読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「第6話

 

「急速な老化で死ぬ」ということ

 

ガンの末期は痛い。痛い、痛い、そう思っていた。わたしも、中咽頭原発、頸部リンパ節転移の末期ガンで死んだ、亡き夫も。

ガンは、最後、痛いんだってね。耐えられないような痛みで、つらいんだってね。でも最近は痛み止めにいいものが出来たから、かなり抑えられるんだって言うよ。病院のガン病棟でもね、昔と違っていまはずいぶん穏やかになってるんだって。

 

 

痛みは抑えられるんだって。死ぬのはしかたないなあ。寿命だから。でも、居たいのはいやだなあ。痛いのはなんとかしてほしいなあ。なんとかしてくれるのかなあ。

そういう会話を何度繰り返したことだろう。首の晴れに気がついて、頸部リンパ節転移、と診断されてから、この痛みのことを夫とわたしは繰り返し話した。(略)

 

 

 

ステージⅣと呼ばれる末期のガンである、と診断されてから、夫は二年生きたのだが、亡くなる六カ月くらい前、しみじみとこの主治医に「わたしはどんなふうに死ぬんでしょうか」と夫は聞いていた。「急速な老化です」と、耳鼻科の主治医は答えた。

 

 

 

夫が聞きたかったのは、おそらく、「どういう症状でもって死ぬのか」ということだったのだと思う。突然呼吸停止するとか、息ができなくなるとか、ものすごい痛みに襲われる、とか、そのようにして死ぬ、という、なんだか、そういう具体的な答えが知りたかったのだと思う。

 

 

しかし答えは「急速な老化」であった。だんだんからだが弱っていって、食べるものがたくさんは喉を通らなくなっていって、活動もせばまっていって、精神活動も緩慢になっていって、痩せていく。老化って、そういうことだろうか。そういうことが、一〇〇載まで生きるのならば緩慢に起こるのかもしれないが、「あなたの場合は急速に起きます」と、まあ、そういうことなのである。わたしたちはすぐには、言葉がなかった。うーん、そういうことか。

 

 

ドトールコーヒーのレタスドック

 

(略)

夫とわたしは、外来の診療のあとには、いつもこの病院の一階にあるドトールコーヒーに立ち寄ることを習慣にしていたし、二人ともその時間を楽しんでいた。いつもコーヒーと、レタスドックを注文する。(略)

 

 

とにかく、最後の診療のときまで、病院に行けば、わたしたちはこのドトールコーヒーに行く、というルーティンをやめなかった。(略)

 

 

そのように思えば、最近の大きな病院に、おおよし病院らしくないドトールとかスタバとかその他の、ごく普通に街中にあるカフェが入っているのも、患者や家族にとって大きななぐさめになっているのではないか、と感じる。(略)

 

 

なんだか安心したような、落ち着いたような、そんな気分だった。わたしたちはもっとなにか「ドラマチック」なことが起って死ぬのだ、というイメージを持っていたのである。

 

 

 

想像出来なくなった「自然な死」

 

「自然な死」とは、なんだろう。「病気」や「自己」ではなく、自然に天寿を全うして、死ぬことか。いまどり、そんなに単純であるはずもない。(略)

 

 

いま、人間の出産にとっての産科医療は、魚にとっての水のようなものである。お産、と言えば、産科医療を語ることになり、病院で産科医療のもとで行われるもの、と思っていて、「医療のない馬でのお産」を考えることもできない。(略)

 

 

ワーグナー氏の論文は、その想像力の欠如によってわたしたちが失っているものがいかに大きいか、ということを書いたものだった。(略)

 

 

おそらくは死ぬことも同じで、お産が生活の場から医療の場で行われるものへと推移していったのとほとんど同じ時期に、死ぬことも生活の場から離れ、医療ともに人間が最後を迎えることは当然、と、わたしたちは受け取るようになったのだ。

 

 

だから自然な出産についての想像が及ばないのとほとんど同じくらい、自然に死ぬこともうまく想像できない。(略)

 

 

夫はどんなふうに痛かったか

 

痛い、という表現は、彼はたしかによく使っていた。痛い、と言っていた。痛み止めをずっと飲み続けていたし、口からうまく飲めなくなったころにはパッチにして貼っていたし、継続的に痛み止めの血中濃度が落ちないようにしていたし、それに加えて頓服がいつも用意されていた。(略)

 

 

闘病している間いちばんよく飲んだ頓服はオキノームと呼ばれる麻薬系の粉末状の薬である。この薬は、夫と出かける時いつも、お守りのようにカバンにいくつかしのばせておく薬であった。痛い、と言うと飲ませていた。

 

 

 

しかしいま振り返って見ると、少なくとも夫の場合、七転八倒するような耐えられない痛みに襲われる、という感じではなかった。うーん、痛い……とは言っていたが。ものすごい痛みに苦しんだ、という印象はない。本人は、それはオレが我慢していたからだよ、って言うかな……。

 

 

 

しかし、ずっと一緒に暮らしてきた人が、どのくらい痛いか、苦しいか、それはそばにいれば、やっぱりわかる。耐えられない痛み、というのではなかったように思う。

 

 

それはずっと、毎日朝昼晩と痛み止めを飲んでいたからだ、と専門家は言われるだろうか。しかし、いま、冷静に考えて見ると、わたしから見て、彼の痛みは「痛み」というより「苦しみ」だったのではないか、とも思えるのだ。痛いから薬が飲みたい、と言うし、自分でもときおり飲む。

 

 

たしかに痛いと言っていた。そうなのだが、それは痛みというより、自分の身体のなんともいえない調子の悪さ、ガンの部位、と言われる首の気持ちの悪さ、あるいは襲ってくる不安、身の置き所のさな、気持ちの持って行き所のなさ、そういったものが混じり合ったものではなかったか。いまになるとそう思ったりするのだ。

 

 

医者もまだよくわかっていない

(略)

しかし、骨転移以外の痛みについては、あまり一様な痛みがあるようには見えない。専門の医者にとっても、「末期のガンは痛い」と言っても、それはあまりに多用な部位で多様な痛みであり得るから、あまりよくはわかっていないと言えるようである。(略)

 

 

 

患者の側が考えるしかないこと

 

手術や放射線治療や抗ガン剤治療を受ける、ということは、そのガンの部位が小さくなるかならないか、なくなるかなくならないか、だけを目的として行われる。その治療によって腕が上がらなくなってつらい、とか、足がパンパンにむくんだ、とか、排泄のコントロールができなくなった、とか、そういう生活上の不具合が起こることについて、覚悟しなければならないのは患者の方なのである。

 

 

もう少しわかりやすく言うと、おおよその病院におられる医師の役目は、手術や射線治療や抗ガン剤治療など、基本的には医療介入をして痛みを抑えたり、症状を軽くしたり、死ぬ時期を延ばしたり(医療介入によって、かえって短くなることもあるにせよ)するところにある。(略)

 

 

だから、どのような医療介入を受けたら、生活上にどんな支障が出ることがあり得るのか、ということをしっかり考えなければならないのは、わたしたち自身であり、そういうことをよく考えたうえで、手術や放射線治療や抗ガン剤治療を受けるかどうかの判断材料にした方がいい、ということである。

 

 

 

実際に医療介入を受けた後に、排泄にトラブルが出るようになった、とか、うまく歩けなくなったなど、生活上の不具合が生じても、その結果に対しては誰に文句を言うこともできない、ということは、もっと多くの方に知られるべきではないのか、と思う。(略)

 

 

 

痛みと痛み止めの一五か月間

 

具体的な痛みの対処についてふりかえってみよう。夫、金蔵の、中咽頭原発、頸部リンパ節転移の末期ガンが見つかったのは二〇一三年四月のこと。(略)

 

症状もないのに、入院するのかな、と思っていたら、診断から二週間後、入院加療の直前から、「ばったり倒れる」発作が起き始めて、それはけっこう、怖いものでした、という話は、すでに書いた。(略)

 

 

具体的に「痛い」という症状が出始めたのは、末期ガンの診断、治療から約一一カ月後のことだ。亡くなったのは二〇一五年六月だから、亡くなる一五か月前から具体的な痛みが出始めた、ということになる。

つまり夫が「痛い」と言い、具体的な痛み止めを服用していたのは約一五か月間であった、と言えるが、その「痛み」の内容については、ずっとそばについていたわたしにもよくわからない。(略)

 

 

 

この頭を中心とした痛みが始まって、喉がヒリヒリする、ガンの部位もやや痛い、と言ってはいたが、本人曰く、我慢できない痛みではないので、痛み止めをいつも飲むほどではない。最初の痛みを感じてからも普通に暮し、酒も食事もちょっと量が減ったなあ、という程度で、わたしにとっても彼の痛みはまだ大したことがない、と思えていた。

 

 

ガンの痛み止めの代表である「麻薬系」の薬が処方され始めたのは、最初の痛みを感じて三カ月ちょっとしてから(つまりは亡くなる約一年前)だが、最初想像していたように、痛みがだんだんひどくなって、出されていた「ロキソニン」でおさまらないから麻薬系の薬に移行していった、というわけではなかった。(略)

 

 

 

身の置き所のない苦しみ

 

(略)

このように書くのだから「ガンの痛みは、抑えられていた」と言える。歯切れの悪い書き方だ。なぜだろう。わたしはなにを言いたいのだろう。それは、「痛み」か「苦しみ」か、よくわからなかったことによる。(略)

 

 

たとえば、亡くなる直前、夫は、とにかく服を脱ぎたがった。初夏のころで暑いえでもなく、脱ぐと寒いから、服を着せようとするし、なにかをかけようとするけれど、いやがってはねのける。普通に話もできて、精神的なぶれはいささかもないが、とにかく服をいやがるのだ。

 

 

布団やタオルケットもいがやる。下ばきだけははいているが、ほかはとにかく脱ごうとする。それは、身の置き所のない、苦しみ、としか言いようがなかった。

夜中に何度も起きあがって、じっとしていられないこともあった。頭が痛い、服を脱ぎたい、気分が悪い、眠れない、じっとしていられない。こういう苦しみは、自宅にいたので、なんとも言えないままに、表現されていた。

 

 

 

そして、それらの身の置き所のなさは、多くの場合、「痛い」という言葉に収斂されていったように思う。そうすると、なにか飲む薬があり、介護するわたしも提供する薬がある。「痛み」は、彼の総合的な苦しみの表現方法だったのではないか。

 

 

わたしは間違っているかもしれない。でも、こういう身の置き所のなさは、たとえば、病院や施設にいたら、いったいどう対処されるのだろう。「ガンの痛み」、とは、言われているよりも奥の深い表現なのではないか、まわりはそれをどう受け止められるのか。むずかしいことだ、と思うのである。」