読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「真の愛国主義が試されるとき

 

本書の結びにあたって、私はふたたび歴史に立ち戻ってみようと思う。そうすることで見えて来るものがあるはずだ。日本の政治に深い関心を寄せるひとりで、偉大な歴史家であるE・H・ノーマンは、「日本の封建後期のすさまじい抑圧は、当時の日本の精神や社会を深く傷つけた。たとえうわべはいかに穏やかで整然としているにせよ、その中には鬱積した、暗く底知れぬほどに深い暴力、激しい感情と残忍さという力が潜んでいる」と述べている。

 

 

 

 

この著名なカナダ人学者は日本にことのほか強い共感を抱く作家である。彼は明治時代のオリガーキーたちは、この国の有する最大の資源とは国民であることを理解していなかった、と結論付けているが、私もこの指摘は正しいと感じる。

 

 

彼らは下級階層の同胞を軽蔑し、彼らを痛めつけ、残忍にあつかった。そしてそうした人々は兵士になるほか価値がないと見ていた。生産マシーンの歯車にすぎないと考えていたのだ。だが普通の人々にはすばらしい能力が備わっている。つまりオリガーキーたちは判断を誤ったのだ。

 

 

日本を近代国家に変えようという困難きわまりない事業に乗り出した彼らではあったが、一般の人々を、偉大にして自由な国家・日本に貢献できる才能ある人材としては見なそうとしなかった。

 

 

 

比類のない成果を上げた明治のオリガーキーではあったが、彼らは自らの地位が不安定であることを恐れた。広い世界に向き合う日本を変貌させる計画は野心溢れるものであったが、そのこと自体が、彼らをおびえさせた。彼らは自分たちに国を運営する権限があるのだろうか、と疑念を抱いたが、それもまた彼らの不安を助長した。では誰が与えた権限なのか?

 

 

 

そこで彼らは天皇にこうすべきだと耳打ちしては、それを伝えさせることで、天皇の意思という神話を生み出した。こうしたやり方はいまのキャリア官僚たちが国会答弁のために、政治家たちに日本市民の代表としてどう意思表示すべきかを告げるのと大差がない。

 

 

 

そして命叔父のオリガーキーたちは大衆の持てる潜在力を悪用した。日本の人々の感情というエネルギーを、みずからの目的達成のためのエネルギーへと変えられることを、彼らは正確に理解していた。ところが彼らはそれを軍国主義的な鋳型に押し込んだ。これは惨めな失敗に終わった。

 

 

 

私にはいまの管理者たちがなおも日本国民を恐れているように思える。ベテラン官僚と日本社会や政治の基本的な問題について話すたびに、彼らが社会が手に負えないほど混乱するのではないかと心配しているのを、つねに感じる。

 

 

同じことが新聞のベテラン編集者たちについても言える。だからこそ彼らは官僚たちに協力して、手強いと見なした政治家をおとしめるキャンペーンを繰り広げるのだ。日本の政治エリートの多くは、普通の人々のなかから責任感のある市民階級が登場する可能性を決して認めようとはしない。

 

 

 

本書の目的のひとつは、日本にとってのもうひとつ別の偉業は、達成可能であるばかりか、必要でもあると読者に納得してもらうことである。そしてその偉業を達成することによって、日本の民主主義も実現できるのである。

 

 

 

日本で民主的な制度が本来の機能を発揮し始めれば、非公式な権力構造もその重要性を失っていくだろう。不安や恐れの種も、それがおよぼす影響も消えていくに違いない。そしてサラリーマンの世界は、普通の中産階級の世界になるはずだ。人々を檻のように閉じ込めて来た社会の鉄格子も、取り除かれることだろう。

 

 

要するに、日本の国民は、安全保障のために国の工業力を高めるという、これまでの計画に従わなくてもよくなる、ということだ。日本の安全保障の強化に必要なのは、長年の懸案であった独立を取り戻し、中国やロシア、韓国との間に実効ある外交関係を打ち立て、紛争解決をはかることである。

 

 

なぜならいまこれを執筆している現時点で、政界のポピュリズム的な日和見主義者のなかには、こうした国々との紛争をツールとして利用してやろうとする動きがみられるからである。

 

 

 

日本の共感を抱く外国人たちは、過去を見つめて受け入れ、日本の経済力に見合った国際社会での役割を演じるように忠告する。日本人にそれが出来なかったのは、そうしたモラルが欠如していたからだ、というのが一般的な見方である。日本人だれもが、自国がはじめた戦争で起きた出来事の責任逃れをしようとしているかに見られている。

 

 

だがこのようなとらえ方をしたのでは、重要な事実を見過ごすことになる。それは説明責任をともなわない権力が行使されている、という日本の根本的な問題を認識しないかぎり、過去と折り合いをつけるなど不可能だ、ということだ。

 

 

ところがいまの日本には、一般の人々がみな過去についてよく考え、理解するためのすべがない。欧米では第二次世界大戦に対するドイツと日本の姿勢がよく比較されては、ドイツの方がましだったと評価されるのがつねであった。しかしこれら両国の国民が経験したことは根本的に違っていた。

 

 

ドイツ人たちは民主的な方法でヒトラーを権力の座に就かせ、多くの人々が軍事力を通じて第三帝国を建設するのだという空想をめぐらせてはそれに夢中になった。

 

 

関東軍は日本の人々が選挙で選んだわけではない。日本軍が各地を征服するのをよろこぶ、日本人が大勢いたことはたしかでも、やがて戦禍をもたらす中国での彼らの行動に関して、日本の人々にはほかに選択の余地が与えられていたわけではなかった。

 

 

これは日本人だれもが「しかたがない」とあきらめるよりほかない出来事であり、いまなお日中戦争は、あたかも台風や地震のように、だれもとがめだてのできない災難であるかのように扱われることが多い。

 

 

説明責任という、本書が論じて来たわかりにくい事柄について、もっと明確に理解できるならば、日本の戦争と海外征服という歴史の内実を、いっそうはっきりさせられることだろう。

 

 

 

そうなれば、日本は現在の軍事力についていまほど神経質にならずに済むのである。これはまぎれもない現実なのであって、多くの善意の人々が、軍隊が存在しないかのように、また軍隊を持ってはいけないかのようにふるまうことは馬鹿げている。

 

 

軍事問題に関して、日本は社会復帰した元アルコール依存症患者のような考え方をしがちである。つまりこの先、一滴でも酒を飲んだらたちまち依存状態に陥る思い込んでいるのだ。

 

 

日本になにが必要かははっきりしている。それは文民と政治によって軍を管理する、ということだ。つまり私が本書で示したように、実に多くの理由から、政治的な説明責任の中枢が必要だ、ということだ。

 

 

 

もし権力を握る日本の官僚に対する政治支配が確立できれば、日本の防衛能力をめぐる恐れや不信の念も次第に消えていくはずである。それによって日本は真に独立した主権国家として、本当の意味での外交を行うことが出来るようになる。変化する現在の世界情勢を考えれば、これが日本にとっての急務である。

 

 

だが日本の権力者たちは、本書の第二部で記したような状況の論理にしたがい、国際社会のなかでひたすら低姿勢で臨もうとする。だが長期的に見れば、このような態度に終始したのでは日本の国益を大いに損ねることになる。

 

 

本書で私が繰り返し述べたように、日本にとってなによりも必要な、政治的な説明責任の中枢を築けるのは政治家だけである。なぜなら読者が選ぶのは彼ら以外にはいないからだ。

 

 

だからこそ読者は、政治家たちがどのような立場にあり、どのような役割を担っているか、真剣かどうか、彼らが日本のシステムという根本的な現実を認識しているかどうか、そして国民に対して責任感があるかどうか、といった事柄に、なによりも関心を持つべきなのである。」

 

 

〇 この後に「謝辞」が載っていて、この本は終わっています。

政治や経済の話は、難しく、どう考えていいのかわからないことが多かったです。

ただ、「政治的な説明責任の中枢」とか「国際社会での役割」とか、

恐らく議論を始めれば、永遠に結論が出ないのでは?と思えるような

問題が指摘されていたような気がします。

私たちの社会のもっと深い所にある価値観に関わる問題を見なければ、

どうにもならないような気がするのです。

 

 

それは、あの「一下級将校の見た帝国陸軍」の中にあった、

「捕虜になった人間の集団行動」が、欧米人と日本人とでは明らかに違っていたという指摘に、鮮やかに現れているのではないかと思います。

 

引用します。

「ただ彼らは、自分たちで組織をつくり、自分たちで秩序をたて、その秩序を絶えず補修しながら、その中に自分たちが住むのを当然と考え、戦後の日本人がマイホームを建ててその中に住むため全エネルギーを使いつくすのと同じような勢いで、どこへ行ってもマイ秩序すなわち彼らの組織を、いわば自らの議会、自らの内閣、自らの裁判所とでも言うべきものを、一心不乱に自分たちの手でつくってしまう国民だというだけのことである。

Oさんが指摘したのは、ただその事実なのである。(略)Oさんには、われわれのいるこのカランバン収容所と、あのサント・トマス収容所との間の距離が、はっきりとわかっていた。それがOさんの嘆きの原因だった。

だが、この距離を全く知らなかった小松さんも、秩序の維持は結局は暴力のみ、そして米軍が介入して暴力を一掃すればたちまち秩序がくずれる収容所内の実情を見て嘆声を発している。そしてそれは、その場にいる九十九パーセントの人間の嘆きだっただろう。

ではなぜ何もできなかったのか?なぜ暴力支配になるのか。これはわれわれだけの問題ではない。同様の事件はシベリアの収容所にもあった。では敗戦が理由か、否、帝国陸軍には悪名高い私的制裁(リンチ)があり、それは天皇の命令に等しいはずの直属上官の直接の厳命でも、やまなかった。

従って、暴力支配は、勝利敗北には関係なく、一貫してつづいているのである。なぜ、なぜなのか?」

 

型を欧米に求めてもダメだということは、よくわかります。

でもだったら、日本的なやり方で、「人間らしい集団」を

自発的に作る能力を育てる知恵や方法はないものでしょうか。

 

私はそれが、知りたくてたまらない。

そこに希望を持ちたくてたまらないのです。