読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

死にゆく人のかたわらで

「下顎呼吸のかたわらの穏やかな時間

 

この日は、親しい若い友人の誕生日だった。わたしは「研究者」で、「大学教師」なので、専門分野を教えることによって、その後親しく付き合うようになった、昔ふうに言えば、まあ、「弟子」みたいな関係の若い友人が何人か、いる。(略)

 

 

つまり、わたしはこの日、夫が亡くなる日でさえも、「誕生日のお祝いで、人に会いに出かけられる」くらいの状態だと、まだ思っていたのだ。もちろんひとりにしておけないから、ヘルパーさんを頼んでいたが、「まだ大丈夫」と思っていたからこそ教え子の誕生日祝いに出かけようとしていたのだ。

 

 

まだ大丈夫、と、思える状態は、ドクターとナースの帰られた午後三時ごろには、さすがに「大丈夫ではない」に変わっていた。教え子に電話し、やはり今日はどうしても出かけられそうにない、と言うと、「なにか僕にできることはないですか」と言う。わたしは、息子のように親しくつきあっている彼に、「そばにいてほしい」と頼んで、家に来てもらうことにした。

 

 

わたしはさすがに心細かったのだ。いつかは、来る、と想っていた時は、今日なのか。ドクターとナースはやるべきことはやって、なにかあったら連絡を、と言って、いつもと同じ淡々とした、でもあたたかな態度で変えられた。息も荒い。話もできない。家に来て、と頼んだ友人が家につくまでの一時間のことをあまりよく思い出せない。

 

 

この午後には、夫の呼吸は下顎呼吸になっていた。呼吸をするたびに下顎が上ったり下がったりする。要するに口があいたりしまったり、あぐ、あぐ、という感じの呼吸になる。もちろん、知識はあった。これが最後の呼吸だ、と。

 

 

下顎呼吸になるともう意識がない、とか言われているが、夫は反応はしていた。この友人が午後四時半ごろうちに着いて、夫に呼びかけると返事をしていたし、午後五時頃までは「愛してるよ」「ありがとう」と言うと、笑ってうなずいていた。反応はしていたのだ。

 

 

「金ちゃん、楽しかったよね」と言うとうなずいていたし、「しまねさん(友人)が来てくれているんだよ」と言うと、少しにっこりしたりしていた。

友人はなにか買ってきますね、と言って近所のスーパーに行ってのり巻きとかお稲荷さんとか、つまむものを買ってきてくれて、同じくわたしの教え子である奥さんもほどなく家にやって来て、四時間くらい一緒に過ごしてくれた。

 

 

まだ暑がってタオルをはねのけることはする。その間、夫の浅い、下顎呼吸は続いていたが、なんだか、とても安定した呼吸でもあり、苦しがる様子もなく、穏やかで、わたしたちは彼のそばで食べたり飲んだりして、おしゃべりをしていて、このような穏やかな時間は、実はけっこう長く続いて行くのではないか、と思った。(略)

 

 

 

友人カップルが夜八時半頃に帰宅するころには、夫の呼吸は安定しているものの、もう、呼びかけには全く反応していなかった。彼らは「金ちゃん、また来ますね」と言ってくれたけど、返事はなかった。

 

 

「亡くなったら呼んでください」

 

友人夫婦が帰って、夜九時半ごろ、なにか買ってきてくれたものを食べようかな、と思っていたら、新田先生があらわれた。(略)

 

 

「下顎呼吸ですね。今夜だと思います」「輸液は取りましょうか」と言って抜いてくださる。(略)

管だらけで死にたくない、とよく言うが、この管は、酸素吸入は別として、夫がつながっていた最初で最後の管だった。全く食べられなくなり、水分も飲むのがつらくなり、経口の錠剤も飲み込むのがつらくなり、この高カロリー輸液の使用に踏み切った。「無理な延命、ということにならない程度の量にします」と新田先生は言われ、ずっと九〇〇ミリリットル、ここ数日は七〇〇ミリリットルの輸液を使っていた。(略)

 

 

夜、一〇時すぎに先生は帰る。一〇時二〇分、呼吸が少し速くなってくる。まだ、手は動く。まだ、タオルケットをはねのけようとする。夫の様子を見て、「夜中になったらわたしにだけ電話してください。朝になって明るくなったら師長にいろいろやらせましょう」と言って帰られた。わたしも、はい、そうします、と、やっぱりなんだか現実味のない返事をしてしまったが、いまになると、この要するに「亡くなったら呼んでください」は、医者としてはすごい言葉ではあるまいかと思う。(略)

 

 

家族が落ち着いて、本人がなるべく苦しまないで、穏やかに家で最後のときを迎えられるようにセッティングするのが、訪問診療医の仕事なのだ。彼は最後のときに手を下しはしない。死にゆく人の最後のときは、その人自身と、家族と、その環境に委ねているのだ。」