読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「家族」という名の孤独

「アルコールやドラッグの依存症(アル中やヤク中)に関連した家族問題のケアにあたるケースワーカであったロビン・ノーウッドは「愛しすぎる女たち」(落合恵子訳、読売新聞社)という本を書いている。

 

愛しすぎる女とは問題のある男性を愛したり、精神的苦痛を覚えるような状況に身を置くことで忙しく過ごし、自分と向かい合うことを避けようとする女性のことである。(略)

 

 

意識を集中させる相手を失ったとたん、彼女たちは実際の麻薬の禁断症状と同じように、吐き気、パニック、不安発作、等々に襲われる。(略)」

 

 

 

「愛しすぎる女たちには、「問題のある男たち」が寄り添う。彼女たちは、やさしく安定した信頼できる男性を退屈と感じてしまうからである。第一、こうした「大人の男」たちは、「養育する喜び」を与えてくれない。愛しすぎる女は自分が成育史の中で受けた親たちからの傷を、成長してからのパートナーとの関係の中で修復しようとするのである。(略)」

 

 

 

「考えてみると共依存者とは私の熟知している日本の妻であり、母である。妻や母の役割を戯画的にまで拡大して演じ、自らの感情や欲求を失った良妻賢母ロボットである。

共依存の病理性への注目はアメリカではじまったが、日本の場合、”普通の妻”、”健全な母”とは、つまり共依存のことにほかならないではないか。(略)」

 

 

 

「私のまわりで夫のアルコール依存に悩む女性たちは皆、この文章にあるような「でも」の罠に閉じ込められ、身動きならなくなっていた。私は、彼女たちに夫の世話焼きの役から降りることを勧め、効果のない努力(夫の酒をやめさせること)を断念して、自分の幸せのためにだけ自分の力と金銭と時間を使うようにと助言し続けた。」

 

 

 

共依存は八〇年代半ばに私がとりあえず採用した訳であるので、不適切との指摘があれば改めようと思っているうちに時間がたった。

共依存症と”症”の字をいれて使うことが多いのは、アルコール依存とアルコール依存症の関係に同じである。依存(ディペンデンス)はヨーロッパの一部やアメリカでは、それ自体病気なのかもしれないが、少なくとも日本ではそうではない。しかし、これが高じれば心身の不都合を生じるので、その段階を症(シンドローム)をつけて区分しようとしているわけである。」

 

 

「むしろ、彼女たちの多くはスキのない身なりをして颯爽としている。学歴なども普通より高く、教師、看護婦、薬剤師、理髪師などのきちんとした仕事を経験していたり、今もそうした職についてりうという人が多い。そして、自分では世間より一歩進んだ「自立した女性」のように感じている。

 

 

一人の男を抱っこしたり、おんぶしたりしているわけだから、並みの女性よりも能力は高いことが多いのである。ただ、以下に述べるように感情鈍麻をきたしているから、表情の乏しい、能面のような顔をしている。

自分の欲求や感情を認識することができず、したがって表現しようともしないから、自分自身のことがしゃべれない。口をついて出てくるのは、夫のこと、子どものことばかりである。」

 

 

「私「セックスと夫婦関係の維持とは別のことでしょ。家はもともと子育てのためにあるんで、夫婦のセックスのためにあるんじゃない。子どもが育ったところで夫婦は再契約するか、別れるか決めるべきなんですよ」」

 

 

「要するに、一見成熟した異性愛に見えるものが、実は乳児的な”抱擁される欲求”のスリカエであったと述べられているのである。

この欲求のスリカエというのが、嗜癖というものの一つの特徴であると私は考えている。スリカエられた欲求は、それが満たされても真の充足をもたらさない。それどころか、かえって渇望をひどくするので、スリカエ行動は昂進する。

 

 

セックス嗜癖が、実は「抱っこされる安心感」という欲求のスリカエであったりすると、セックスそのものは真の充足をもたらさず、かえって次のセックスへの欲求を昂進させてしまうことになる。(略)」