読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第8章 研究室の時限爆弾)

「人が経済的な決定をどう下すかを知りたがっている行動経済学者たちも、同じような結論に達している。

正確に言うなら、彼らが知りたいのは、誰がそうした決定を下すか、だ。誰がメルセデス・ベンツではなくトヨタの自動車を買うことや、休暇にタイではなくパリに行くことや、上海の証券取引所で取り扱う金融商品ではなく韓国の国債に投資することを決めるのか?

 

 

 

ほとんどの実験は、こうした決定のどれを取っても、それを下しているような単独の自己が存在しないことを示している。むしろそれらの決定は、異なる、そして対立していることの多い内なる存在どうしの主導権争いの結果なのだ。

 

 

 

或る先験的な実験を行ったのが、二〇〇二年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンだ。カーネマンは、人々に三部から成る実験に参加して貰った。参加者は実験の「短い」部分では、不快で、異端荷を感じるか感じないかという摂氏一四度の水が入った器に手を入れた。そして一分後に、手を出すように言われた。

 

 

「長い」部分では、やはり一四度の水が入った別の器にもう一方の手を入れた。ところが、一分後、温かい水が密かに加えられて水温がわずかに上がり、一五度になった。その三〇秒後、手を器から出すように指示された。

 

 

「短い」部分を先にやった参加者もいれば、「長い」部分から始めた参加者もいた。どちらの場合にも、二つの部分が終わってからきっかり七分後に、三番目の、この実験で最も重要な部分に入った。参加者は最初の二つの部分のどちらかを繰り返さなくてはならないが、どちらを選ぶかは本人次第だと告げられた。

 

 

八割もの参加者が、「長い」部分を繰り返す方を選んだ。そちらのほうが苦痛が少なかったと記憶していたからだ。

この冷水実権派じつに単純だが、それが意味するところは自由主義の世界観の核心を揺るがせる。私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在することを、この実験は暴き出すからだ。(略)

 

 

ところが、経験する自己は何も覚えていない。何一つ物語を語らず、大切な決定を下す時に相談を受けることもめったにない。記憶を検索し、物語を語り、大きな決定を下すのはみな、私たちの中の完全に違う存在、すなわち物語る自己の専売特許だ。

 

 

 

物語る自己は、ガザニガの左脳の解釈者と似ている。たえず過去についてのほら話作りや、将来の計画立案にせっせと励んでいる。(略)物語る自己は、私たちの経験を評価する時にはいつも、経験の持続時間を無視して、「ピーク・エンドの法則」を採用し、ピークの瞬間と最後(エンド)の瞬間だけを思い出し、両者の平均に即して全体の経験を査定する。

 

 

これは私たちの実際的な決定のすべてに多大な影響を及ぼす。(略)

冷水実験のときとちょうど同じで、全体の痛みのレベルは持続時間とは無関係で、ピーク・エンドの法則だけを反映していた。一つの結腸鏡検査は八分続き、最悪の瞬間に患者はレベル8の痛みを、最後の瞬間にはレベル7の痛みを報告した。

 

 

検査の後、この患者は全体の痛みのレベルを7.5とした。別の結腸鏡検査は二四分間続いた。今度も痛みのピークはレベル8だったが、検査の最後の瞬間には、患者が報告した痛みのレベルは1だった。この患者は全体の痛みのレベルをわずか4.5とした。(略)

 

 

では、患者たちは短くて痛い検査と、長くて慎重な検査のどちらを好むのか?この疑問には単一の答えがない。なぜなら、患者たちには少なくとも二つの異なる自己があり、それぞれ関心が違うからだ。(略)

 

 

 

小児科医はこのトリックを十分心得ている。獣医も同じだ。誰らの多くは、クリニックにお菓子がいっぱい入った器を常備しておき、痛い注射や不快な検査をした後に、子供(あるいは犬)に犯しをいくつか与える。物語る自己が医師のもとに行ったことを思い出した時には、最後の楽しい一〇秒間のおかげで、その前の何分にもわたる不安と痛みが帳消しになる。

 

 

進化は小児科医たちよりもはるか昔にこのトリックを発見した。多くの女性が出産のときに経験する耐え難い苦痛を考えると、正気の女性なら度それを味わったら二度と同じ目に遭うことに同意するはずがないと、人は思うかも知れない。

 

 

ところが出産の最後とその後数日間にホルモン系がコルチゾールとベータエンドルフィンを分泌し、これらが痛みを和らげ、安堵感を生み出し、ときにはえも言われぬ喜びさえ引き起こす。そのうえ、赤ん坊に対して募る愛情と、家族や友人、宗教の教義、国家主義的なプロパガンダあの拍手喝采とが相まって、出産をトラウマから好ましい体験に変える。(略)

 

 

私たちの人生における重大な選択(パートナー、キャリア、住まい、休暇などの選択)の大半は、物語る自己が行なう。あなたが二通りの休暇のどちらかを選べるとしゆおう。ヴァージニア州ジェイムズタウンに行き、一六〇七年に北アメリカ大陸本土初のイギリスの定住地が置かれた歴史的な植民地の村を訪れるというのが第一の選択肢。第二の選択肢は、アラスカでトレッキングであろうが、フロリダでの日光浴であろうが、ラスヴェガスでのセックスと薬物とギャンブルの勝手気ままなどんちゃん騒ぎであろうが、何であれ自分にとって最高の夢のバカンスを実現すること。

 

 

ただし、一つ条件がついている。もし夢のバカンスを選んだら、帰りの飛行機に乗り込む直前に、そのバカンスの記憶をそっくり消し去る薬を飲まなければならない。(略)

たいていの人はかつての植民地ジェイムズタウンを選ぶだろう。

 

 

 

なぜなら、ほとんどの人が物語る自己にクレジットカードを握らせるからで、この自己は物語にしか関心がなく、どれほど興奮に満ちた経験であっても、記憶にとどめられないのなら、まったく興味を抱かないからだ。(略)

 

 

 

そのうえ、経験する自己は強力なので、物語る自己が練り上げた計画を台無しにすることがよくある。例えば私は、新年を迎えて、これからダイエットを始めて毎日スポーツジムに通うと決心したとしよう。

このような野心的な計画は物語る自己ならではのものだ。

 

 

だが翌週、ジムに行く時間が来ると、経験する自己が主導権を奪う。私はジムに行く気になれず、ピザを注文してソファに腰を下ろし、テレビをつける。

 

 

とはいえ、私たちのほとんどは、自分を物語る自己と同一視する。私たちが「私」と言う時には、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混とんとしてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。

 

 

 

話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そしてことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。」