読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「死にゆくときの「介助者」の役割

 

本来の第三者である「会場者」の役割とは、まさにここにあるのだろう。わたしは出産に関わる仕事をしてきた。世の中では人間は「ひとりでお産はできない」と思われている。産科医が減り、産科医院が減り、お産する場所がない、お産難民が増えた、と近年言われている。病院がないと産めない。産む人も周囲の人もそう思っている。(略)

 

 

しかし、誰が産むのかと言えば、医者が産むのではない。女が産むのである。女が自分の力で産み、赤ちゃんが自分の力で生まれる。熟練出産介助者たちはみなそれをよくわかっているから、「あなたが産むんですよ」と言っているが、女たちはこのような覚悟について、あまり意識しないまま、お産まで来てしまうことも珍しくない。(略)

 

 

つまりは、「介助者はなにをするのか」ということは、実はそんなに簡単ではない。

なにか手を出して、その人にさわって、その人に対して「なにかをする」ことが介助者の役割だとわたしたちはつい思うが、必ずしもそうではない。その人がその人らしくあることが出来るように、環境を整えるのが介助者の役割とも言える。出産の場合、伝統社会のありようから見えて来るのはそういうこと、つまり「介助者は手を出すのではなく、まわりの状況を整える」人なのである。

 

 

人が生まれるときと、人が亡くなるときには同じことが起るから、おそらくは死にゆくときの「介助者」の役割もあるとすれば、この家族の静かな時間をまもることこそがそうであるに違いない。

 

 

酸素吸入器をはずす

 

死にゆく夫と、そこに寄り添っているわたしが静かな時間を過ごせるように、そこに第三者が入って、邪魔をしたり、あれこれよけいな「処置」をしたりしないように、新田先生のたたずまいは、絶妙であった。「夜中だったら私だけ呼んでください」、とわたしの周囲の安心な状況だけを整えて、その場を去る。(略)

 

 

夜一〇時半、長男が帰宅した。(略)

病人の状態は、だんだんと悪くなっていくのではない。あるとき、がくがくっと状態が悪くなり、そしてしばらくプラトー、下げ止まり状態の安定期が続く。そして、また、がくがくっと悪くなる時期が半日くらいあって、そしてまた下げ止まる。(略)

いま思えばなんという楽観視。でも、これで終りだ、と本当に思えなかった。

 

 

長男が、変な音がする、と言う。たしかに、いままで聞こえなかったシューシューという妙な音が夫のまわりからしている。(略)

 

 

もう、これ、はずしてもいいよね、酸素、入ってないものね、と言って、長男とふたりで酸素の管をはずした。(略)※

 

 

明るい憂愁につつまれた時間

 

しばらくは夫の穏やかな下顎呼吸は、それでも続いていた。長男が足下にいてわたしがまくらもとで彼の頭のところにいた。下顎呼吸がとまり、二度、大きな息をして、夫はわたしの腕の中で、文字通り最後の息をひきとった。

 

長男と、その最後の瞬間に立ち会えたことはなんだかすごくありがたかった。二四歳はもうすでに立派な成人ではあるが、ひとりの人のいのちの最後をつぶさに見るには、まだ若い。こういう機会をこの年齢で与えられるこの人は、なんらかの役割を負うた人であるのだろう。

 

 

わたしたちはひとりひとりが何をこの生に負うていくのか、わたしたちの意識はいまやぼんやりしていて、よくわかっておらぬ。ひとつひとつ経験して気づかされながら、その負うているものをよりよく理解するしか方法がない。

 

 

わたしたちはこの場に立ち会えたことについてなにも離さなかったが、お互いの感謝の気持ちはしみじみと感じた。長男もわたしも、このときには泣いたりしなかった。

不謹慎な言い方にならなければいいな、と思うが、わたしはこのとき、少しも悲しい、という思いがよぎらなかった。涙どころではなかった。

 

 

 

晴れやかで立派な最後を目の前で見せられて、いろんなことがあったけど、この人への敬意と愛情で文字通り胸がいっぱいだった。ありがとう、という言葉しか出てこない。人間って、よくできている。

 

 

もうほとんど日が変わりかけている夜中の一一時五六分くらいだった。一二時を過ぎてから、新田先生に電話したら、すぐ来て下さった。手をあわせ、「本当によくがんばりましたね」と、わたしをまずねぎらってくださった。(略)

 

 

長男とわたしは介護ベッドのかたわら、狭いスペースになんとか二つ布団を敷き、眠った。夜伽、という言葉は、ひょっとしたら亡くなった人のかたわらでずっと眠らずにつきそっていること、なのかもしれないけれど、わたしたち二人は、かたわらの布団で寄り添ってぐっすり眠って、朝の光とともに目覚めた。夜伽をした、という言葉がなによりふさわしい、と思われるような夜だった。(略)

 

 

……そういう流れの中にあったから、夫がまるでまだ生きているかのように、夜伽をしたのだ。おやすみ、金ちゃん、おはよう、金ちゃん、と言って。

死はよそよそしくおそろしいものではなくて、わたしたちのすぐそばにあって、とても親しいものだったのだ。」

 

〇 この場面は、読み終わってから何度も思い返しました。「(亡くなったのに)少しも悲しいという思いがよぎらない」「死はよそよそしくおそろしいものではない」という言葉に、本当に…?という気持ちが湧きあがってしまいました。

 

でも、それで思い出したのが、著者も認知症の夫の母を看取った経験があった、

ということです。その部分を略してしまったので、ここにメモします。

 

※「酸素吸入器をはずす、ということの意味もまた、わかっていた。夫と私は、この夫の最後の日から七カ月前に、夫の母を看取っている。九二歳で死んだ義母は七〇を出るか出ないかというころに認知症を発症し、二〇年近く特別養護老人ホームに入っていた。母を送ってから、逝きたい、というのは夫のたっての希望だったから、義母はこよなく愛する息子の願いをしっかり聞き入れて、彼よりちゃんと先に逝ったのだ。」

 

私も夫の両親を見送りました。今は母が認知症で施設に入っています。

義母は、本当にたくさんの管を付けられてベッドの上で2年近く過ごし亡くなりました。中心静脈栄養にする時には、説明を受け、承諾したのですが、実際にその状態を見て知ることと、ただ単に説明で知るのとは、まるで違うのだと思い知りました。

 

義母は自分で判断する力がなかったので、夫と私が判断したのですが、「中心静脈栄養」というものについての知識が全くないままで、受け容れたことを、義母に申し訳ななく…というより、可哀そうだった…と何度も思いました。

 

私自身があのような状況になったら、中心静脈栄養だけは、やめてほしい、と今から周りの人々には言っています。

 

実母は問題行動が出た為、向精神薬のようなもので、ボォ~っとする状態にさせられ、今も施設にいます。

 

義母の管も、実母の薬も、ある意味しょうがないものです。でも、そんな風にして

死ぬ、というのは辛い状況です。

「死ぬという仕事」と言ったのは、三浦綾子でしたか…。

この三砂さんにも、そういう視点があって、「晴れやかで立派な最期を目の前で見せられて…胸がいっぱいだった」となったのかな、と思いました。

 

義父母の死は身をもって残された者に、たくさんのことを教えてくれました。

子育てもそうでしたが、介護でも、私は本当にそれをすることでしか知ることが出来ない、大切なことを教えられたと思います。