読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「第7話

 

総論としてはよきこと

 

延命治療はしてもらいたくない。そういう人は増えた。遺漏や、経管栄養や、あるいは人工呼吸器や、いわゆる命をながらえるためだけの措置は、できるだけしてほしくない。自分に意識がなくなってしまったらな、もちろん家族にそうしてほしくないし、自分に意識があるなら、なおのこと、そうしたくない。そのように考えておられる方はこのところずいぶん増えて来た。

 

 

一般論としてはわかりやすい。生きるとはなにか、寿命とはなにか、そういう問いには答えられないとしても、意識も清明でなく、判断も出来ないような状態にあるのならば、命だけを引き延ばすようなことはやりたくない、ということだ。

総論としてはそうなのであるが、たとえ本人がそのように考えていたとしても、家族もそのように思っていたとしても、実際の「各論」になると、それはまた別の話だ。(略)

 

 

 

まして、最後まで頭がしっかりしているガン患者の場合は、自分で最後までいろいろ希望も言えるし意見も言える。それは基本的によきことだが、はっきり、しっかりしているからこそ、むずかしいこともある。

 

 

夫婦で決めた親の治療方針

 

二〇一五年六月に末期ガンで亡くなった夫と、わたしには、それなりの介護経験があった。二〇一三年にはわたしの父が亡くなり、二〇一四年には義理の母が亡くなった。双方とも認知症を患っていて、日々症状が進み……とここまで書き始めても、この「認知症」という言葉への違和感は大きい。

 

 

二〇〇五年くらいから、英語dementiaの訳が「痴呆症」だったのが、「認知症」になったのだ。「痴呆」とか「ボケ」とかいう言い方はあまりにもひどい、人権を侵害している、ということで、新しい名前が作り上げられ、認知障害と紛らわしいことこの上ないが、demenntiaの訳は「認知症」となったのだ。(略)

 

 

 

どちらにせよ、二人とも認知症であり、延命治療をするかどうか、という決定をしなければならない時には、全く口もきけず、わたしたちの言うことを理解できているようには見受けられず、身体を動かすこともできず、ほぼ寝たきりの状態であったから、わたしたち夫婦は「延命治療」についての方針をよく考えながら、ある意味わたしたちで「勝手に」進めることができた。今考えるとそう思う。

 

 

 

父の治療をやめるという決断

 

けっこう長くひとり暮らしをしていた父は、わたしの次男、すなわち父いとっては孫が、大学進学のため同居し始めた頃から、時計の中に虫がいる、電線が部屋まで引いてあって気になる、知らない女がベッドに座っている、と言い始め、介護保険のお世話になるようになってから約一年後、俳諧や、排泄場所がわからない、という問題が始まり、グループホームに入った。(略)

 

 

認知症の方が、骨折やら腸閉塞やら肺炎やらで入院すると、病院側も悪気はないのだが、治療をするのが病院の役目だから、治療を進めるため、うろうろしないように、身体を拘束する。

 

 

簡単に言えば、腰にベルトをしてベッドの縛り付け、点滴の管を抜いたりあいように、手にミトンをつける。いまどきのことだから、こういう身体拘束は病院側も勝手にはできず、本人か家族が承諾しなければ行えないが、治療してもらわなければならない身としては、身体拘束しないで下さい、などとは言えない。

 

 

いま書いていても本当にかわいそうだった、と思い、涙ぐんでしまうのだが、治療をする必要があるのだからいかんともしがたい。(略)

 

 

何度目かの誤嚥性肺炎で入院したころ、治療中の父はもうすでにほとんど目も覚まさなくなっていて、口からはなにも食べなくなっていた。点滴はしているが、点滴はあくまで点滴で、水分と生命維持が可能な最低限のカロリーを含んでいるに過ぎない。(略)

 

 

優良病院の先生と話し、看取りのために父を施設に戻すことにした。つまりは、夫とわたしは、夫が亡くなる約二年前、わたしの父のことで、「延命治療をしない」という決断をする機会を持つことになったわけだ。

 

 

食べられないし、飲めない状態になっていて、もう極端に痩せていて、とろとろとしていてほぼ反応のない父は、病院から水分補給の点滴をつけたままストレッチャーに乗せられ、介護タクシーで施設に戻る。小さな有料老人ホームだが、働いておられる方は施設長さん以下、とても穏やかな方ばかりで、「看取り」の経験もおありだという。(略)

 

 

点滴をはずして枯れるように逝った

 

(略)

若いドクターは、まだ点滴を受け続けている父を見ながら、わたしに穏やかに説明した。点滴を続けている限り、鼻水や痰が切れません。お父さんは、自分で痰を出すことができませんから、吸引の措置をしなければなりません。吸引は本人にとって苦しいことです。もう、点滴を取りませんか。

 

 

点滴を取ってしまう、ということは、文字どおり命綱を絶たれる、ということを意味する。有体に言えば「もう死んでもいい、仕方ない」ということを受け入れるということだ。とはいえ、この状態の父を今さら痰の吸引で苦しませたくない。

 

 

あの、とわたしはドクターに聞いた。でも点滴を抜いて水分補給をやめてしまったら、父は喉が渇いて苦しみませんか。渇きに苦しむなんて、あまりにかわいそうなことじゃないか、とわたしはやっぱり思う。

 

 

しかしドクターは、喉が渇いて苦しそうだったら、また考えましょう、でも、普通、この段階で渇きに苦しむことはない、ゆっくりと眠るように、身体から水が切れていくのだ、と言う。枯れるように死んで行く。そういうことらしい。

 

 

葬儀屋さんが、最近は遺体が重い、と言っている、という話はきいていた。最後の最後まで点滴で水分を補給している身体は、「重い」。以前は、亡くなった人は水分が切れて軽かったのだ。

 

 

 

点滴をはずした父は、少しも苦しそうではなかった。穏やかに眠り続けていた。わたしが話しかけてもほとんど反応はない。聴覚は最後まで残るというから、お父さん大好きだよ、ありがとう、と言いながら彼の大好きだった谷村新司さんの「昴」をイヤフォンで聴かせ続けた。

 

 

吉本ばななさんがお父さんの晩年、はちみつを口元に垂らしてあげたりしていた、とおっしゃっていたから、真似をして、はちみつをちょっぴりたらしたり、口元が乾かないように脱脂綿でふいたりした。

 

 

点滴を抜いて、つまりは一切水分をとらなくなると、七、一〇日くらいしか生きていられない。父を見舞いながら、来週の今頃は父はこの世にいないのか、と思うことは、ただ、ふわふわと現実味のない感覚だったことを思い出す。

 

 

父はなんにもほとんど反応せず、気づいたら呼吸をしていませんでした……、と言う亡くなり方をした。

 

 

夫とわたしは、ここで「点滴を止める」ということを学んだ、と言える。これは延命治療をしない、という具体例の一つである。わたしたちはそれが父の死期を早めた、とは思えず、父の死の尊厳を守った、と感じた。

 

 

この父の亡くなり方にについて、そして「点滴をはずすことに合意する」という自分たちがとった決断について、後悔はしなかった。やっぱり延命治療はしないほうがいい、としみじみとわたしたちは思ったのだ。

 

 

施設で眠るように逝った義母

 

父が亡くなった翌年、二〇一四年のこと、夫が亡くなる半年ほど前、長く認知症をわずらっていた義母も他界した。彼女は全く寝たきりになって、目を開けて話すこともなくなってからも、ずっと三度三度ご飯は食べていた。スプーンを口元に持っていくと口を開け、食べる。夫はそれが自分の母親との唯一のコミュニケーションと受け取り、元気なときは週に一度は義母のいる特別老人ホームに通い、ご飯を食べさせていたものだ。(略)

 

 

そうは言っても、亡くなる数か月前くらいから、義母はスプーンを口に持って行ってもほとんど口をあけなくなった。たまには食べるのだが、食事をとる量は目に見えて減っていった。

 

 

 

この施設からは、二〇一〇年を過ぎた頃だったか、「延命治療をしない」旨、「救急車はもう呼ばない」旨など、最後に病院に搬送したりせず施設で看取る、ということについての書類に、同意すれば、サインをしてほしい、と言われていた。

 

 

当初は、この書類の意味についてよくわからなかったのだが、これが「胃婁や経管栄養、不要な点滴などはしない、気管切開などをして呼吸を続けさせようとしない、もう医療行為はせず、静かに亡くなることを受け入れる、そして、それを訪問診療の医師のもと、施設で行う」ということを意味していることを、わたしたちも理解した。

 

 

 

病院ではなく、施設で「延命治療をせずに」看取ることが、プロセスとしてあちこちで進んでいるのである。

そして、義母は、食べなくなり、だんだん血圧が落ちて行って、ある日、夫とわたしが見守る中、鼻についていた酸素吸入器を施設の方がはずしてほどなく、あ、おかあさん、もう、息をしていないね、というふうに、まさに眠るように亡くなった。

 

 

「死ぬならガンがいい」

(略)

こういう経験があったものだから、夫もわたしも、「延命治療はしない」ということに、素人ながら、割と明確なイメージを持っていた。なんらかの理由で、食べ物が口に入らなくなってきたら、もうそこまでだ。そこで無理なことをしなければ、静かに、枯れるように、苦しむことなく死んでいける。

 

 

 

父と義母は、施設の助けもあって、実に見事に静かに死んで行った。親として、この時期にこの経験をわたしたちにさせてくれたことの意味は実に大きかった。だから、夫が「家で死にたい」と言うのも、だいたいそういうプロセスではないか、と、夫も私も、思うに至る。

 

 

わたしたち双方には、明確なこの「最後のイメージ」が残っていたのだ。しかし、もちろん生と死は当然、イメージどおりにいかない。(略)

 

 

父と義母は「認知症」であり、判断能力はない文字通り寝たきりの状態って、彼らに延命治療をするのかどうか、は、家族であるわたしたちに委ねられていた。(略)

 

 

だが夫はガンで死んだ。(略)

 

 

日本では二〇一五年に公開され、ジュリアン・ムーアの主演で話題になった「アリスのままで」は、大学教員である主人公が、若年性アルツハイマーをわずらい、症状が進んでいく様子を描いた映画である。

 

 

病気が進んでいくプロセスで、彼女は自分が若年性アルツハイマー病を患っていることをはっきりと知っている。だんだんものごとの辻褄が合わなくなり、意のままには行動できず、周囲も苛立っていることに気づいて「なぜこんな病気になってしまったの。ガンで死ぬのならよかった。ガンで死ぬなら、みんなに敬意を持たれたままで死んで行けるのに」というシーンがある。

 

 

おそらく、そのとおりである。ガンは、最後の段階まで、「ボケ」ることなく、意識が明晰で居られることが多く、だからこそ、少なからぬ臨床医が「死ぬならガンがいい」と言うのだ。

 

 

 

意識は明晰で、そして脳卒中心筋梗塞などのように後遺症が残ることもなく、死ぬまでの時間をだいたいであるが、予測できて、死ぬ準備ができる。だから死ぬならガンがいいのだ、と。この「意識の明晰さ」は、しかし、からだが弱っていく過程では、やはりかなりの混乱を引き起こす可能性がある。

 

 

 

意識がはっきりしているゆえの混乱

 

今思えば、あれは、中咽頭ガン頸部リンパ節転移の夫が亡くなる一五~一六日くらい前のことだったと思う。彼は病状が進んでも、ずっと家に、入院は考えていなかった。(略)

 

 

 

しかしこのとき一度だけ言い合いになった。彼は「胃婁をしたい」と自分で言い出したのである。中咽頭ガンが原発だから、だんだん、喉のとおりが辛くなって、食事をとることはおろか、水を飲むのも、薬を飲むのも、本当につらそうになってきていた。(略)

 

 

訪問診療の彼の担当医と、三人で延命治療について以前に話したことがあった。胃婁も経管栄養も望んでいない、という彼に、ドクターは、「首のガンの場合、胃婁をして元気になる人もいますよ。食べられなくなるんだから、胃婁にすれば栄養もとれるし、胃婁をつけて講演活動を続けた、という方もおられるくらいですよ」という話をなさった。彼は、それを覚えていたのだ。「こんなに食べるのがつらいんだったら、胃婁にしたい」と言う。

 

 

 

私はちょっと狼狽した。胃婁にして長く生きられるのなら、そのほうがいい、と思うような、いや、もうこれだけ痩せてつらそうにしているのに胃婁にして何をいったいどうするんだ、というような混乱した思い。

 

 

こういうふうに、混乱しないように、もともと「延命治療はしない」という方針を立てていたのではなかったか。いや、しかしながら、「方針」などという堅い言葉は、職場としての医療福祉環境では使えるが、普段の生活にはやはり馴染まない。

 

 

「胃婁をしたい」という彼に、「延命はしない、という方針だったよね」とつぶやいたわたしに、彼は激怒した。「そんなにいやなら病院に行く。入院させてくれ」と。(略)

 

ドクターに「胃婁をしたいと言っています。以前、先生に胃婁にして元気になったガン患者さんのことを聞いたからでしょうか」と言うと「すがってるんですね、それに」とおっしゃる。本人から、ドクターに直接、胃婁にしたい、という希望を伝えてもらったが、答えは、非常に明瞭で「もう遅いです」ということだった。本人はかなり弱っていて、もう、胃婁の処置に耐えられないだろう、というのだ。その代わり、ドクターは九〇〇ミリリットルの経管栄養(高カロリー輸液)ならつけられる、そして、そうすれば、もう、口から飲んだり食べたりしなくてもよくなる、薬も全てパッチにすることができる、と彼に伝えた。(略)

 

 

 

夫は、口から物を入れなくなったことで、苦しみが減り、また脱水症状も改善されたので、穏やかに過ごすことができた。「延命治療」と一口っても、認知症の場合と、意識のはっきりしている病気の場合とは事情が異なる。本人の意思をはっきり示せるときは、そう簡単には決断ができないこと、それぞれのケースでその場の苦しみが減るように対応することについて、ドクターの明確なアドバイスも必要であることを学ぶことになった。

 

 

最後の日々に口ずさんだ歌

 

経管栄養にして、穏やかになったある日、夫は歌を歌いはじめた。この人は団塊の世代ど真ん中の人だから、まあ、普通にビートルズ井上陽水を聴いていたし、藤圭子や西田佐知子も好きだったし、石原裕次郎なんかも好きだった。

 

 

しかし、本当に最後の最後の日々、彼が、こんな歌を思い出すんだよなあ、と歌い始めた歌は、「わたしのラバさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」と、「一ノ谷の戰破れ討たれし平家の公達哀れ」の二つであった。(略)

 

 

調べて見ると「わたしのラバさん…」は一九三〇年ごろヒットした、ミクロネシアに移住した日本人をモチーフにした演歌師の歌らしい。(略」)

 

 

〇 「わたしのラバさん……」は、わたしもよく知っています。何故知っているのかはわかりませんが…。「一の谷…」は知りません。

 

延命治療をしないとか、いざとなっても、救急車を呼ばない、と決めていても、実際にそうなってしまったら、なかなかそうは出来ない…という話はよく聞きます。

 

そして、親の介護や死から、たくさんのことを学ぶことが出来た、というのは、私も同感です。私の実父は、私の兄弟家族が最後を看取ってくれたのですが、父は自分の最後を覚った時に、家族に、人が死ぬということがどういうことなのか、しっかり見ておけというようなことを言ったそうです。私はこの話を聞いて、少し救われたような気もちになりました。

 

父は、自分の死を受け入れて死んだのだと…。