「自動操縦状態に戻る日本
いまこの困難な時期に、日本はまたしても自動操縦状態へと舞い戻ろうとしている。それは飛行を続ける空域にどんな大きな変化が起きようと、まったく心配しない飛行機のようなものだ。財務省があくまで消費税増税にこだわり続けたのも、この自動操縦状態に依存している証拠である。(略)
アメリカとの取り決めは沖縄の激しい反抗を招きかねないが、キャリア官僚たちはそれでも徐々にゴリ押しする以外に方法がないと考えているようだ。日本のエネルギーをいかに安全に確保するかという長期的な問題に対する答えとして、原子力村の影響力に屈してしまうというのもまた、日本の政策決定が自動操縦にまかされていることを示すもうひとつの証左である。
自民党による半世紀にもおよぶ一党支配を終わらせたとき、民主党はこんなことを計画していたのではなかった。悲しいことに、本来の計画は無視され、それはやがて、民主党内にあって党を出世のための梯子あつかいするばかりで、官僚と対決する心積もりなどないメンバーの手で、完全に阻止されてしまったのであった。(略)
民主党をまとめ、二〇〇九年の選挙での勝利へとみちびいた人物が次の首相になるものと、大半の人々は期待していた。私が話したジャーナリストを含む日本人の友人たちはみな、そうなって当然と見ていた。
しかし二〇〇九年の初めの時点で、私はそう簡単にはいかないだろうと思っていた。何故なら既存の体制を維持できるかどうかに目を光らせる官僚たちが、それを黙って見過ごすはずがない、と思われたからである。そしてまさに彼らは伝統的なやり方にしたがった。
小沢のスタッフが政治資金規正法に違反したという理由で、行動を起こしたのだ。これは司法官僚が現体制を維持するために利用する常套手段である。
しかし日本のこの法律は文言が意図的に曖昧にされており、変化を望む野心が強すぎると睨んだ政治家を引きずり下ろすため、検察の自由裁量で、気ままに適用することが出来るのだ。ある自民党の国会議員など、もし、検察が同じ基準をあらゆる政治家に当てはめたなら、国会の半分以上が空っぽになってしまうだろうと述べていたほどである。
不正を働いたという理由で政治家が標的になれば、日本の大新聞も社説で政治家の不正をいきどおり、またこれに関連する記事をほぼ連日のように一面に掲載するなど、一緒になって攻撃を加える。(略)
金の移転についての報告が遅れた、という点を検察は避難したわけだが、それは民主主義が機能しているほかの国であれば、せいぜい行政上の軽罪として罰金を支払えば済むような、恐らく関心を持つ人間はいないと思われる出来事だ。ところが日本ではこの問題は立ち消えになるどころか、当局は日本を一大犯罪から守ろうとしているのではあるまいか、と世間が思うほどの、大騒ぎへと煽り立てられた。(略)
小沢を起訴するのに必要な証拠は挙げられなかったが、司法当局は新しい手口を思いついた。これは法的プロセスへの一般の人々の参与を促そうとする最近の改正法に基づいていた。
司法プロセスにさらに民主的な意味合いを加えるものとされてはいても、それに参加する一般市民は司法官僚たちにどうすべきかを指示されるので、彼らの中立性が保証されるわけではない。実のところはきわめて疑わしい。
この法律自体はアメリカの占領軍によって導入されたものであった。戦後、日本の法務省に民主主義をもたらそうとしたアメリカの法律の専門家たちは、日本の司法官僚たちが申し分なく民主的だとは考えず、日本の有力な政治家が犯罪をおかしても起訴されないのではないかと懸念していた。(略)
しかし交通違反やそのほかの軽犯罪を除いて、これが利用されることはほとんどなかった。
ところが法が改正されると新しい制度が導入された。新しい武器を得た司法官僚たちは、これを証拠が見つからない人間に用いたのだった。(略)
小沢が検察審査会の基礎議決後に、無罪判決を言い渡されても、それでこの一件が決着を見たわけではなかった。なぜなら検察官役の指定弁護士が控訴したからである。これは実に信じがたいことであった。(略)
この件に関して人々が興味を持っているのは、官僚たちがどれだけ長期にわたって小沢と対決し続けられるかということだ。(略)
二〇一二年一一月一九日、東京高裁が一審の無罪判決を支持し、控訴棄却をした後で、検察官役の指定弁護士が上告を断念したために、小沢の無罪は確定した。このケースがいかに正義を揶揄するようなものであったかを、日本の国民は理解すべきであった。
そして本書の第一部で論じたように、日本の政治家が腐敗しているとのありもしない偽りの現実を作り出し、日本の命運を決定するうえで、官僚たちがいかに絶大な力を持っているかに気づくべきだったのだ。
勿論背後ではメディアが官僚たちを支援している。(略)
日本では、偽りの現実の背後に隠された真実を市民に示す為、事実をただそうとするのはいくつかの雑誌のみである。新聞はそうした役割をみずからが演じていることを恥とすら感じてはいないらしい。(略)
読者の中には、私が小沢の政界での価値を誇張していると感じる人もいるだろう。それほど重要な政治家などいるわけがない、と思うかも知れない。しかしそれは全く違う。日本で真に実効を生むような政治家になるためには、並外れた手腕が必要である。
出世のための梯子を上るのではなく、国に舵取りが必要だと考える政治家はどこの国であろうと、大変なスタミナと絶えず変化する権力関係や周囲の気運を察知するすぐれた直感をそなえていなければならない。
だが梯子を上る日本の政治家に必要なのは、おもに、熱心な講演会と幅広い人脈、それからたくさんの金だ。それはすぐれた政策を決定するためというより、再選に必要なものばかりだ。
世界のどこであっても、新しい問題を正確に明らかにし、それを解決する方法を考え、その実行のために人々の同意やコンセンサスをとりつけることのできる、真にすぐれた政策決定のできる政治家というのはきわめて少ない。
これをやるにはとてつもないエネルギーと忍耐力、適度にせっかちであること、そして侮辱され無視されても、それを受け止める一方でやり過ごせること、そしてつねに未解決の問題を抱えながらも、それに対応する能力が求められる。(略)
国の舵取りが急務とされるときに、それができるすぐれた日本の政治家は、官僚に支配されることなく、彼らの協力をとりつけるのに長けていなければならない。それには訓練が必要である。
また自信に加えて、官僚の持てる知識と経験を尊重できると同時に、専門的な手腕を持つ官僚を味方につけられるような豊富な経験と力量がなければならない。こうした必要な能力がバランスよく備わっていることが大切なのである。(略)
小沢を脇に追いやっておこうとする、日本で現体制を維持するガーディアンたちは、自分たちがなにをしているかをよくわかっている。今述べたような資質に加え、実例を挙げてそうした資質を将来偉大なリーダーになれそうな優秀な若手政治家たちに伝授できる能力こそ、思うがままに権力をふるう官僚たちにとっての最大の脅威だからだ。(略)
小沢を政治という舞台の脇に追いやることこそが、現体制を守るガーディアンたちにとっての優先課題であった。それは、いやゆる「人物破壊」という今なお続くキャンペーンの一環として、検察に主流派メディアが協力して為し遂げられた。(略)」
〇 安倍首相の犯罪的な行為は今まで、さんざんとり上げられながらも、
きちんと裁かれたことがありません。
その周辺の「おともだち」も同じように裁かれません。
今も、「桜を見る会」のありかたが公私混同で、税金が不正に使われたと、
批判されています。
公文書はどんどん破棄され、保存する義務すらありません。
以前読んだ「人間にとって法とは何か」から、何か所か、振り返ってみます。
「法律とは中国では、統治の手段であり、端的に言って、支配者(皇帝)の人民に対する命令です。神との契約という考え方とは、大変に違います。
支配者の人民に対する命令ですから、支配者の都合で出されるわけで、人民はそれに従わなければなりませんが、支配者は必ずしも従う必要はない。(人間にとって法とは何か)」
「公と民」
〇権力者が人民を自分の都合の良いように統治する、安倍政権の姿勢はまさにこれです。