読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「入院患者たちだって、小さい時から「アル中」になろうと思っていたわけではない。「親のようになるまい」と思いながら生きているうちに気がついてみたら、親父と同じ生活パターンにはまってしまっていたのである。

 

その妻たちにすればもっと不本意なことで、彼女たちはたいてい「あんな母にはなるまい」という決意のもとに育っている。そうしながら、いつの間にか母親と寸分違わない人生の軌跡を辿っているのである。

 

 

それではこの人たちがアルコール依存症にならなかったり、その妻にならなかったりすれば「生き残れた」としてよいか、ということになるが、そうとも言えないところにこの言葉の本当の難しさがある。(略)

 

 

 

ACの多くは「よい子」として育つと前に書いたが、それは彼らが自分の欲求や感情に沿って生きることがむずかしいからである。そういう人々の中には、他人の役に立っていないと生きていてはいけないような気がして、人の世話を一生の仕事として選ぼうとする人が多い。

 

 

そういう事情もあって、看護婦、ケースワーカー、医者といった人たちにはACが多い。言うまでもないことだが、こうした職業がいけないと言っているのではない。どんなに他人の役に立つ、崇高な職業についているにしても、それが自分にとって喜びのないものであれば、それは生き残りとは言えないし、そういう人には本当の意味で人を癒すということもできないだろうと言いたいのである。」

 

 

「この安全な場所の中で乳児は子どもへと育つわけだから、この場所は、1〇ヶ月ばかり早く生まれすぎた人間の赤ん坊、つまり本来は胎児であるはずのものにとっての人工子宮である。

この安全な場所が女性の体全体に広がり、子どもと母が暮らす場に広がる。そしてそれが屋根の下と庭を覆うようになったとき、それが家庭である。したがって、家とは本来、母と子どものためのものである。」

 

 

 

「つまり、父親の役割とは、子に対して「安全な場所」をつくる役割を持った母を安全にすることに尽きる。このことを理解しない父、母の子育てに口をはさむ「姑のような父」なら、むしろ、いないほうがいい。(略)

 

 

たとえば合計特殊出生率が二・〇の線を回復したデンマークの場合、子どもを産む母親の半数以上が「結婚していない母」であるという。この場合、社会全体が「もう一人の大人」の役割を引き受けようとしているのである。」

 

 

「一五歳以前であれば、子どもの成長の役に立った「愛のミルク」「愛の世話焼き」も、一五さいを超えた子どもに与えれば下痢を起こす。できれば一切やらない方がいいのだが、そうもいかないのが現在の社会である。」

 

 

「一つ提案したいのは、子どもが一五歳を超えた翌日の「お別れパーティー」である。「今まで私たちの子どもでいてくれてありがとう。でも、これで親子の関係はおしまいね」と言ってやると、子どもは仰天するだろうが、自分の現実を受け入れるのに役立つだろう。

 

 

その日以来、このアダルト子どもを、一人前の大人の同居人として扱うのである。このことをきちんとやれば、そのうち子の同居人は、部屋代と食費くらいは持ってくるようになるかもしれない。」

 

 

〇 多分、ここを読んでいたからだと思う。私は高校に入った子どもたちを、

「子ども」だと思わないように心掛けた。でも、大切な我が子であるには、違いないので、

大切な親しい人くらいの気持ちで付き合うように心掛けた。

うまくいったのかどうかはわからないけれど、一応3人の子どもたちはなんとかみんな、それなりに自立してくれた。

 

 

それでも、その後もいろいろあり、「子どもではないけれど、大切な親しい人」に対して、やってあげたくなること、やるべきこと、は次々とあり、やっぱり、自分は親で、

彼・彼女らは、子どもだと思い知らされることがしばしばだった。

 

でも、人付き合いが苦手な私にとっては、そんな風に思える人がいることが、とてもありがたいことだと思う。