読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(言葉と秩序と暴力)

将官テーブルで食事をするのは、確かに気が重い。また、カッとなって陰口に等しい将官批判をしたことも事実である。しかし、現実問題として、あちこちと通勤して垣間見た他の収容所や現に自分の寝起きしている収容所と比べて、どの収容所が立派か、どこが一番「居心地がよいか」と問われれば、それはやはり将官収容所とその作業室になってしまう。

 

少なくともここには、無秩序も暴力もリンチも公然たる男色的夫婦(?)の存在も見られず、サングラスをかけてウス笑いを浮かべ、用心棒と女形の出らしい情夫(?)を従えて収容所内をのし歩く、暴力団長もいない。

 

一言でいえば、ここの環境は、上品で清潔で、とげとげしさがなく、秩序立っていた。一般収容所の空気は、こうではなかった。そしてその中にいて麻痺すれば余り感じないであろうことも、ここにいて将官収容所と比較すると、否応なしに強い嫌悪感を感じないわけにはいかなかった。(略)

 

従って”嫌悪感”ですんでいたわけだが、その後、戦犯容疑者として第四収容所に移され、そこに隣接した米軍設営工場の”通訳”になるに及んで、否応なく、この現実を全身で感じ、「やっぱり将官の方が立派なのか?」と考えないわけにはいかなくなった_もちろん抵抗はあったが。

 


この設営工場は捕虜の中から大工・建具職人・家具職人等を選抜して、米軍人家族の家具や家庭用品を造る工場で、” ”なしの本物の通訳はOさん、私はその助手ということになっていた。(略)

 

ある日、Oさんが席を立った隙に、私は、何気なくそのノートを開いて読み、あっと驚いた。それは、戦犯法廷に呼び出される覚悟をしていたらしいOさんの、法廷における宣誓口述書の草稿であった。目を走らせていくと、Oさんは戦時中、どこかの「抑留米英人収容所」の管理者だったらしい。

 

それは、たとえその人が善意の人であっても、今となって見れば、非常に危険な職責であった。ゴボーの支給が「木を食わせた」と言われ、味噌汁とタクアンの支給が、腐敗した豆スープと黄変し悪臭を放つ廃棄物の支給として、捕虜虐待の訴因となった等々という噂が収容所にあり、後で調べればその一部は事実だったからである。

 

夢中で目を走らせていると、いつのまにかOさんが帰って来ていた。私はおそらくバツの悪そうな顔で、あわててノートを閉じたのだと思う。Oさんは笑って、「読んでもいいですよ」と言ったが、そう言われるとかえって「では拝見します」とは言いにくい。(略)


Oさんはノートをかたわらに押しやると、われわれ「日本人捕虜」の状態は、何といっても余りに情けないと嘆じた。彼が収容した米英人は、絶対にこんな状態ではなかった。彼らはすぐさま、自分たちの手で立派な自治組織をつくり、それを自分たちで運営した。一体どうして、われわれにそれが出来ないのであろう、と。

 

だが、私は内心で、Oさんの言葉に反発していた。当時の収容所には、日本内地ほどひどくないにしろ、「アメリカ人立派・日本人ダメ」的風潮もなくはなかった。もっともそれは、私が帰国した昭和二十二年当時の内地のように、昨日までの「鬼畜米英・現人神天皇」がそのまま裏返しになった「鬼畜日本軍・現人神マッカーサー」的状態ではなかったが、何しろ、収容所内の実情を見ていると、一種の劣等感を抱かざるを得なかったのも事実である。

 

しかし私は内心、「アメ公だって、収容されて食うや食わずの状態になりゃ同じことだろう。いま偉そうなツラをしていたって、結局は環境の差だけさ。人間は環境の動物さ。満期除隊となればみんな紳士になるのと同じで、あのびっくり伍長のアホウがわれわれより立派なわけがあるもんか」と思っていた。

 

ビックリ伍長とかビックリ兄弟とか言われていたのは、ピッカリという名の双生児の下士官、それが第四収容所の実質的な管理者だったが、どの面から見ても、日本軍の下士官より立派とは思えず、その知能指数はゼロ以下のマイナスではないかと思えるほどの男だった。

 

「ヤレヤレ、あれじゃ日本軍なら万年一等兵、どうしてあれで下士官になれたのか。それにしても、何であんなバカに負けたのか」
それがわれわれが日々にもらす嘆声だったからである。そして、それと似たり寄ったりの米兵はいくらでもおり、従って私は、収容所の秩序は全くひどいものだと思いつつも、Oさんの言葉を素直に受け取る気にはなれなかった。

 

しかし、Oさんの言ったことを、よくよく思い返してみれば、彼は、何もアメリカ人が派だと言ったのではない。彼らは、「秩序はつくるものだ」と考えているが、われわれはそうでない、という事実を指摘しただけである。

 

いわば彼らは、「家を建ててその中に住むように」、「自分たちで組織をつくり、秩序を立ててその中に住む」が、日本人にはそういう発想はないと言っただけであった。それは、その秩序の中に住む個人個人が、立派であるとかないとかということとは別問題なのだが、私にはそれがわからなかったのである。


そういうことがあってから三十年経った。私は偶然に三冊の本を読んだ。一つは今まで何回も引用した小松さんの「慮人日記」、もう一つは、イズラ・コーフィールドという一女性の日記からC・ルーカスという人が編集した「サント・トマスの虜囚たち」(日本訳名「私は日本軍に抑留されていた」双葉社)、もう一冊がアーネスト・ゴードンの「死の谷を過ぎて_クワイ川収容所」(音羽書房)という本、いずれも収容所の記録である。」

 

「「死の谷……」については後述するが、この中の「サント・トマス……」はちょうどわれわれとは逆の立場にいた人たちの記録である。
日本軍はマニラのサント・トマス大学を接収して、在比米英人等をここに収容した。(略)


その一女性が、終始日本軍に管理されていた収容所内の生活を、日記の形態で、こまごまと三十六冊の大型ノートに記し、それを編集したのがこの本である。(略)


といってもちろん、すべての日本人が立派なわけではない。(略)彼女は日本人が気に入っていた……彼らは、仲間の抑留者からよりは、ジャップたちから親切にしてもらうことの方がずっと多かった……」のくだりで、「日本軍も案外立派だったじゃないか」という感想を持つだけなら、何の意義もないであろう。


問題はそこにはない。彼らは強固な自治体を造り、その組織内に摩擦があって逆に”ジャップの方が親切”と見えても、日本軍は実は一種傍観的管理者にされたという事実が、われわれとの違いなのである。

 

私が、読み始めて受けたもう一つのショックは、Oさんの言ったことが本当だったことである。彼らは最初、抑留は二、三日だと思っていた。しかしそれがいつまで続くかわからないとなると、たちまち自らの手で組織をつくり、秩序を立てはじめる。その部分を引用しよう。

 

「三日たち、やがて一週間がすぎた。(略)……どうやらキャンプが組織化されなければならないことが、はっきりした。ジャップたちは、そこに全員がそろっていることを確認すること(員数確認!)以外は、それをどう管理するかとか、捕虜たちがどうなるかとかにはいっさい関心がないようだった(秩序立てへの無関心!)。

 

規律正しいアングロ・サクソン魂があとを引き受けるときだった。管理機関として、すぐれた専門家屋ビジネスマンたちの実行委員会がつくられ、……が委員長に選ばれた。引き続き、警察、衛生、公衆衛生、風紀、建設、給食、防火、厚生、教育……の委員会や部会が作られ、それぞれ委員長がえらばれた」

 

それだけでない。彼らは、その秩序を維持するため自らの裁判所まで作ったのである。「裁判は秩序の法廷でおこなわれ、そのための男女からなる陪審員が任命された……」
そして彼らはまず、ゴミの一掃、シラミ・ノミ退治からはじめ、全員が統制をもって、病院、厨房、学校等の任務を分担して行き、イズラ自身が、「二、三週間のうちに荒地に整然とした「コミュニティをつくり、限られた枠内であらゆる施設を整えたさないを造り上げた抑留者たちの組織と器用さ」に驚くのである。

 

だがそれは絶対に、彼らが、個人個人としてわれわれより立派な人間だったということでもなければ、知識が高いということでもない。(略)

 

ただ彼らは、自分たちで組織をつくり、自分たちで秩序をたて、その秩序を絶えず補修しながら、その中に自分たちが住むのを当然と考え、戦後の日本人がマイホームを建ててその中に住むため全エネルギーを使いつくすのと同じような勢いで、どこへ行ってもマイ秩序すなわち彼らの組織を、いわば自らの議会、自らの内閣、自らの裁判所とでも言うべきものを、一心不乱に自分たちの手でつくってしまう国民だというだけのことである。

 

Oさんが指摘したのは、ただその事実なのである。(略)Oさんには、われわれのいるこのカランバン収容所と、あのサント・トマス収容所との間の距離が、はっきりとわかっていた。それがOさんの嘆きの原因だった。

 


だが、この距離を全く知らなかった小松さんも、秩序の維持は結局は暴力のみ、そして米軍が介入して暴力を一掃すればたちまち秩序がくずれる収容所内の実情を見て嘆声を発している。そしてそれは、その場にいる九十九パーセントの人間の嘆きだっただろう。

 

ではなぜ何もできなかったのか?なぜ暴力支配になるのか。これはわれわれだけの問題ではない。同様の事件はシベリアの収容所にもあった。では敗戦が理由か、否、帝国陸軍には悪名高い私的制裁(リンチ)があり、それは天皇の命令に等しいはずの直属上官の直接の厳命でも、やまなかった。

 


従って、暴力支配は、勝利敗北には関係なく、一貫してつづいているのである。なぜ、なぜなのか?

 

考えてみれば、収容所とは、サント・トマスであれカランバンであれ、少々残酷な言い方だが「民族秩序発生学」を研究する実験場のような所である。(略)

 

ただ彼らとわれわれとの違う点は、日本軍が秩序をつくろうとせず放置していたのにして、米軍はその”民主主義教育癖”を発揮して、しきりと民主的秩序を造らすべく指導したことである。(略)

 

だがその内実は、帝国陸軍の内務班同様、自然発生的な別秩序に支配されていた。帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。

 

兵の階級は上から兵長上等兵一等兵二等兵である。私的制裁というと「兵長一等兵をブン撲る」ようにきこえるが、実際はそうでなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。

 

従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内実的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、三年兵・二年兵・初年兵という秩序であり、これが階級と混ざり合い、両者が結合した独特の秩序になっていた。

 


そしてこの秩序の基礎は前述の「人脈的結合」すなわち”同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。二年兵の兵長が三年兵の一等兵にちょっとでも失礼なことをすれば、三年兵は、三年兵の兵長のもとに結束し、三年兵の兵長が二年兵の兵長を文字通りに叩き潰してしまう。

 

従って二年兵の兵長は三年兵の一等兵に、はれものにさわるような態度で接する。表面的にはともかく、内実は、兵長という階級に基づく指揮などは到底できない。それが帝国陸軍の状態であった。

 

このことは「古兵殿」という言葉の存在が的確に示している。一等兵は通常、階級名をつけずに呼び捨てにする。しかし二年兵の上等兵は、三年兵の一等兵を呼び捨てにできず、そこで「〇〇古兵殿」という呼びかけの尊称が発生してしまうのである。」


〇私は内気で社交的な場が苦手です。就職し社会に出ることが、怖くてたまらなかったのは、その自分の性格のせいだと思っていました。
でも、こんな私が男で、この軍隊に入らなければならなかったら、どれほど大変だっただろう、と思います。恐ろしすぎる…。

でも、こんなにも複雑な人間関係と恐ろしい暴力に神経をすり減らしていたら、「互いに力を合わせて何かをする」などということは不可能になるのではないかと思いました。

 

「そして、虚構の階級組織が消失し、収容所で自然発生的な秩序が出て来た時は、その実情がむき出しになり、人脈・金脈・暴力の秩序になった。サント・トマスの「秩序維持の法廷と陪審制度」などは、遠い夢のおとぎ話に等しい。

 

小松さんは「慮人日記」で、この暴力支配の発生・経過・状態を、短く的確に記している。」

〇この部分は、以前「日本はなぜ敗れるのか」でも抜粋したので、そそちらからコピーします。

「『暴力政治   PW(Prisoner of war 戦時捕虜の略)には何の報酬もないのを只同様に使うのだから皆がそんなに思う様に働く訳がない。(略)
ところが、このストッケードの幹部は暴力団的傾向の人が多かったので、まとまりの悪いPWを暴力をもって統御していった。

といっても初めはPW各人も無自覚で、幹部に対し何の理解もなく、勝手なことを言い勝手なことをしていたのだが、つまり暴力団といっても初めから勢力があったわけでなく、ストッケードで相撲大会をやるとそれに出場する強そうな選手を親分が目を付け、それを炊事係へ入れて一般の連中がひもじい時彼らにうんと食わせ体力をつけさせた。

しかるに炊事係の大部分を親分のお声係の相撲の選手が占め炊事を完全に掌握し、次に強そうな連中を毎晩さそって、皆の食糧の一部で特別料理を作らせこれを特配した。


そんなわけで身体の良い連中は増々肥り、いやらしい連中はこの親分の所へ自然と集まっていった。為に暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。一般PWがこの暴力団の事、炊事、演芸等の事を少しでも悪口をいうと忽ちリンチされてしまった。


この力は一般作業にも及び作業場でサボッた人、幹部の言う事を聞かなかった者も片っ端からリンチされた。各幕舎には1人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。

彼等は米人におだてられるまま同胞を酷使して良い顔になっていた。


彼等の行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員が取り巻きバッドでなぐる蹴る、実にむごたらしいことをする。痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴びせ蘇生させてからまた撲る、この為骨折したり喀血したりして入院する者も出てきた。


彼等に抵抗したり口答えをすればこのリンチは更にむごいものとなった。ある者はこれが原因で内出血で死んだ。彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうする事もできなかった。暴力団は完全にこのストッケードを支配してしまった。一般人は皆恐怖にかられ、発狂する者さえでてきた。』

 

『マニラ組   オードネルの仕事はたくさんあるので、マニラのストッケードから三百名程新たに追加された。この新来の勢力に対してこの暴力団が働きかけたがマニラの指揮者はインテリでしっかりしていたので彼らの目の上のコブだった。(略)


この夜マニラ組全員と暴力団の間に血の雨が降ろうとしたが、米軍のMPに察知され、ストッケード内に武装したMPが立哨までした。(略)


新来者の主だった者に御馳走政策で近づきとなり、マニラ組内の入れ墨組というか反インテリ組を完全に籠絡して彼らの客分とした。これでマニラ組の勢力も二分されてしまったのでその後は完全なる暴力政治となった。親分は子分を治める力も頭もないので子分が勝手なことをやり暴力行為は目にあまるものがあった。』


『クーデター  コレヒドル組が来てからすぐ八月八日の正午、MPがたくさん来て名簿を出して「この連中はすぐ装具をまとめて出発」と命ぜられた。三十名近い人員だ。今までの暴力団の主だった者全部が網羅されていた。(略)

それでこのストッケードの主な暴力勢力は一掃された。(略)PWの選挙により幹部が再編成された。暴力的でない人物が登場し、ここで初めて民主主義のストッケードができた。

皆救われたような気がし一陽来復の感があった。暴力団がいなくなるとすぐ、安心してか勝手なことを言い正当の指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか。』」

 

「これが、この現実を見た時の小松さんの嘆きである。
そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。

 

そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練も出来なくなるというのである。それを堂々と主張する下士官もいた。


「いいか。私的制裁を受けた者は手を挙げろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。オレは堂々と営倉に入ってやる。これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。オレはお国の為にやってんだ。やましい点は全然ないからな。いいか、あげたいやつは手をあげろ」

 

そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の章硫黄を平気で殴り倒し、気に食わねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁絶滅を兵に訓旨していた隊長もいる。石田徳氏は「ルソンの霧」(朝日新聞社)で自決強要の恐怖すべき現場をそのままに記しておられるが、こういった例は決して少なくない。

 

収容所は、それらがただ赤裸々に出て来たに過ぎない。そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、だれ一人不思議に思わぬ日常のことであった。

 

そして戦後にもこれがあり、多人数の集中的暴言で一人間に沈黙を強いることをだれも不思議に思っていない。

 

なぜか。なぜそうなるのか。軍隊にはいろいろの人がいる。動物学を学んでいたYさんは、これを「動物的攻撃性に基づく」秩序だと言い、収容所とは鶏舎で、その秩序はちょうど「トマリ木の秩序」と同じだと言った。雄鶏は、最も攻撃性の強いものがトマリ木に一番上にとまり、その強さの序列が上から順々に下がりトマリ木の序列になる、と。

 


帝国陸軍は、「攻撃精神旺盛ナル軍隊」だけを目指したから、動物的攻撃性だけが主導権をもち、野牛(バッファロー)の大軍が汽車に突撃するような攻撃をし、同時にそれを行うための秩序が、暴力という動物的攻撃性だけの「トマリ木の秩序」になった、と。

 

そういわれれば「戦後的ケロリ」は、攻撃が頓挫した野牛群が、ケロリとして草を食っているのと同じことなのか?

 


また軍制史の教官だったというA大差は、日本軍創設時に原因があると言った。そのころは、血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたころで、その中の若衆制度という青年期の年次制「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局手がつけられなかった。

 

そのうえ陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない。これはヨーロッパの、アレキサンダー大王のマケドニハ方陣以来の、幾何学的な組織という考え方とそれを生み出す哲学が皆無なため、そういう組織的発想に基づく軍隊組織とは、内実は全く別のものになった、と。

 

従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「礼儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の基本だった。だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった。

 

一人への公開リンチによる全員への脅迫が全収容所を統制し得たのと非常によく似た形、すなわち一人の将校を自決させることによって、全将校とその部下を統制し、同時に私的制裁が末端の秩序を維持するという形になってしまった、と。」

 

〇 「(暴力・私的制裁)これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。オレはお国の為にやってんだ。」という下士官の言葉は、ともすれば「教師」「スポーツコーチ」「親」など、教育する者が、そうなってしまう態度ではないかと思います。


明らかに間違っている。でも、それ以外にどうやって「鍛えればよいのか」よくわからないのです。自分もそう育てられてきた。そのやり方しか知らない。


ここで、思い出したのが、「中空構造日本の深層」の河合隼雄氏の言葉です。

「日本の昔の在り方は、西洋と異なって子供に対して父性的な厳しい訓練は行われない。しかし、結婚した夫婦も大家族の中に包含され(別居していても、心理的には同様である)、日本的「しがらみ」という母性的訓練を経て、徐々に一人前になってゆくのである。(略)


日本の家と社会は互いに浸透性が強いので、いわば日本という大きい大家族の中で鍛えられてゆくと言っていいと思われる。」

 

〇「しがらみ」という母性的訓練を経て鍛えられていく。

「そこでは個性ということを犠牲にしても、全体の平衡状態の維持に特に努力がはらわれるのである。


これに対して、父性原理は善悪や、能力の有無などの分割にきびしい規範をもち、それに基づいて個々人を区別し鍛えてゆく機能が強い。」

 

 

「いろいろ原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。

 

一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

 

何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。

 

黙って一回撲られた方が楽なのである。(略)そして、表れ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変わらなかった。すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった。

 

人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない。そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実態は海軍の「精神棒」という言葉によく表れている。

 

日本軍は、言葉を奪った。その結果がカランバンに集約的に表れて不思議ではない。そこは暴力だけ。言葉らしく聞こえるものも、実態は動物のう「唸り声」「吠え声」に等しい威嚇だけである。


他人の言葉を奪えば自らの言葉を失う。従って出てくるのは、八紘一宇とか大東亜共栄圏とかいった、「吠え声」に等しい意味不明のスローガンだけである。(略)

 

これがさらに八紘一宇となれば、一体それが、具体的にどんな組織でどんな秩序なのか、言ってる本人にも不明である。こういうスローガンはヤクザが使う「仁義」という言葉と同じで、すでに原意なき音声であり、言葉を奪うことによって言葉を奪われた動物的暴力秩序が発する唸り声と吠え声にすぎない。

 

日本的ファシズムの形態を問われれば、私は「はじめに言葉なし」がその基本的形態で、それはヒトラーの雄弁とは別のものだと思う。彼のようなタイプの指導者は日本にはいなかった。

 

”解放者”日本軍が、なぜ、それ以前の植民地宗主国よりも嫌われたのか。それは動物的攻撃性があるだけで、具体的に、どういう組織でどんな秩序を立てるつもりなのか、言葉で説明することが誰にもできなかったからである。(略)

 

結局、日本軍は東アジアという広大な”カランバン”の動物的攻撃性的秩序に、現地人を巻き込んだだけであった。従って一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。(略)


そして私は、将官テーブルにつくまでは将官の秩序だけは、「トマリ木」ではないと思っていた。というのはその時の私は、まだ、秩序はその人間の優秀さできまると考え、冒頭で記したように抵抗を感じつつも「やっぱり将官の方が……」と思っていたからである。」

 

〇「一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。」となっていますが、もう一人、気の毒なのは、この日本で生きる「弱者」だと思います。今も「はじめに言葉なし」は続いています。

私の子供時代にも、「言いわけをするな!」は普通に頻繁に言われる叱り言葉でした。言い訳は悪いことだと思って育ちました。でも、大人になって、なぜ悪いのかわからなくなりました。

また、ある時、フランス人の父親が子供に一番繰り返しいう言葉は、「なぜそう思うのか、なぜそんなことをしたのか、きちんと言葉で説明しなさい」ということだと聞いた時、まさに「言いわけしなさい」と言っているのだと思い、ものの考え方の違いを感じました。


そして、ここで思い出したのが、あの「東洋的な見方」の言葉です。

「言葉に出すと、何もかも抽象化し概念化し、一般化する憂いがある。禅はこれを嫌う。それで禅は言葉に訴えることを避ける。」

〇言葉にするには、努力や訓練が必要になります。
もともとは、単なる「動物」でしかないヒトが、「人工的に」「自然に反して」使うのが言葉だとしたら、間違ったりうまくいかなかったりしながら、練習しなければ出来るようにならないのが、言葉ではないかと思います。

言葉にすると「ズレ」てしまいます。。だから言葉に振り回されることを誡める「禅」は間違っていないと思うのですが、コミュニケーションには、言葉が必要だと思います。