読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

満州事変

 

加藤 少し抗弁をすると、僕には天皇にまつわる組織、法制がやはり恣意的というか、近代的なものと非近代的なもののアマルガム(amalgam 合金)になっているという判断がある。それが、僕の天皇への行為への評価に影響していると思う。(略)

 

 

橋爪 まず、この問題の補助線として、天皇大元帥として陸海軍を統帥するとは、憲法の面からどのように理解したらよいのか、少し話しておいたほうがいいと思うんですけれども。

大日本帝国憲法の独自な構成のひとつとして、「統帥権の独立」という問題があります。

統帥権とは、軍事行動を起こす場合にどのような戦略目標をたて、どのような戦術で目標を攻略するか、それにはどの師団、どの方面軍にどのような任務を与えるか、という作戦命令権のことです。(略)

 

 

 

軍の編成や装備を決める編成大権も統帥権に含める場合があるようですが、編成となると予算がからむので、内閣も関係してきます。

では、欧米において統帥権にあたる考え方はないのかというと、それにあたるのは、「軍政と軍令の分離」です。軍隊には、平時と戦時の区別がありますが、平時には予算とか人事とか軍の編成とかをあつかう「軍政」というものがあり、戦時には戦闘行動時における作戦命令権などの「軍令」というものがある。

 

 

 

この軍政と軍令がわかれている点が、近代的軍隊の特徴です。(略)

戦争は、緊急事態なので、軍隊を動かすのにいちいち民主てきな手続きを踏むわけにはいかないのです。でも、その軍令の頂点にあるのは、シビリアン(政治家)であって、大統領なり首相なりの国民の意思を代行できる人間が総司令官として指揮をとる。これが軍令(統帥権)の独立ということの、もともとの欧米的な意味なんです。(略)

 

 

実際問題としては、出動した軍隊に予算をつけないと、弾薬や食料の補給がなくて立ち往生してしまいますから、政府(内閣)や議会も関与します。でも、それは、すでに勝手に作戦行動に移っている軍の決定を追認し、後追いするかたちになる。もちろん天皇には、事前になんの相談もない。ずるずる戦線が拡大していったのは、そのためです。そもそもそのような戦争をするかしないかという、日本国としての議論は、ないに等しかった。

 

 

 

加藤 最近出た「逆説の軍隊」によると、西南の役のときは、官軍には軍令という概念がまったくなかったらしいですね。そのため、薩摩をせめるときに内部で争論になって、いろいろな問題が起こった。そこで、一八七八年ドイツ駐在から帰国した桂太郎の建策によりドイツの軍政・軍令の二元的軍制が採用された、そう言われています。(略)

 

 

いずれにせよ、統帥権というものをつくり、政党などによって軍令が侵されるとまずいので、天皇に直属させるというかたちで独立させた、それが統帥権を独立させる最初のモチーフだった。日本の統帥権は西洋とは違うかたちであったという橋爪さんの説明は、それでよいと思います。

 

 

 

宣戦布告についても、満州事変や日華事変の特徴のひとつが宣戦布告のない戦争だったということの意味が、それで内閣が関与しにくくなり、軍が軍令だけで動ける範囲が大きく確保されることになった点だというのは、適切な指摘だと思う。(略)

 

 

軍令事項も奉勅命令など天皇の裁可の対象となっているわけだし、また、軍を動かす時には予算がいるし、陸軍大臣海軍大臣の裁可がいる。(略)

軍部以外の力が、この独走を防止するチェック機能が、そこで働かなければならなかったわけで、方法がなかったということではない。(略)

 

 

 

そのうえで聞きたいんだけれど、満州事変と日華事変の場合、天皇が不拡大の方針をとってちゃんとした対応をした、と言う橋爪さんのポイントはどこにあるんだろう。(略)

 

 

 

橋爪 統帥権社会学的機能についてもう少し説明すると、それは天皇の軍に対する命令権ではなくて、軍が天皇の名を借りて、内閣・政府のコントロールをはねのけ、独自の組織としてふるまう権限、であったのです。加藤さんの言うように、事変だからといって統帥権は影響をうけなかったが、ということは、軍が内閣よりもいっそう優位に立ち、戦争拡大の既成事実を盾に内閣にそれを認めさせるというパターンが繰り返されたことを意味します。

 

 

さて、当時の習慣はなかなかわかりにくいんですけれども、まず、統帥権が正式に作戦命令としてつくりあげたものを上奏した場合には、天皇は原則としてそのまま裁可することになっていた。(略)

 

 

上奏→裁可というのは、鍵のかかった箱に作戦命令書が入っているのを、侍従武官長が取り次いで、天皇が署名し、また箱に入れて送り返すという手続きです。(略)

その内奏の機会をとらえて、天皇は質問というかたちで、危惧を表明したりすることができる。この質問というのは命令ではないのですが、「こういうことは心配しなくてよいであろうか」というふうに質問して、結果責任について確認を求めるわけです。

 

 

 

内心反対であるときほど、こういう質問を連発することになります。(略)

そこで満州事変についてですが、大事なポイント、ポイントで質問をしていると思うけれど、ひとつは「万里の長城線」に関するものです。万里の長城の南側が河北省(中国)で北川は熱河省満州国)なのですが、もし作戦行動の範囲が長城線を越えて河北省にかかれば、国際連盟との対立が決定的になって、日米関係も修復できない状態になってしまうことは容易に理解できる。(略)

 

 

 

一九三三(昭和八)年二月四日、閑院宮参謀長が熱河作戦を上奏し裁可をあおぐと、異例なことに天皇は、「熱河作戦ハ万里ノ長城ヲ超エテ関内ニ進入スルコトナキ条件ニテ、許可スル」と申し渡した。(略)

陸軍は閣議で、すでに天皇の許可をえたと言って作戦をごり押しする一方、天皇には内閣も承認していると説明していたので、天皇は怒り、作戦の中止を大元帥の権限で直接命令できないかとまで考える。

 

 

 

相談を受けた奈良武官長が、それでは天皇親政になってしまいます、とこれを思いとどまらせ、長城を超える場合には作戦を中止させるという”注意”を参謀本部に伝達するかたちにおちついた。(略)

 

 

ところが関東軍は、熱河省討伐の余勢をかって、河北省になだれこもうとした。天皇は、奈良武官長に替わった本庄茂武官長を呼び、長城線を越えない条件つきで許可したのにこれを無視するのは、軍紀の点でも統帥権の点でも問題があると、参謀本部に注意させている。

 

 

関東軍は、はじめから長城線突破の作戦計画を立て、止められると困るので中央には連絡しなかった。参謀本部でもこれに気付きながら、あまり真剣にとめようとした形跡がない。天皇ひとりが本気で心配したが、彼にもどうしようもなかったというのが実態なのです。

 

 

これ以外の折節にも、天皇の質問は、いつも戦線の拡大ではなく、縮小へ、和平へと向いていた。これがひとつの証拠になるわけです。

 

 

 

加藤 満州事変については、僕も調べましたが、いまの話を聞くとやっぱり評価が逆になります。(略)

そうした状況のなかで政府は、朝鮮軍の行動を追認し、天皇もこれを了承し「関東軍を援けよ」とまで指示してしまうわけです。しかも、事件落着後、事態が一段落したあとも天皇は林を処罰しようとはしていない。この統帥権干犯を天皇は罰しない。つまり、軍事行動面での軍部独走に対する追認の前例を開いている。

 

 

当時、軍隊を動かすのも止めるのも天皇にだけ認められた統帥事項でしたから、ここで天皇が追認をしたことから、それ以後、軍は大きな顔で行動できるようになる。(略)

これについては田中伸尚「ドキュメント昭和天皇」などに詳しく書いてあります。(略)」

 

 

〇 読んでいて、やりきれなくなるので、一言だけ感想を書きます。

加藤氏ほどの人でも、こんなにも橋爪氏が説明しても、

天皇機関説としての天皇の立場を理解出来ないのだ…と思うと、ここに、天皇制の

問題があると思わざるを得ません。

 

 

天皇には、指示したり命令したりすることは出来なかった。何度もそう橋爪氏が説明しているのに、「当時、軍隊を動かすのも止めるのも天皇にだけ認められた統帥事項だった」と言う。

 

これは、今後も続くのでは?と思います。

内田氏は、このような複雑な天皇制を制御できるほどに日本人が成熟するなら、

どんなに素晴らしいか…的に、語っておられたけれど、単純な善悪の基準さえ、簡単に破壊して、社会の枠組みを滅茶苦茶にする政治家しか持たない私たちの国が、そんなふうに成熟するのは、いつになるのか、と絶望的な気持ちになります。

 

「(前からつづく)

僕の感じだと、一九二八年の張作霖爆殺事件のときもそうだけれども、この一九三一年の満州事変の時にも、天皇が信賞必罰をしっかりと行うべきだった。とくに満州事変の場合は、朝鮮軍司令官の干犯行為を処罰できるのは統帥権者である天皇のほかにいないわけですから、処罰の意思をきちんと表明して、林銃十郎を譴責処分することが必要だった。これは「失政」のひとつに数えられる。(略)

 

 

橋爪 統帥権干犯というのは、北一輝が発明した造語であるといい、陸軍や行動派青年将校のふりまわした殺し文句でしょう。どうか、軍紀違反と言ってもらいたいものです。(略)

 

(略)

 

橋爪 錦州の爆撃、占領、ならびに勅語の件ですが、その意味を理解するには、まず満州事変勃発当時の、中国ならびに満州の情況についてざっと復習しておいた方がよいと思います。(略)

 

 

満州事変以前の関東軍は、広大な満州のうち、ごくかぎられた点と線で活動できたにすぎず、それ以外の地域で行動する権限は与えられていなかったのです。(略)

そこでいきおい、何者かの攻撃があったように自作自演して出動する、すなわち謀略にたよることになる。満州事変の謀略のシナリオが描かれたのは、こういう関東軍の制約によるのです。(略)

 

 

 

関東軍は、満州に新政権を樹立しようと工作していたが、政府(若槻内閣)はこれに反対し、国民党(南京政府)との交渉で事を収めようとしていた。こうした政府の方針をつぶすために、関東軍の本庄司令官は錦州爆撃を命じたのです。

 

 

 

錦州爆撃(一九三一年十月八日)には、関東軍の石橋莞爾参謀も同行している。関東軍は軍中央には、偵察中に射撃を受けたので爆弾を投下した、と報告しているが、実際にははじめから爆撃を目的とした行動です。アメリカは、無警告で無防備の都市を爆撃することは戦時ですら許されないことだと抗議するなど、予想通りの国際的な非難をあびました。(略)

 

 

 

天皇勅語が、加藤さんの言うような政治的効果をもったかもしれないことは否定しません。けれども、作戦行為が一段落するたびに、天皇がなんらかの勅語をだすことは当時の常識だった。そんななかで、天皇は、軍部の意向に同調しているのではないことを示そうと、苦労しているのです。(略)

 

 

 

金谷参謀総長は、朝鮮軍に電報を打ってストップをかけ、天皇にもそのように報告した。天皇も「拡大セザル様努力ストノ方針ハ誠ニ結構ナリ」と満足の意を表した。朝鮮軍足止めの報せを受けた関東軍はあわてて援軍を求める電報を打つなどし、結果、朝鮮軍の混成第三十九旅団三千は、奉勅命令なしに国境を越えて奉天へ向かう。陸軍中央はこれを追認することに決め、たとえ閣議が認めなくても天皇に上奏、裁可されない場合は金谷参謀総長、南陸相が辞表をだすことを申し合わせます。

 

 

 

これに対して九月二十二日の閣議は、朝鮮軍の出兵について、賛成はしなかったが反対もせず、既成事実を認め、あろうことか出動した部隊の経費の支出を承認してしまう。天皇は、翌二十三日、若槻首相に不拡大の方針を徹底するように指示し、首相はこれを閣議で伝達したので、南陸相と金谷参謀総長は、今度は出動した部隊をもとの満鉄付属地に引き揚げるよう命令を発したが、いったん動き出した関東軍の暴走は止まらず、さきほどの錦州爆撃などが生ずる、というのがこの間の流れです。(略)

 

 

 

軍と政府が一致している。そういうことであれば、天皇としてはどうしようもないわけです。それは決して、結果オーライのご都合主義ではないのです。これでも天皇の責任を問えるのだろうか。

 

 

 

加藤 勅語の件はわかりました。でもここでのもうひとつのポイントは、やはりその後、天皇統帥権の侵犯、橋爪さんの言うところの軍紀違反を、一見落着のあとも不問に付しているということです。これはただの軍紀違反ではない。天皇にしか譴責する権限のない軍紀の違反です。内閣の輔弼事項でもない。統帥権者である天皇がその職責において、けっしてしてはいけないことです。(略)

 

 

橋爪 それは、当時の日本軍のメカニズムを知らない暴論だと思う。軍紀違反を処理するには軍法があり、師団や軍中央がそれを行なう。政府はまったく関与できないし、天皇軍紀違反をそのままにはしておけないと思っても、その手続きが存在しない。軍紀を守るように、と繰り返し注意するのが精一杯なのです。「天皇にしか譴責する権限のない」のではなく、陸軍大臣にしかないのですが、その陸軍大臣をはじめ軍中央にまったくその気がない。

 

 

加藤 しかし、そう言えば天皇統帥権があることの意味は、ほとんどなくなる。

 

 

橋爪 加藤さんがどういう本を読んだか知らないけれども、天皇悪者説に立った歪んだ資料解釈の本なのではないか。すべての正式な命令は、全部、天皇が署名しますけど、その立案はすべて参謀本部がやる。ですから参謀本部が撤退命令を書いたわけです。(略)

 

 

加藤 しかし橋爪さんが依拠する天皇よりの児島襄の「天皇」にも、奈良武官長が十月一日、日本側の誠意を示し、かつ関東軍の独走を制止するためにも朝鮮軍越境問題の処分を行うべきだと考え、天皇に意見を求めると、天皇が、参謀総長にはすでに「将来は注意せよ」との訓戒を伝えてあるのでそれ以上は不要だろう、林銃十郎朝鮮軍司令官も「軽度の処分」でよかろうと言い、かえって奈良武官長がその「天皇の寛容さ」に驚いたという記述がある。(略)

 

竹田 議論の途中だけど、少し観想を言わせてください。橋爪さんの議論の意図は、これまでわれわれがもっていた平均的な昭和天皇の像を、かなり大幅に変えようとするものだと思う。(略)

 

 

 

まずひとつは、昭和天皇は、現人神とか統帥権者とか言われて相当強力な権力をもっていたように思えるが、現実には戦前の日本の軍優勢の軍・政府関係のシステムのなかで自分の政治的意志を反映させることは、相当制限されていた、ということ。

 

 

 

もうひとつは、彼は、天皇という役割を周囲の事情におされてなんとなく受け入れていた人間ではなくて、立憲君主という役割をかなり自覚的に果たそうとしたが、しかしいま言った政治システムのなかでなかなか果たせなかった、ということ。(略)

 

 

 

ただ、もちろんこれは、もう少し聞いてみないとまだはっきりはしませんが、仮にそうだとしても、つまり、天皇は近代的な立憲君主たろうとしていたが、さまざまな制限からそのことをうまく実行できなかった、という像がかなり実情に近かったとしても、天皇がそういう立場にあった以上、誰も彼の戦争責任を追及できないという言い方にはすぐにはならない、というのが僕の感じです。(略)

 

 

加藤 (略)

僕は、一応、役割分担の気持ちで反対意見を出しているけど、自分の判断としては、よくやったというところもあれば、もう少しやれたんじゃなかというところもある。(略)

 

 

 

橋爪 でもね、満州事変が起きる直前の九月十日と十一日、安保海軍大臣と南陸軍大臣にそれぞれ、「軍紀ノ維持ハ確実ナリヤ」とわざわざ異例の下問をしているのですよ。張作霖事件このかた、軍では用心して、余計なことを天皇の耳に入れないように注意していたとは思うんですが、それでも異様な空気を察知して、そういう質問をしている。元老のアドヴァイスもあったろうと思いますが、なかなかのセンスではないでしょうか。

 

 

 

満州事変は、張作霖事件のときと違って、関東軍が組織ぐるみで仕組んだ陰謀で、あれよあれよという間に拡大してしまった。参謀本部にも一部根回しが進んでいたので、止められなかった。政府も軍にひきずられて、状況の追認に終始し、軍と政府の不一致という局面は最初の数日だけだった。天皇がいくらそうしたくても、事変の拡大を阻止する手段もチャンスもなかったのです。」

 

 

 

〇 森友・加計問題や桜を見る会の不正や、それに絡む公文書偽造や破棄の問題、そしてそれを覆い隠すマスコミを使うための不正、準レイプ犯を見逃したり、吉本に多額の投資をしたりと、やりたい放題のやり方を見ていると、この関東軍のやり方に通じるものがあるように思えてきます。

 

今や、本来は罪として裁かれなければならない、疑惑も「それについてはすでに終わっています」との一言で片づけられてしまいます。

 

こんなやり方を黙って容認していたら、「あれよあれよという間に」とんでもない所へ連れて行かれるのでは…とおそろしくてなりません。