読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ギケイキ 2

「普通、家に上る時は沓を脱ぐ。土足で上がるという事はない。それが他人の家なら猶更である。同様に他人の邸内に入る時は馬から下りる。あたりまえの話だ。ところが弁慶は大黒に乗ったまま門をくぐり、そのまま庭に入って行った。庭や詰所には何人かの侍が居た。こんな非礼を許したのでは武士としての面子が立たない。」



「神に嘘を言っていないことを誓った文書を提出する、と言い出したのである。というと現代の読者は、「あ、なんだ、そんなことか」と思うに違いない。けれどもあの頃、起請文は実際に効力があった。具体的に言えば、起請して神仏に誓った上でこれを違えた場合、文中にある通り、というのは、これが噓だったら滅ぼして下さい、と書いてある通り、その人は確実に滅んだ。これが形骸化したのはあれから大分と時が経ってからの話だ。(略)



なので正尊が、起請文を書く、と言い出したのは、私もこないだそうだったが、よっぽどのことで、けれども私の場合は本当に嘘偽りがなかったからどうということはなかったが、正尊は完全な嘘なわけで、ということは正尊は神罰仏罰によって滅ぶのを覚悟の上で、嘘をついたと言える。」



「ああ、その覚悟はできている。僕はこれまでキャラクターを様々に変幻させて生き延びてきた、ならば、従容として死を受け入れる人物にだってなれるはずだ。」



「「なんでだ。正尊は起請して帰ったではないか」
「なにをおっしゃいます、ほんま甘ちゃんでんな。よろしいか、起請文なんてものはねぇ、個人的なことについて書くもんでしてね、こんな大きい、きわめて政治的な問題にかんしてはなんの意味もない形式的な文書ですがな。今夜という今夜は絶対に油断したらあきません。すぐに人を呼び集めて、充分に警戒・警固せんと」
と、弁慶はこんなことを言ったのだ。私は、はあ?と思った。怒るよりも情けなかった。情けなくて涙がこぼれそうだった。だったら私が腰越で書いた書状は、提出した起請文は何だったのだろうか。単なる政治的なゼスチャーだったのだろうか。」




「自分が不細工と言われようとアホと言われようと気にしない。そんな自分のことよりも真っ先に主人である静のことを考える。クフは淫蕩ではあったがそんな忠義な女だった。」



「しかし作業を続けるうちに、いやいやそうではない、と思うようになった。というのはまず自分が意地悪されたのにはそれ相応の理由があったからではないかということで、例えば自分は心の中ではっきりと、おまえらと自分はレベルの違う人間である、という意識があって、それが表情や態度に出ていて、それを敏感に察知した松が悪をしたのではないか。」



「「そういえば壇の浦で実際に闘ったっていう人に聞いたことがあるンだけど義経って非力だそうですね。非力だから弓やなんかも、ぜんぜん威力ない弓、使ってた、って言ってたな、そういえば」
「でしょでしょでしょ。そんな義経がたった一人なんですよ。あとは女しかいません。そこへですよ、僕らが恐ろしく威力のある弓を百人くらいで一斉に射掛けたらどうなるでしょうか」
「瞬殺」
「仰る通りです。僕らはきっと勝ちますよ。勝って帰りましょうよ。一人の戦死者も出さずに。そして土地を貰って受領階級になるのです」」




「「なんでも義経は弁慶と勝負して勝ったらしいですからね」
「えええええ?マジですか。あの山と闘って勝つと言われた男。弁慶に勝ったんですか」」


「と言った議論が二十五分以上も続いて、クフは半ば呆れていた。なぜなら、相手を言い負かしたい、自説の正しさを証明したい、ただそれだけのための議論が延々と続き、またそのなかに、自分は有名人と知り合い、とか、各方面にコネがある、といった自慢話がさりげなくと言いたいところであるがけっこう露骨に混ざって、聞くに堪えず、はっきり言って中身というものがまったくない議論だったからである。



また、長々とこうした議論をしているのはいざとなると戦闘が恐ろしいので、戦闘開始をなるべく遅らせるためにそうしているという風にもクフには感じられた。」



「私はそれそのものが凄いことだと思った。というのはだってそうだろう。考えても御覧なさい、敵勢はもの凄い外見の、狂気の印地暴力集団五十名を先頭に押し立て、その背景には関東の荒くれ武者が控えている。それに引き比べて見方は、というと自らを含めて二名。うち一命は大将軍源九郎判官義経なので実質は一名。つまり、百五十対一の戦いということで、私のように六韜をマスターしていた李、或いは弁慶をはじめとして私の主だった部下のように武芸に絶対の自信があって、まあ五百人くらいまでだったら余裕で殲滅できる、みたいな武者は別として、普通から見つからないうちに百姓の格好かなんかに着替えて逃げる。絶対に逃げる。」



「なせというに、その目があまりにも真っ直ぐであったからである。そこにはなんの疑いもなく、なんの逡巡もなく、一片の邪心も見て取れない。黒々として、同時にすみわたった眼差しだった。
そんな真っ直ぐな眼差しで喜三太は射るように私を見ていた。いや、射るとかそういった気持ちは喜三太にはなかっただろう、私が勝手に射られるように思っただけだ。
私はそう。喜三太の眼差しに射られていた。そして、恥ずかしかった。
喜三太は自分の命を鳥の羽よりも軽いものとして、いや、自分というものを超越して私の前に控えていた。それに引き比べて私はどうだったか。」




「そしてまた驚いたのは喜三太の射撃の技術の素晴らしさで通常、武者というものは兜を被り腹巻を着けている。なぜこんな重いものをつけるかというと、刀槍や飛んで来る矢から我とわが身を防御するためである。だから矢で敵を衝け狙うときは頸の辺りを狙う。けれどもむざむざと射られないのは兜には錣といって、矢を跳ね返すようなベラベラを取り付けてあるし、また武者は常に首を斜めに傾けて射手の側に無防備な首筋を曝さない様にしているし、さらに言うと馬上にいて常に動き回っているので、首筋を矢で射て致命傷を与えるのはけっこう難しく、大抵は太腿とか二の腕といった、。そりゃあ刺されば痛いけれどもそれですぐにどうにかなるという訳ではないところにしか命中しない。」



「つまり私は二十万人に気合を入れることのできる人間なのである。その私がたったひとりの人間に気合を注入したのだ。どれくらい気合が高まるかちょっと考えれば容易に想像がつくだろう。」




「ただしひとつだけ注意しなければならないのは、そのときの自分の判断の方が当たり前じゃなくなってしまっているかも知れない、という点で、自分が当たり前じゃなくなってしまっていると、当たり前のことをやっている人が気がおかしい人に見えてしまう。その場合は自分の方が、急に異常なことを言いだした挙句に錯乱して上司をぶち殺そうとした人、になってしまうので、その点だけはくれぐれも注意してほしい。


どう考えてもこれが当たり前でしょう、と一点の曇りもなく思う時ほど立ち止まって自分の正気を疑うべきなのである。」


〇 まだ続くのですが、抜き書きはここまでにします。
義経については、子供の頃、「♪京の五条の橋の上 大の男の弁慶が~」という
歌を聞かされたくらいで、あとはほとんど何も知らず、また興味も持たずに生きてきました。

ギケイキ1に続いて2を読むと、あの頃の人々と今の私たちが、ものすごい時間を経て、繋がっているのだと思わされました。もちろんフィクションなのですが、でも、確かにそういう要素はあったんだろうなぁ、と説得力のある描写で、そこが面白かったです。

特にこの2巻は、頼朝がなぜ義経を討たねば、と考えたのか…についての物語なので、引き込まれました。

私としては、この義経のふざけた口調がイマイチ苦手でした。でも、最後には、それさえ気にならなくなってしまいました。

この本を読み始める少し前に、NHKの100分de名著「平家物語」が放映されました。あの大河ドラマの時には全く興味を持てなかった平家物語なのですが、でも、この本を読んだおかげで、この中で語られた義経像にも、興味が持てました。

そして、あの能楽師の安田登氏の朗読?が本当にすごい!!と感動しました。