読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「第8章 儒教と法


法ではなく徳による支配を

次は儒教についてです。
儒教というのは、孔子孟子の教えで、中国の大思想ですが、最初におさえておくべき事は、儒教のグループ(儒家)は法家と論争していて、これを論敵としていたということです。



儒家は「徳治主義」といって、法律によらないで、支配者が道徳を備えるならば、自ずから政治はうまくゆくという考え方によっていました。このことは儒教のテキストに書いてあります。



これに対して法家の学説を見ますと、そんなことを言っても人民はついてこないので、厳格な法律を施行して、法律による取り締まりを厳しくして国家を統治しなければならない、こう書いてあります。



見た所、たいへん対極的です。
儒教の考え方は法律に価値を置かず、それを信頼しないというのが基本です。ただその関係は、たいへん微妙です。


まず、法家と儒家は、時代的に少しずれるので、孔子などの時代から百年、二百年下ってから、韓非子などの、法家の主要な人物が出てきます。その間に中国の社会情勢が変化しました。孔子の時代には、まだ地方の小さな共同体の秩序が残っていて、そこでは道徳を中心にして、長老や支配者が正しく伝統に即して行動すればみんながついてくる、とう道徳支配が可能だった。




しかし、より広い範囲の社会を統合するとなりますと、そうはいかず、やはり法律を重視しなければならない。こういう社会の変化が反映されているのではないかと考えられます。



とにかくその後、統一帝国の試みが秦の始皇帝によってなされて、彼が採用したのは儒家ではなく、法家でした。「焚書坑儒」ということで、儒者は弾圧されて、その代わりに法家の学説が取り入れられました。ところが秦の帝国が、わずか数十年で滅んでしまった。そしてこんどは漢が出てきます。



漢は、秦がすぐに滅んでしまったことを反省し、それはあまりに厳格な法治主義を取り入れ、人民が反発したからではないか。そう考え、儒家を再評価し、儒教を正式に採用しました。


でも、漢の帝国は秦の帝国の作り直しですから、よく似ているのです。ということで、隠し味に法家の考え方が下敷きになっている。この段階で儒家と法家は、癒着してしまったのではないか。建前は儒教で、皇帝の徳によって政治を行なうなどと言いますが、現実に人民を支配する場合は、法家の考えを取り入れ法律でびしびし取り締まった。そう理解できます。



中国社会の構造と法

法律とは中国では、統治の手段であり、端的に言って、支配者(皇帝)の人民に対する命令です。神との契約という考え方とは、大変に違います。
支配者の人民に対する命令ですから、支配者の都合で出されるわけで、人民はそれに従わなければなりませんが、支配者は必ずしも従う必要はない


たとえば中国では、「刑は士大夫に上らず」という言葉があります。士大夫というのは官僚のことだと考えれば、刑法は人民には適用されるけれども、官僚には適用されない。そういう意味です


じゃあ、官僚が法律に違反したらどうするのか。ここが中国の官僚制の、いちばん難しいところです。官僚は法律違反のし放題で、賄賂を受け取ったり、税金をネコババしたり、昔からそういう事件ばかりでした。


あまり目にあまる場合には、取り締まらなくてはいけない。慣習として、皇帝が刀を悪い役人に送り届けると、役人はそれを使って自害する。こうやって自分で自分を取り締まることになっていた。


このとおり実行されたかどうかはわかりませんが、これは法律とは別に、行政処分のかたちで行われていたわけです。
支配者と非支配者とは、別々な法律に従っているわけですから、イスラムのような法共同体は構成されません。そして、社会は上図のような感じです。



基層には小さな共同体があって、ここのなかでは法律は必要がない、血縁にもとづく秩序というか、家族道徳というか、そうしたもので人間関係が営まれています。
ここで儒教が生きていて、年長者を敬う、親を大切にする、そういう行動様式が支配する。



法律は、いくつもの共同体のうえに乗っかっている官僚制の統治機構が、人民を統治するために命令の形で設定するものである。刑法だったり行政法だったりするわけですが、全体としてこういう構図になっています。



頂点に皇帝がいて、その下に官僚がいます。皇帝―官僚の秩序と、人民の共同体の秩序とは、まったく違っている。儒教はその両方の秩序をカバーするもので、共同体の内部は「孝」、官僚には「義」もしくは「忠」を要請する。それぞれ、親に対する服従、君主に対する服従です。この両方をまとめて「仁」という。こういうふうになっています。



中国法の特徴をもうひとつ言うと、連帯責任制であるということです。刑法が連帯責任になっていて、子どもが犯罪を犯すと親も罰せられる。重大な犯罪の場合には、親のみならず親戚や、ことによると友人も罰せられるのです。「罪は九族に及ぶ」といって、基層の共同体がまるごと処罰されるのです。


こういう刑法のもとでは、犯罪者を出さないように、お互いに監視し合います。これが連帯責任制の目的なのですが、その結果、個々人の行動の自由がなくなります。だいたい古代は、ほとんどの専制国家は、このような連帯責任制を課したものでした。



それは社会秩序の根幹が、小共同体(中国の集合には血縁共同体)によって維持されていて、それを利用したほうが効率よく統治できるという事情によります。しかしこれが長いあいだ続いていくと、人間の考え方や行動がそれによってねじ曲げられて、人権とか自由とかいうものと馴染まないものになってしまいます。連帯責任制は、個人の自由を抑圧し、抑制するわけです。」

〇 「刑法は人民には適用されるけれども、官僚には適用されない」「皇帝が刀を悪い役人に送り届けると、役人はそれを使って自害する」犯罪者を出さないように、お互いに監視し合います。これが連帯責任制の目的

あの戦時中のルール、帝国陸軍にあったルールは、これだったんだ、と思いました。
そして、今、安倍総理の友人や安倍総理自身の犯罪が追及されないのは。「人民」の刑法と「支配者」の刑法が違っているからだとわかりました。

少なくとも、「支配者」たちはそう思っているのでしょう。だから、平然と安倍総理の犯罪を見逃している。