読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで ―ガンの夫を家で看取った二年二カ月

〇気持ちが不安定になり、なかなか落ち着いてPCに向かえなくなったので、「本のメモ」を休みがちになっていたのですが、また、少しずつ続けたいと思います。

 

途中になっていた、三砂ちづる著「死にゆく人のかたわらで」の

メモをしたいと思います。この前の部分は、ここです。

 

「下顎呼吸のかたわらの穏やかな時間

 

この日は、親しい若い友人の誕生日だった。(略)

つまり、わたしはこの日、夫が亡くなる日でさえも、「誕生日のお祝いで、人に会いに出かけらる」くらいの状態だと、まだ思っていたのだ。

まだ大丈夫、と思える状態は、ドクターとナースの帰られた午後三時ほろには、さすがに「大丈夫ではない」に変わっていた。教え子に電話し、やはり今日はどうしても出かけられそうにない、というと、「なにか僕にできることはないですか」と言う。わたしは、息子のように親しく付き合っている彼に、「そばにいてほしい」と頼んで、家に来てもらうことにした。

 

 

わたしはさすがに心細かったのだ。いつかは来る、と思っていた時は、今日なのか。ドクターとナースはやるべきことはやって、なにかあったら連絡を、と言って、いつもと同じ淡々とした、でもあたたかな態度で変えられた。

 

 

息も荒い。話もできない。家に来て、と頼んだ友人が家に着くまでの一時間のことをあまりよく思い出せない。

この午後には、夫の呼吸は下顎呼吸になっていた。呼吸をするたびに下顎が上ったり下がったりする。要するに口があいたりしまったり、あぐ、あぐ、と言う感じの呼吸になる。もちろん、知識はあった。これが最後の呼吸だ、と。

 

 

下顎呼吸になるともう意識がない、とか言われているが、夫は反応はしていた。この友人が午後四時半ごろうちに着いて、夫に呼びかけると返事をしていたし、午後五時ごろまでは「愛してるよ」「ありがとう」と言うと、笑ってうなずいていた。

 

 

反応はしていたのだ。「金ちゃん、楽しかったよね」と言うとうなずいていたし、「しまねさん(友人)が来てくれているんだよ」と言うと、少しにっこりしたりしていた。

 

 

友人はなにか買ってきますね、と言って近所のスーパーに行ってのり巻きとかお稲荷さんとか、つまむのもを買ってきてくれて、同じくわたしの教え子である奥さんもほどなく家にやってきて、四時間くらい一緒に過ごしてくれた。まだ暑がってタオルをはねのけることはする。(略)

 

 

 

友人カップルが夜八時半ごろに帰宅するころには、夫の呼吸は安定しているものの、もう呼びかけには全く反応していなかった。彼らは「金ちゃん、また、来ますね」と言ってくれたけれど、返事はなかった。

 

 

 

「亡くなったら呼んでください」

友人夫婦が帰って、夜九時半ごろ、なにか買ってきてくれたものを食べようかな、と思っていたら、新田先生が現れた。「帰りに寄ってみましたよ」と電話もなくただ、やってきてくれた。なんだか絶妙なタイミングであらわれる。

 

 

「下顎呼吸ですね。今夜だと思います」「輸液は取りましょうか」と言って抜いて下さる。手袋もせず、そのあと手を洗いもせず。「すっきりしましたね」。鼠径部に入っていた太い梁につながれた高カロリー輸液は、もちろん、夫の最後の水分、栄養分補給の砦であった。これをはずす、ということの意味はよくよくわかっていたけれど、いまさらわたしも何も言うことがない。わたしはだまって見ていた。

 

 

 

管だらけで死にたくない、とよく言うが、この管は、酸素吸入は別として、夫がつながっていた最初で最後の管だった。全く食べられなくなり、水分も飲むのがつらくなり、経口の錠剤も飲み込むのがつらくなり、この高カロリー輸液の使用に踏み切った。「無理な延命、ということにならない程度の量にします」と新田先生は言われ、ずっと九〇〇ミリリットル、ここ数日は七〇〇ミリリットルの輸液を使っていた。

 

 

「キリストの最後のような顔ですねえ。みんな立派なんですよ」。わたしもいろいろ話す。「甥夫婦が帰ってしばらくして起こしてほしい、トイレに行く、という。溲瓶ですればいいのに、と思ったけれど、トイレに座らせて、おしっこをしました。

 

 

そうしたらもう立ち上がれなくなってだんだん白目をむいてきたので、なんとかベッドに座らせて、そうしたら倒れ込んだので先生を呼ぶことになったんです。トイレに座っている間に顔を熱いタオルでふき、からだもふいてやりました」

 

 

夜、一〇時すぎに先生は帰る。一〇時二〇分、呼吸が少し速くなってくる。まだ、手は動く。まだ、タオルケットをはねのけようとする。夫の様子を見て、「夜中になったらわたしにだけ電話して下さい。朝になって明るくなったら師長にいろいろやらせましょう」と言って帰られた。

 

 

わたしも、はい、そうします、とやっぱりなんだか現実味のない返事をしてしまったが、いまになると、この要するに「亡くなったら呼んでください」は、医者としてはすごい言葉ではあるまいかと思う。

 

 

これが、病院でのことなら、どうだろう。きっと、あの処置もして、この処置もして、いろいろな周囲があわただしく動くのだろうな、と想像して見ると、そのすごさに気づく。百戦錬磨の訪問診療医ならでは、の一言である。(略)

 

 

しかし、「家族とともに看取り」をする「訪問診療医」の役割は、いまわのときにやってきて、心臓マッサージをするのが役割ではない。家族が落ち着いて、本人がなるべく苦しまないで、穏やかに家で最後のときを迎えられるようにセッティングするのが、訪問診療医の仕事なのだ。

 

 

彼は最後のときに手を下しはしない。死にゆく人の最後のときは、その人自身と、家族と、その環境に委ねているのだ。

 

 

 

死にゆくときの「介助者」の役割

 

本来の第三者である「介助者」の役割とは、まさにここにあるのだろう。わたしは出産に関わる仕事をしてきた。世の中では人間は「ひとりでお産はできない」と思われている。(略)

 

 

しかし、誰が産むのかといえば、医者が産むのではない。女が産むのである。女が自分の力で産み、赤ちゃんが自分の力で生まれる。(略)

 

 

 

つまりは、「介助者はなにをするのか」ということは、実はそんなに簡単ではない。何か手を出して、その人にさわって、その人に対して「なにかをする」ことが介助者の役割だとわたしたちはつい思うが、必ずしもそうではない。その人がその人らしくあることができるように、その人がその人とともにある人(出産の場合は赤ちゃん、死にゆく場合の人は、親しい家族だろうか)が静かにその時を迎えられるように、環境を整えるのが介助者の役割とも言える。出産の場合、伝統社会のありようから見えて来るのはそういうこと、つまり「介助者は手を出すのではなく、周りの状況を整える」人なのである。」