読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「伊豆に出かける「暴挙」

 

この状況はこの時点でしばらく続く。最初に倒れた時点では、いったいなぜ倒れたのか、わからない。もともとてんかんの治療を受けていたわけだから、てんかん発作だったのか、と、その時は思っていたし、意識がないわけでもなかったから、救急車も呼ばなかった。

 

 

本人はよく眠り、次の朝は元気で、伊豆高原には予定どおり行こうと言う。

前の夜にそういうことがあって、直後に、よく出かけようなんて言う気になるな、と今になれば思うのだが、それはいまだから思えることである。

 

 

当時の夫は、倒れていない時は元気なのであり、元気なのだから、なんでもやりたいことはやると言う。もともと、天上天下唯我独尊な人なので、やりたいことはやり、やりたくないことはやらないから、こちらが何を言っても無理である。

 

 

「倒れて、便失禁」は五月三日の夜で、翌々日から小さな別宅のある伊豆高原に出かけることにしていた。五月八日から数週間の入院加療が決まっていた。本人はこの連休を利用して大好きな伊豆高原にわたしと出かけようとしていたので、起きあがれて「元気」になったら、行きたいのだ。(略)

 

 

 

本人はいつもやりたいことはやってしまう人で、実は、わたしもそうで、お互い、そういうことに対して口を出しても、行き場のない口論になるだけであり、気持ちの良いことにはならないと知っていた。(略)

 

 

着替え一式は持っているのだから、いざとなれば着替えさせようと、はらはらしながらも電車に乗り、なんとか伊豆高原の小さな家に着き、彼はいつもどおりお酒を飲み始め、案の定、夕方五時ごろ、二度目の発作を起こした。突然気分あ悪いと言い始め、ふらつき、顔から昏倒しそうになったので何とか支える。またあぶら汗をかいていて、真っ青で、手足が冷たくて、血圧がひどく下がっているみたい。

 

 

首に強い痛みがあるというので、なんとか痛み止めを飲ませる。この日は便失禁はしない。発作だけだった。

またなんとか寝かしつけ、一晩経ったら同じように元気になっていた。さすがに二泊する勇気はなく、次の日、道中で発作を起こさなければよいが、と、今一度はらはらしながら電車に乗り、家に着いた時の安堵は忘れられない。末期ガンと診断された患者が発作を起こしているのに、よく出かけたものだ、という理性的コメントは、何度も言うけれど、いまだからできるのである。(略)

 

 

入院前の夜の発作

 

二度目の発作が五月五日。入院加療が始まる三日前で、連休中ではあるし、もうすぐ、入院するのだから、医者に診てもらうのはそれからでいいや、と思っていたこともあり、こんな容態の急変なのに受診もしなかった。というか、させなかったわたしも、今思えば、全く理性的でない。しかし、現実とはそういうものだ。(略)

 

 

入院前日の夜、入浴して、しばらくベッドに寝ていたのだが、首が痛い、と言ってベッドを下りようとする。うまく立ち上がれず、ベッドの脇でしりもちをつく。なんだか、エヘエヘと意味のないことをつびゃいていて、明らかに様子がおかしい。

 

 

痛いと言うから、痛み止め(この時点で出てくる痛み止めは全て前述したバラセタモールという、ごく普通の軽い痛み止めであり、麻薬系のものではない)を飲ませ、座り込んでいる彼をベッドに戻そうとするが、うまく立ち上がれない。

 

 

でもなんとか寝かしつけると、「ちづるさんも寝て」と、普通にしゃべるので、わたしも横になったところ、寝かしつけたばかりの夫は、首が痛い、と言っておもむろに立ち上がり、立ち上がるなりベッドの脇に後ろ頭からどーん、と昏倒し、いびきをかきはじめた。(略)

 

 

入院先でないERへの搬送

ベッドの脇で後ろ頭から昏倒し、意識がない、と思っていた夫は、わたしが救急車を呼んでいる間に、起き上がっていた。なんと数分の間に、便失禁したからだを洗うために、風呂場に行ってシャワーをかけている。もちろんまだふらふらしているから、そのまま脱衣場に座り込んでしまい、また、起き上がることができない。なんとかまわりを片付け、本人が寒くない様にバスタオルなどをかけて、動かないで、とたのみ、救急車を待った。(略)

 

 

明日から入院するというのに、救急外来がいまはいっぱいで運ばせてもらえない、という理由で、入院予定の東京都立多摩総合医療センターには運んでもらえず、結局、近くの立川氏にある災害医療センターのERに運ばれ、脳のCTをとる、という。(略)

 

 

救急車が来て搬送先を車内で決めようとしているとき、救急隊員はいろいろな質問をする。救急車にいるとき、本人はすでに意識があり、しゃべってはいるが、返答がめちゃくちゃである。(略)

 

 

「ガン?オレが?脳出血はしたことがあるけどな」みたいに、まともにしゃべるのに、内容はめちゃくちゃなのである。これはいったいどうなってしまうのだろう、と本当に「怖かった」のだが、とにかく搬送先のERに運び、手続きをして、わたしは夜中の二時に帰宅した。すごいにおいの一階の風呂場及び脱衣場及び寝室のそうじをイノシシのような勢いで終えた時には、朝の四時ごろになっていた。

 

 

ガンが進んで発作が消える

 

この「ばったり倒れる」発作、は、その後、彼が入院してからも何度も続いていた。「なんとなく痛みが出て、気分が悪くなり、立っていられなくなって、失神、失禁」が一番激烈なパターンであるが、失神まで至らない発作もひんぱんに起こしていたようだ。ようだ、というのは入院していたから、わたしが知らないのだ。

 

 

入院して放射線治療と抗ガン剤治療をうけはじめてだいたい二週間くらいで、この発作は消失した。そして、治療の一年後に、再度起こるようになり、それは四週間続く。要するに、末期ガンの診断を受けてすぐ、三週間くらい発作を起こすようになり、治療とともにいったん収まり、一年後再発し、また四週間発作を起こし、その後おさまり、それから一年後に亡くなった、ということである。

 

 

この「発作」は、耳鼻科の担当医によると、「迷走神経反射」なのだという。リンパ節転移しているガンの部位が首筋であり、ここには、「迷走神経」が走っている。そこをガンが刺激するような形になるから、発作が起きるのではないか、というのだ。(略)

 

 

 

最初の発作フェーズから一年、この二度目の発作フェーズが起きた時期は、すでに入院加療はせず、ずっと家にいたのだが、結果として四週間で二五回くらい発作を起こし、そして、それだけのけっこうな回数の発作を起こしたあと、発作は起きなくなった。(略)

 

 

必ず慣れる、慣れればできる

 

このようにして、死ぬ一年前に、いちばん激烈であった症状自体はおさまってしまった。それから一年、だんだん本人は、衰弱していったし、痛みも多くなって麻薬系の痛み止めを増量していったが、痛み止めはよくきいていたし、おおむね穏やかなフェーズであった。

 

 

本人がいちばんつらいのだが、起こって来ることに、家族も鍛えられていく。

最後の穏やかな時間にむけて、あれは鍛錬であった、といまになれば思うのだが、それらは全て「後づけ」の解釈では、ある。「ばったり倒れる」ことと「排泄物との格闘」が同時に起きたこの一連の発作は、わたしには「怖い」ことだった。

 

 

どこまで対応できて、どこまで適応できて、どこまでやれるのか、というのは、その時点におけるわたし自身の状態と密接にむすびついている。あの時点では「怖い」ことであったといまもはっきりと思い出せるが、それらはほどなく「怖い」ものではなくなっていった。「怖い」と思っていることでも「何度も起こる」と人間は慣れる。

 

 

「いやだ」と思っていることでも何度でもやらせるといやだと思わなくなる。これが実は人類の歴史の中で、さんざん悪用されてきたことだと思うのは、映画「フルメタル・ジャケット」を見るまでもない。しかし私たちは戦争をするのでも、人殺しをするのでもない。誰かの面倒をみるのだ。だったら、起こることには慣れるほうがよい。できなかったことはできるようになる方がよい。(略)

 

 

 

「排泄物」の怖さは、きっとわたしたちの記憶にひそむ、排泄物にまつわる何かわしい思い出や、それにともなう周囲の態度に起因するものだろう。汚い、臭い、ということだけではなく、なんらかの精神的ブロックがかかっている。だが、やるしかないさ、とハラをくくれば、やるしかないのだ。

 

 

慣れればできるし、いよいよとなれば、頼れるモノがあり、助けてくれるプロもいる。このことに限らないけれど、日本のシステムの中でどれほど助けてくれる人を探すことができるか、それはまた、回をあらためて書いてみよう。」

 

 

〇「馴れればできる…」と仰っています。

やらなきゃ慣れない。慣れなきゃできない。目の前にやった方がいいと思えることがある時には、そう思ってやる。わたしもそう思っていました。

でも、こと「排泄物との闘い」については、わたしの場合は、慣れなかったような気がします。逆に、どんどんトラウマのようなものが蓄積して行ったような気がします。

 

最初は頑張っていました。でも、小さな「嫌」がどんどん蓄積して、3年経つ頃には、身体に色々な問題が起こってきました。だから、わたしは、介護を、一人の人に任せてしまうのはよくないと思います。今の介護サービスには、本当に助けられました。このシステムを後退させないで、欲しいと心から願います。