読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「第8話

 

人生最大のストレス

 

二〇一五年六月に末期ガンの夫を家で看取った。配偶者の死、というのは人間にかかる「ストレス」のうちで最も大きいもののひとつであるという。ライフイベントとストレスに関する有名な尺度があって、「配偶者の死」の次には「離婚」「夫婦別居」「刑務所収容」「近親者の死」などと続くが、「配偶者の死」は、抜きん出てストレスが高いイベント、とされている。

 

 

ちなみにストレスとは、「人間がもともと生きて続いていく方向にそぐわないような刺激がからだに加わった結果、身体が示すゆがみや変調」のことである。このところ、妊娠、出産、子どもを育てることが女性にとってストレスなので…などという言い方をよく聞くし、子育ては毎日がストレスでいっぱい、とか平気で言ったりしているのだけれど、これは実は「ストレス」と言う言葉の正しい使い方ではない。

 

 

 

生物である人間が、次世代を宿し、産みだし、育てることは、「人間がもともと生きて続いていく方向」に沿うことである。このプロセスがないと、人間はこの世代で終わり、となってしまう。人間がもともと生きて続いていく方向、というものには、なんらかの喜びがビルトインされているはずで、それがよきもの、ではないようにとらえられるようになり、つらい、と思わざるを得ないようになっている状況自体が「ストレス」、なのである。

 

 

この、人間の本来生きていく方向自体をつらくしているもの、たとえばすべての人が賃労働に参加することこそが生き甲斐だ、とか、社会的評価が得られないのは価値のないことだ、といった考え方とか、具体的には、仕事が忙しすぎることとか、時間がないこととか、そういうことがストレスなのである。

 

 

 

「母性のスイッチ」が入るとき

 

(略)

人の世話をする、ということは、夜は自分の好きなようには寝ない、ということでもある。

授乳期の母親は、幼い子どもがかたわらに寝ているときは、子どもの気配で即座に目覚める。「添い寝したら子供に覆いかぶさって危険だ」などということが真剣に議論され、だから「添い寝をしてはいけない」と言われていたこともあったが、今は日本人が昔からやってきた「母親の添い寝」は、むしろ推奨されている。(略)

 

 

妊娠、出産、授乳、人の世話、という人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た女という生物は、なんらかの形でスイッチ(あえて「母性のスイッチ」と呼ばせていただこう)が入れば、自分のことは二の次にして、黙々と清々と働けるのである。

 

 

そしてそれは前述したように、苦行、ストレス、ではなく、喜びとして行えるのだ。生命の存続の方向にかなうことだから。

それをいまは、「妊娠すると仕事ができない」「出産するとキャリアに関わる」「子育ては女性の人生を邪魔する」などということになって、身体的に「母性のッチ」が入る機会をつぎつぎと奪っている状況なのである。残念なことだ。この国の子どもがどんどん減ってゆくのも、仕方のないことだと思える。

 

 

 

私的に近しい人の「手の内」にあること

 

わたしのかたわらに寝ていたのは、授乳期の子どもではなくて、末期ガンの夫だったのだが、そういう「弱い時期の人」「人の助けがいる人」がかたわらに寝ていると、女は、”はりきる”。スイッチが入っているので、ほんの少しの動きにも敏感にからだが反応する。夫は最後まで自分で立ってトイレに行けたが、ふらふらするので、ほうっておくと危ない。夜トイレに立ったり、痛み止めを飲んだりするたびに、即座に反応するわたしであった。起こされるわけではないし、夫は私を気遣っていたから、いつもそっと動いてくれていたのだけれど、わたしが気づくのであった。(略)

 

 

しかし、やっている方、やったことがある方はおわかりだと思うが、この人間のもとの形、「生の原基」に関わる部分、まあ、簡単に言えば、次世代を産み育てる、先に逝くものを見送る、さらに、いまふうの言葉で言えば、妊娠、出産、子育て、介護などは、根本的に人間の「私的領域」に関わっていることであり、個人的な関係性の中でしか存在しえないものである。

 

 

公的なシステムがそれに完全に取って代わってしまうことは難しい。(略)

簡単に言えば、子どもを産んだり、子どもを育てたり、子どもをつくることに繋がるような愛の暮らしを営んだり、弱った人を助けたり、人生の終わりに向かう人を送ったり、そういったことは、誰か私的に近しい人の「手の内」にある、ということだ。育ちゆく本人や、死にゆく人の安寧は、誰か親密な関係を持つ人に委ねられるということなのだ。(略)

 

 

介護する人は選ばれた人

 

「子育て」をする人は、子どもに親であることを選ばれた人である。あなたの子どもは偶然にあなたの元に届いたわけではない。別にスピリチュアル系の話でもうて、子どもはあなたに続く長いご先祖様の歴史の果てに、なんらかの必然と関係性の元にあなたの前にあらわれた。あなたは子どもに選ばれたのだ。

 

 

それと同じように、介護する人は、選ばれる。家族の中から、ほかでもないあなたが、介護する人に選ばれるのである。選ばれたものの、誇りと矜持、そういうものがたしかにある。生まれる人の親になることも、死にゆく人のかたわらに寄り添うことも、選ばれることなのであるが、いまはその選ばれたものの誇りを口にすることが本当になくなり、子育ても介護も大変です、という苦労自慢ばかりになってしまった。(略)

 

 

そもそも、「育児」と「介護」は似ている、とよく言われる。父の介護をしているときも、夫の介護をしているときも、しみじみと、「子どもを育てること」と「人の介護」は同じプロセスだと思った。方向性が違うだけでやっていることは同じ。ちょうどコマを逆回しにしている感じである。(略)

 

 

「お父さんが出張でこの時間しか帰って来ない」とお母さんが言っていると、お父さんを待って生まれてくることは、珍しくないらしい。赤ちゃんはなんでもわかっている、と痛感させられることが多いからこそ、お産はできるだけ自然に、産む女性と赤ちゃんが自分の力を生かせるようにしていく必要があるのだ、と言う、助産師たちの言葉は重い。(略)

 

 

どう生きて、関わって来たか

 

自然なお産で生まれて来た赤ちゃんは、自分の力で生まれて来た誇りで輝いている。自分の力を使って産んだ女性は、出産という経験だけで、母性のスイッチが入り、見事に落ち着いて、社会的認識に開かれ、母として生きる自信に満ちるようになる。(略)

 

 

 

「自然なお産」とはどういうものか、様々に議論されてきているのだが、わたし自身は、生まれて来た赤ちゃんが達成感に満ちた表情をして、女性が別人のように自信に満ち、介助してきた人も心の底から励まされるような、そういう出産が「自然な出産」だと思う。医療介入を実際に行ったかどうか、は実はどちらでもよいことで、母子、介助者が全て光につつまれるように励まされるお産が、人間がもともと行って来た「自然な出産」なのではないだろうか。(略)

 

 

 

「自然な死」についても議論が深まっているが、医療介入をしたかしなかったか、自宅で死んだか施設で死んだか、そういうことは、おそらく、実は些末事で、どちらでもよいのである。

 

 

死にゆく人が静かに時間を過ごし、寂しいながらも満ち足りてあり、介助していた人間が、その死と共に、悲しくはあるがなんとも言えず、励まされる、という死は、「自然な死」なのではないか、と思う。

 

 

 

そのように静かに逝き、励まされて看取る、と言う経験はだから、医療介入するかしないかとか、施設か自宅か、という議論ではなく、死にゆく人と最後までそのかたわらにいるであろう人との関係性によってのみ、決まっていくことなのだ、とあらためて思わずにはいられない。

 

 

だからこそ、その関係性は、病を得たり、死にそうになったりして突然始まるものではなく、それまでその人がどのように生きてきて、どのように周囲や家族や人と関わって来て、最終的に自分を看取ってくれる人とどのように関わって来たか、によって決まってゆくのだ。それは結局、その人がどのように生きて来たか、の反映となるしかない。

 

 

 

介護には終わりがある

(略)

 

 

 

子育てには終わりがないが、介護には終わりがある。死は永遠の別れで、たしかに悲しいものだけれど、それは永遠の和解でもある。もうこれ以上の軋轢もなければ、刃向かわれることもない。よき思い出だけが手元に残り、見送ったものには静かな励ましが残る。厳しいことだけではないのだ。子育てと介護は似ているが、ある意味、介護のほうが救いがあることも少なくないのかもしれない。(略)

 

「女」がになってきた仕事

 

「子育て」と「介護」は似ているから、両方やると、もちろん上手になる。(略)

女の人生は……とこのように書くと、「子育てと介護を女に押し付けて女性の社会進出を妨げるのでけしからん」と言われるのであるが、「全ての女性は社会的評価を受けるような仕事を望んでいて、それができるようになるのが世の中の発展である」という考え方自体、いまの時代に広く生き渡っている単なるイデオロギーのひとつである、「金を儲けてくることがいちばん大切」という産業消費社会の要求と一致しているがために、広く人口に膾炙しているにすぎない。

 

 

 

もちろん、「子育てと介護は女の仕事」で、全て女がやれ、などと言うつもりはない。男がやっても女がやってもいいけれど、子育てや介護において必要とされるのは、その人の「女性性」だから、「女のやること」と、つい、言ってしまいたくなるのである。

 

 

 

男であろうが女であろうが、ひとりの人にはその生物学的性にかかわらず、男性性と女性性が共存している。男性性、女性性、というもの自体が社会的に規定されたものだ、と言われることもあるけれど、産む性である女性が男性と同じとは言えないことは、DNAから考えてもその通りであろうし、ひとりひとりが自分のことを考えてみても、自らのうちに女性なるもの、男性なるもの、のどちらもある、と感じると思う。(略)

 

 

幼い子供や助けのいる人たちのお世話をする、というのは、それぞれの人のうちにある「女性性」の発現が期待されている分野であると思う。だから、男の人が肩代わりすることもあるけれど、これはやっぱり長い人類の歴史の上で、「女」がになってきた仕事である、と思う。(略)

 

 

それでもやはり、家で死ぬのはよいこと

 

あらためて、家で看取ったことをふりかえってみると、この人を家で見送ったことで、いまこのときへの集中はずっと上がったということが確実だ。そして、家で見送ったことで悔いが残らなかった、家で看取ったことはよい経験でした、その経験がいまもわたしを支えてくれます…。亡くなった夫のお悔やみの言葉を言って下さる方に、そのように言うことが多かったのだが、ほどなく、気づいた。

 

 

わたしがいうことは「やらなかった人」「出来なかった人」に、悔いを残させるらしい。ガンをわずらった大切な人を病院で死なせた、と後悔させるようだ。「私がいつまでも悲しのは、家で看取れなかったからなんですね」という方も出てくるにおよんで、あまり、家で看取ってよかった、と言い募るのはよろしくないなあ、と思ったりしはじめた。(略)

 

 

今も夫が死んだときのことを思い出す。施設で看取った父や義母は、そのまま葬儀場に運ばれ、家に戻ってくることはなかった。家にずっといなかった人を、死んでから家に迎えるのは、なんだか気持ちよくなかったのである。はっきり言って、ちょっと怖かった。家に死人を安置する、ということがなんとなく怖かったのである。

 

 

しかし、夫は家で死んだ。わたしの腕の中で死んだ。死んだ彼はさっきまでは生きていた人であり、生きていても死んでいてもわたしの愛する夫であり、ひとつづきの流れの中に存在する人なのであった。だから、死んだ彼のことは少しも怖くなかった。(略)

 

 

人間はおそらく、本来は、家族の場所を持ち、そこで生まれ、そこで憩い、そこから出て、またそこに戻り、癒され、また出て行き、そして、最後に帰ってきて、そこで死ぬのが、あるべき姿なのであろう。

 

 

健康とはそのような暮らしの中でこそ、「医療」や「サービス」に頼らずに立ち上がってくるものであるのに違いない。

人間としてのあるべき姿から遠く隔たってしまったことに悔いはないとはいえ、私たちが、この近代のもたらした衣食住の見事な豊かさと、何を引き換えにしたのかを、家で看取ることを機に、わたしはさらに深く考えるのである。」

 

 

〇一番気になったのは、

「妊娠、出産、授乳、人の世話、という人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た女という生物は、なんらかの形でスイッチ(あえて「母性のスイッチ」と呼ばせていただこう)が入れば、自分のことは二の次にして、黙々と清々と働けるのである。」

という文章です。

多分、その通りだと思います。でも、現在、人間の「育ち」は、人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た時代とは違う育ち方をしているのではないかと感じるのです。

本来群れで育つ人間が、それぞれバラバラに個室の中に入れられ、育っています。本来は、自然と共に自然の中で生きていた人間が、人工的な環境で育っています。それにも関わらず、「女は本来そのような役割を担えるのだ」としかも喜びを持って担えるのだ、と言われることに、素直にうなずけない気持ちになります。

 

家で看取ることはよきことで、女がその仕事を担うのが本来の姿、と主張することは、今の時代、結構勇気がいることではないかと思います。私としては、「そうすべきだ」と強いられるのは、嫌ですが、でも、こんな風に考える人は好きだなぁ、と思いました。

 

また、介護する者には誇りと矜持がある、ということも、確かにそうだ…と思いました。