行動がそこまで重要だったかというと、決起部隊の襲撃によって内閣の主要メンバーが殺害されてしまい、岡田啓介首相は生死不明のまましばらく連絡がつかなかったので、国家意思がたまたま天皇の一身に集中する期間が一、二日あったわけです。

 

 

そこで憲法法治国家の枠組みを守るのか、それとも陸軍の一部が主張していた天皇親政的なイデオロギーに日本国の運命をゆだねるのか、というぎりぎりのところで、彼は憲法を守った。そういうふうに判断しています。(略)

 

 

 

加藤 この事件については、僕の考えはかなり橋爪さんの意見に近い、同意できると思います。やはり、このとき天皇は、ほかの人間にはなかなかできないことをやった。この人としても非常によく頑張ったんじゃないかと思う。(略)

 

 

基本的な評価に同意したうえで、評価の意味付けについて、ちょっと異論を呈してみます。(略)

だから、立憲君主としての判断ということとはもちろん関係してくるけれど、「天皇は立憲法治国家の原則によって断固として鎮圧した」というほどの透徹した認識は、やはりこのことだけからは結論できない。総合的な判断にてらして、このことをどう意味づけるか、ということになるんじゃないだろうか。(略)

 

 

 

一例をあげれば、これは戦後の話だけど、彼はなぜ自分が退位しなかったかという理由として、皇祖皇宗から引き継いだこの国を自分の子孫に伝える責任があったと言っている。ここには国民との関係はない。立憲法治の精神がないということになる。また、他のアジア人に対する認識ですよね。これがまったく欠如している。

 

アジアの人間に対する認識と言っても、東洋人だから一緒じゃないかということではなく、他者としての認識です。(略)

 

 

橋爪 まず、反乱軍であると規定したことがとても大切ですね。それは、張作霖事件のときに通じるものがあるんですけど、法律通りに思考する、それから憲法を守って行動するということを、彼はなによりも大事にする人なわけですよ。個人的な怒りもむろん感じていただろうけれども、その個人的な怒りと、公人としての行動を峻別する術を、彼は知っているし、峻別する能力もあって、その原則にもとづいて彼は行動したと私は思う。

 

 

 

加藤 いや、どうだろうか。戦後になって天皇は、自分は二・二六事件のときと終戦の時に関与したと言っている。なぜ関与したかという理由について、二・二六事件の時は首相がいなくて自分が決定するしかなかったし、終戦のときには午前会議の賛否の結果がすでに同数になっていて自分に決定がゆだねられたからだと、そういう言い方をしている。(略)

 

 

そんな事実からも、僕は人間的に悪印象を受けているかもしれないんだけれども、そういうことが積み重なって、その戦後の過去への言及の仕方の一貫しての印象が、この人はよく頑張ったけど、人間としてはもうひとつ上等じゃないという感じを僕が受ける理由になっているのです。

 

 

(略)

 

 

橋爪 いや、立憲君主国なら、君主は、自分の政治的信念を国政に反映させたりしてはいけないし、反映させたりできないはずです。

 

 

加藤 僕にもだんだん、橋爪さんのモチーフが掴めてきました。あの当時、政治の渦中にある人物で、昭和天皇くらいしっかり立憲的な意識で、戦前のファナティックな皇道派の対極で行動しようとした人間がいただろうか。そこをしっかり評価しなかったら、天皇の評価の軸が築けないじゃないか、ということだと思う。それはそのとおりでしょうね。賛成したい。(略)

 

 

だから、立憲君主であったのは、全体としてみると七分三分の三分くらいだった。打率でいうと二割八分。そういうことを過不足なく評価するということが、すごく難しいところであり、大事なところじゃないかと思う。

 

 

 

橋爪 加藤さんはいやに点が辛いですね。天皇に恨みでもあるのかな。

 

 

加藤 いや、二割八分なら野球選手の打率としては許容範囲ですよ。しかしけっして卓越した打者ではない。そこを過不足なく受け入れよう、そういう意力をもとう、ということです。(略)

 

 

(略)」

 

〇 以前、橋爪氏の「人間にとって法とは何か」でも、触れられていましたが、

私たちの国の「法」は、中国に習い、

管理者=為政者=官僚が、国民を支配するためのものだと考えられてきた、と

書かれていたと思います。

 

引用します。

 

法律とは中国では、統治の手段であり、端的に言って、支配者(皇帝)の人民に対する命令です。神との契約という考え方とは、大変に違います。

支配者の人民に対する命令ですから、支配者の都合で出されるわけで、人民はそれに従わなければなりませんが、支配者は必ずしも従う必要はない。」
 

 

戦後、アメリカの支配を受け、一応民主主義国になり、法の下での平等が謳われ、

誰もが同じように、法に従わなければならないということになりました。

少なくとも、私はそう信じて、この年まで生きてきました。

 

 

ところが、安倍政権のやり方を見ていると、実際には、そう考えていない為政者がかなりいるということが分かりました。自分たちは法を守らない。レイプもOK、公文書の改ざんもOK、贈収賄もOK、ルールは、下々の者たちを支配するためのもの、というやり方です。

 

そんな風土があるこの国で、天皇が「法律通りに思考する、それから憲法を守って行動するということを、彼はなによりも大事にする人」だということが、どんなに驚くべき貴重なことであるか、と私も思いました。