読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「そこでいま検察官の胸の内をしばし考えてみようではないか。なぜ日本の検察官たちは、前任者たちと同じように権力を行使し続けようとするのだろうか?(略)

容疑者の運命を決定する権限を与えられているのは、自分の所属する機構がずっとそうしてきたからだと考えているのではないだろうか。

 

 

社会秩序を守るというこの機構の任務は、神聖視されていると言ってもいい。そして日本の官僚は社会秩序を守るべきだという妄想に近い思い込みがある。

日本の政治エリートたちは秩序ある社会は望ましいと思っている。それは正義よりはるかに望ましいものなのである。

 

 

そのため、日本の司法システム内には、社会に正義が行われるよう目を光らせる立場の人間がいない。裁判官は検察の決定にしたがうが、それは多少なりともそうせざるを得ないからだ。そして検察庁にとっての最大の関心は現体制の維持である。それは既存の体制にしがみつくことが、秩序を保つやり方としては一番いいように思えるからなのだろう。

 

 

 

このことは日本の民主主義にとってきわめて重大な意味がある。既存の体制の中で政策を決定するのは、選挙された政治家ではなく、政府省庁のキャリア官僚たちである。しかし日本に民主主義を実現するためには、政治家が官僚の意思決定に支配力を及ぼせるようでなければならない。つまり現体制は大幅に変わる必要がある、ということだ。官僚はなんとしてでも、それを阻止しようとするだろう。

 

 

 

日本の検察は法務省支配下にある。つまり官僚機構全体に従属しているということだ。官僚が強い政治家を恐れるようになると、検察官がそれを始末してやる。田中角栄金丸信たちがそうだった。強い姿勢で改革を推進しようとする政治家であればだれでも、同じような目に遭うだろう。(略)

 

 

弊害を生む社会秩序へのこだわり

 

検察官を駆り立てるのは正義感が強いからではない。社会秩序を守らなければならないとの強い思い込みがそうさせるのである。(略)

厚生省が日本女性を間接的に管理していたのも、社会の秩序を守ろうと考えてのことであった。文部科学省は日本の青少年の精神的な発育をうながすことよりも、画一的な学校システムを維持することに力を注いでいる。

 

 

 

日本は少なくとも表面的には秩序正しい国である。抗議集会やデモ行進もほとんどの場合は実に整然と行われる。私は一九六〇年代の警察と左翼学生たちとの衝突を覚えている。学生たちが投石し、機動隊が催涙弾で応酬していた時でさえ、私はわかりきったバレエの演目でも見ているような気がしたものだ。(略)

 

 

いわゆる終身雇用制の恩恵に浴したのは、日本の労働者の三分の一にすぎないだろうが、それはシンボルとして大きな意味を持っていた。社会秩序を維持するためには、たとえアメリカやヨーロッパの規準からすれば倒産してもおかしくない状態がしばらく続いたとしても、大企業の倒産をごく少数にとどめておく必要があった。

 

 

もしサラリーマンの大多数が職を失えば、国民は慈悲深いはずの管理者たちに不信を抱くことになり、そうなれば別の労働市場が登場しかねず、政治化されていたはずの日本社会は不穏な状況に突入する可能性がある。管理者たちはなによりもそれを恐れている。

 

 

 

私は定年を迎えた高官と何度も話したことがある。彼らは政治家による官僚支配非常に重要だという私の意見に基本的には同意してくれた。経済の多くの面で自由化が必要であることを、彼らも理解している。また日本に民主主義を実現させることは、決して必要もない贅沢品などではなく、安定した将来には不可欠であることも理解している。

 

 

だがそれでも彼らはやはり混乱を恐れている。もし官僚が従来のように社会を支配しなくなった場合、国民はそのような現実を生きるのに必要な訓練を受けてはいない、と彼らは心配するのである。そしてたてまえが信じられなくなれば、国民は反抗し手に負えなくなるのではないかと恐れている。彼らは正しい。心配するのは当然だ。

 

 

だが私には、日本の民主主義の実現が先延ばしされればされるほど、混乱の危険性は高まるように思えるのである。

さんざん管理者たちを批判してきた私がこう述べては、矛盾するように聞こえるかもしれないが、私は日本の市民は管理者たちに共感を持つべきだと思う。そうなってこそ、官僚が直面するジレンマについてはっきりと理解できるようになるからだ。本書が論じて来たような結果が生じたのは、彼らが「悪かったから」でも「間違っていたから」でもない。官庁のお役人の大半は、自分が正しいことをしていると信じている。

 

 

 

私は自分がこれまで日本という国や個人を批判してきたわけではないことを、読者にわかってほしいとお願っている。私はあくまで日本の政治という不運な現実を分析してきたからだ。さらにはそうした現実を維持する仕組みや習慣、構造を分析してきた、ということなのだ。(略)

 

 

秩序を維持するという任務を受け継いだ彼らは、政治化された社会を維持する以外に、そのやり方を知らなかったのだ。

ちなみにそのような社会には混乱が生じる危険性が多分にある。何故なら政治化された社会は法律や民主的な制度といった、人間以外の要因をよりどころにしているわけではないからだ。

 

 

日本には偽りの現実があるために、それが中産階級の政治活動をさまたげているのだが、官僚自身もそのために正しい判断ができずにいる。彼らが自分たちの置かれた状況について、問題の核心に触れるような率直な議論をするのを恐れるのはそのためだ。

 

 

 

本書の第三部では官僚たちが自分たちは権力を行使しておらず、しかも彼らの権力など日本の政治システムの中では重要ではないと偽りながら、実は自分自身を欺いている、という実態について論じるつもりである。

 

 

事実を率直に認めようとしないからこそ、自分自身の置かれた立場をはっきりと理解することができないのである。

 

 

 

他国の官僚たちは、合理的な議論や、知的な警告、真の意味での政治討論に応じた行動を促すような、知的な伝統や政体に支えられているわけだが、日本の官僚にはそれがない。

 

 

日本の市民にはこうした官僚を助けることが可能であるのみならず、自分自身のためにもそれは重要である。いい人生を送りたくとも、政治化された社会がそれをいかに妨害しているかを、市民は繰り返し訴えるべきである。そして別のやり方があるはずだと声を大にして主張すべきなのである。

 

 

 

さらには本書でこれから明らかにしようとしている事がら、管理者たちを震撼させるとしても、理解しなければならない事柄について、はっきりと知るべきなのである。

 

 

すなわち日本の官僚独裁主義が維持しているはずの統治機構そのものを、実は彼らが支配できずにいるという事実である。そしてたとえどんなにささいなことであったとしても、必要な支配を確立すべく寄与できるかどうかは読者であるあなた次第なのである。」

 

〇 具体例を挙げて、考えてみたいと思います。先日、北欧の少女が環境破壊について、訴えるために行動している、ということが話題になりました。それについて、日本の政治家が、「少女の意見に振り回されるな」的な発言をしたと聞きました。

 

詳しく調べたわけではありませんが、報道されたものを読むと、「少女の中身の

ない発言に振り回されてはだめ。15歳はまだ経験も少ない。大人として、真剣に対峙し、その未熟さを指摘してあげなければ…」というような内容だったと思います。

 

私は、思うのですが、彼女は、環境破壊の恐怖を語り、その具体的な怖れについては、科学者の意見に耳を傾けてほしい。科学者の警告を受け入れてほしい、と言っているのです。

 

この発言のどこに「少女だから」とか「未熟者の言うことに振り回されるな」と言われなければならない問題があるでしょう。

 

環境破壊によって、将来酷い目に遭うのは、まさにこの年代の人たちです。

そして、そのために、科学者の言葉を聞いてほしい、と言っているのです。

とても、「合理的」で「知的」だと思います。

そのことも理解できずに、「少女」だから「十五歳」だから、と真剣な議論から

逃げようとする態度は、本当に情けない姿勢だと思います。

 

何が本質的で大事な問題なのか、何がどうでもいい問題かについて、

いつもごちゃごちゃにして、目くらましをし、本気で考えようとしない

態度が見え見えで、恥ずかしくなりました。

 

「他国の官僚たちは、合理的な議論や、知的な警告、真の意味での政治討論に応じた行動を促すような、知的な伝統や政体に支えられているわけだが、日本の官僚にはそれがない。」

官僚のみならず、今や社会全体に「それがない」状況になっていると思います。

 

何故なのか。何故いつも「それ」がないのか。私はそれが知りたいのです。

どうすれば、「それ」がある社会になるのか、知りたいのです。