読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(統帥権・戦費・実力者)

「昼食の時間が来た。(略)だがその日には、いつもと違った一人の新顔が見えた。(略)
丸い元凶、丸刈りの頭、ぐっとひいた顎、ちょっと突き出た、つっかかるような口許、体中にみなぎる一種の緊張感_「彼だな」わたしはすぐに気づいた。それは第十四方面軍参謀長武藤章中将その人であった。

 

そして彼の姿と同時に、反射的に四つの言葉がよみがえってきた。「統帥権、臨時軍事費、軍の実力者、軍の名誉(日本の名誉ではない)」。軍部ファシズムをその実施面で支えたものは何かと問われれば、私はこの四つをあげる。そして私にとってこの四つを一身に具えた体現者は彼であった。


私は師団砲兵隊本部の一少尉に過ぎない。一少尉が、方面軍参謀長などという雲の上の将官を知るわけはない。その名も顔も知らないのが普通である。従って彼が現れるまで、この収容所でその顔と名を知っている将官は、師団長のM中将だけであった。だが武藤章の名と顔は、まるで脳髄に焼き付けられたように、鮮明に私の中に残っていた。そしてそれは今も残っている。なぜか?それには理由があった。

 

一体、彼が体現しているかに見える「統帥権」とは、何なのか?
人が一つの言葉に余り痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えて来る。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、平静にはそれを口に出来なかった。(略)

 

戦前の日本は、司法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立は明治憲法第一一条にも規定されていた。従って政府(行政権)は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いた_というのが私の常識であり、また戦後に一般化した常識である。

 

「執拗に統帥権の独立を主張して横暴をきわめた軍」は私にとって余りに身近な存在であったため、軍部意外に統帥権の独立を主張した人間がいようなどとは、夢想だにできなかった。

 


従ってある機会に、明治の先覚者、民権派人権派といわれた人々、たとえば福沢諭吉や、植木枝盛が、表現は違うが「統帥権の独立」を主張していることを知った時、私は強いショックをうけ、「ブルータス汝もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽蔑に転じ、その人たちまで裏切り者のように見えた。
従って、その人たちがなぜそう主張したのかさえ、調べる気にならなかった。(略)

 


この先覚者たちにとっては、民選議院の設立、憲政へと進むにあたり、まずこの藩閥・軍事的政権の軍事力を”封じ込める”必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する能力を政府から奪うこと。これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも無理はない。

 

尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころの明治の大官たちは、「われわれは馬上天下をとったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。(略)

 

これに対して当時の進歩的主張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いてわれわれを弾圧することは、聖権(天皇の大権)の千犯である」となったことも不思議ではない。

 

また、この先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入してくることであった。例えば板垣自由党を第一師団が支持し、大隈改進党を第二師団が支持するというようなことになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。」

 

「だが、規定はあくまでも規定であり、その発想の基本をわすれれば、この考え方には、いくつかの落とし穴があり、逆用も可能であった。その一つはまずその人たちが、日本軍を「治安軍」と考えても「野戦軍」とは考えなかった点である。


これは無理も無いことで、鎮台条例が廃止され、鎮台を師団に改編したのが命じ二十一年である。そして日清戦争の時でさえ、まだ、多くの日本人は帝国陸軍が外国と戦争できる野戦軍であることに対して、半信半疑であった。(略)

 

だがその後の日本軍の「軍事力成長率」は、戦後の経済成長率同様に恐怖すべき速度であり、いつしか軍事大国になっていた。そしてその速度は軍人のみならず多くの人に日本の軍事力成長は無限回で、「二十世紀は日本軍の成規」的な錯覚を抱かせた。

 


従ってこの状態のある時期には、日本の国土に、二国が併存していたと考えた方が、その実態が分かりやすい。一つは日本一般人国、もう一つは日本軍人国である。そしてこの一般人国と軍人国は、「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治に拘らず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を約している二国、そしてその共同君主が天皇という形をとっていた。

 

帝国陸軍とは、日本国行政政府の支配下になかったという意味で、天皇の軍隊であっても、日本国「政府軍」ではないという形態へといつしか進んで行った。この点、諸外国の国民軍(ナショナル・アーミイ)とは非常に性格が違っており、従って国民軍とも国防軍とも言い難い。

 

だが皇軍という呼称は軍隊内にはなく、大日本帝国陸軍の略称は「国軍」であった。そしてその内容は「日本軍人国軍」の趣があった。」

 

〇この太文字の部分の説明はとても分かりやすく、納得できます。
日本という国の中に、「一般人国」と「軍人国」があり、相互に内政不干渉だった。

「一般人国の人間は、軍隊を治安軍と考えていたのに、軍事力成長率は恐怖すべき速度で、いつしか軍事大国になっていた」という行を読んで、今の日本の状態ととても似ている雰囲気を感じます。

 

 

統帥権の独立は、「ある時代の最も進歩的な考え方行き方は次の時代の始末に負えぬ手枷足枷となる」というケースの典型的なものであろう。そして、統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下におこうとした。

 

そして満州事変から太平洋戦争に進む道程を仔細に調べて行くと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。(略)

 


これでは、日本も、満州同様、帝国陸軍の占領地域内の一国だということになってしまう。事実、満州占領は、当時の一部の軍人には、内地占領のための軍事基地の設定であった。

 

従って帝国陸軍とは、一般国民から見れば、何を考えているかわからない。まことに不気味な「一国」、自分の手でどうにもできぬ横暴な他国に見えた。


そしてその国に強制移住させられれば、今までの常識も倫理も生活感も全く通用せず、何をされるかわからないという不安を、その心底に持たぬ者はいなかった。
そしてその不安は、戦後、収容所で、米軍に収容されるとき不安を感じたか感じなかったか、という話になった時、ある人が、「不安を感じたなぁ、だけど入営の前夜ほどではなかったな」と言った時、思わず皆が頷くほどであった。(略)

 

一方、軍の方も、軍隊以外を「地方」(陸軍)または「娑婆」(海軍)と呼び、それは、軍のために活用すべき従属者以外の何物でもなかった。従って、帝国陸軍の作戦には、国防軍として住民保護が至上の義務という見地は皆無、また戦闘員・非戦闘員の区別と非戦闘員の権利を、自国民に対してさえ実質的には認めなかった。

 

 

沖縄の人々の消し難い不信の背後には、「軍が住民を使い棄てにした」と受け取られるような、以上の考え方に基づく諸事実がある。だが、本土決戦が行われれば事情は全く同じであったろう。(略)

 

昭和二十二年に内地へ帰って、人々から米軍の印象を聞かされた時の感じをそのままのべれば、「旧占領軍の天皇の軍隊が去って、新占領軍のマッカーサの軍隊が来たが、この方が天皇の軍隊より話がわかる」と言った感じであった。

 

”史上まれにみる占領政策の成功”といわれるものの背後には、天皇の軍隊による長い長い”被占領期間”があり、国民が、被占領状態になれていたという事実があったであろう。


なぜそのような被占領状態におかれたか?政府も国民も、本当に「天皇の軍隊」を統制できず、軍だけが勝手に暴走したのであろうか。そうは言えない。戦争を行うには戦費が、軍を維持するには軍事費が不可欠である。従って、議会が戦費いわゆる臨軍費(臨時軍事費)を否決すれば、軍は動けない。従って、国民が軍を支配するか軍が国民を支配するかは、「戦費の支配権」をどちらが握るかにあった。(略)

 

「非戦論」のゆえに内村鑑三堺利彦とともに「万朝報」を辞した幸徳秋水は、「平民新聞」に「嗚呼増税」という一文を発表している。(略)

 

ところが昭和になると、主戦・非戦両派とも、戦費という最も重要な問題に無関心なのである。ここに見える大きな差は、明治の日本は貧乏国であり、明治人は軍人といえども、明確に自国の貧乏を意識していたのに対して、昭和人には、「世界三大列強の一つ」といった奇妙な「大国的錯覚」があった。従って国民は戦費という問題に不思議に関心が向かなかった。


ベトナム戦争は結局、議会の戦費打ち切りで終わった。だが日華事変では、軍が憂慮するほど厭戦気分が国内に充満しながら、臨時軍事費を打ち切ることによって戦争を終わらそうという発想はどこにもなかった。一体この戦費は、だれの責任で支出したのか。その人間こそ最大の戦争責任者の一人だが、「戦費支出の戦争責任」は未だに究明されていない。

 

国民は「勝った!勝った!」で目をくらまされていたが、軍は、戦費が自分たちの死命を制することを知っていた。(略)
私はその瞬間、目から鱗が落ち、軍が何を恐れ、そのために何をやったかが、はじめてはっきりと見えたのである。(略)


軍人が、何かがあれば「軍民離間は利敵行為」といって目を怒らし、陸海軍両省がすでに昭和八年に「軍部批判は軍民離間の行動」と声明した事自体、軍と民が当時すでに離間していたことを自ら認めたに過ぎない。

 

ではもしこの批判が徐々に議会に反映し、議会が臨時費(戦費)を否決したらどうなる。軍の傀儡政府は議会を解散するであろうが、総選挙・新議会となって、その新議会がまた臨軍費を否決したらどうなる。終戦内閣か?もう一度二・二六か?


これが倨傲な態度で国民を睥睨していた彼らが、常にその心底に抱いていながら、絶対口にしなかった恐怖であった。(略)

 

だが、私がそれについて聞いた時、彼らの恐怖は既に去っていた。彼らはその事態にいたらせぬため、あらゆる手段を使った。従ってその時には、骨を抜かれた議会、すなわち翼賛議会は、すでに出来ていたのである。」

〇今の私たちの国の状況とあまりにも重なる部分が多くて、恐ろしくなります。
安倍政権はなりふり構わず、あらゆる手段を使い骨抜きの議会、翼賛議会を造り上げました。


自民党だけでは数が足りなくてここまでのことは出来ないはず。何故公明党自民党を支えているのか…。「善良なる」創価学会の人々の顔を思い浮べながら、なぜこうなるのか…と悲しくなります。

 

 

 

「人間誰でも心底では一縷の希望的観測を抱いている。自分が戦場にやられる前に戦争が終わってくれないだろうか、という淡い願望をどこかに持っていない人間はいなかった。もちろん私もその一人である。だがこのとき、「もうダメだ。行くところまで行くであろう。生きて二たび一般社会に戻ることは二度とあるまい」と、私は思った。


〇 今、まさに私も同じように感じています。あの「ジャパン・クライシス」の予想が外れ、何事も起こらず、全てなんとかなり、次回の参院選では、安倍自民が惨敗して、もっとマシな、まともな人たちが、堅実に日本を立て直す…そんな奇蹟が起らないかと。


日本中の多くの人が「自分が戦場にやられる前に戦争が終わること」を願いながら、なぜ、戦争は始まってしまったのか。なぜいつまでも何の意味もない「闘いのポーズ」を多くの人命を賭けてまで続ける必要があったのか。

 

「私にそのことを語ったのは、S中尉という、士官学校出の若い中隊長である。前述のように、私は初年兵のとき保護兵で、一時、特訓班に入れられ、その班がこの中隊にあった。従って私はしばらくこの中隊長の下にいた。そのため、原隊に帰った時、私だけその中隊へ帰隊の挨拶に行った時の出来事であった。

 

彼は非常にまじめな、一人間としては心から敬愛できる人であり、その彼は、かつて自分が教育した一保護兵が見習士官になったことを、わが事のように喜んでくれた。そのために口が軽くなったのか、あるいは喜びの余り私を同僚のごとく扱ってしまったのか、それはわからない。彼は不意に政局や戦局の話をはじめ、事態の重大性を憂慮し、このようになったのは、「議会が悪いからだ」と言った。

 

彼は議員を罵倒し、軍需太りの利権屋を国賊とののしり、戦死者の屍肉を食う人非人どもと言った。まじめな下級将校のこの憤慨には一理ある。安岡章太郎氏も言われたが、「軍人が戦時利得者でなかった事は事実」、戦時利得者は大小無数の”小佐野賢治型”人物であり、将校、特に下級将校の実態はそれとは全く別で、インフレに最も弱い下級サラリーマンのそれにすぎなかった。


従ってその言葉には、公憤に仮託した私憤も混じっていたであろうが、それが臨軍費に及んでた時、私は思わず彼の顔を見なおした。彼は言った。

 

「いかに精鋭の軍隊といえども、逐次戦闘加入を強いられれば必ず敗北する。これは戦術の原則である。ナチス・ドイツ軍の勝利を見よ。実にみごとな、一糸乱れぬ統一党加入ではないか。なぜわれわれにこれができないか。

 

毎年、毎年、臨軍費の予算の範囲内でしか作戦ができず、これ以上は”予算がないから戦争はできません”という状態を強いられてきたのだ。役人は責任のがれに”予算がない……”と言えばそれですむかもしれぬ。だが、一国の安危は予算がないでは、すまされぬのだ。


それなのに無敵皇軍は常に逐次戦闘加入を強いられ、そのため実に無理な作戦を強いられながら全ては中途半端、トドメを刺すことができない。日華事変が片づかなかったのは軍の責任ではない。議会の責任だ。議会が悪いのだ」。

 

私がいかに鈍感でも、こう言われれば、何が要点かはわかる。私は思わず胸の内で呟いた。「そうか、そうだったのか。戦費を打ち切れば、戦争を終わらすことが出来たのか……」。

 

同時に、学生時代からの、軍の国民への直接宣伝、新聞ラジオ雑誌等の戦意高揚記事、配属将校の演説等々が、走馬灯のように頭の中を走った。「そうか。彼らはこの点を国民の目から隠すため、あんなことを言い続けて来たのか……」。「幸い武藤前軍務局長が……」と、私の胸の内も知らず彼は言葉を続ける。

 

そしてこの名をに耳にしたとたん、一枚の新聞の紙面が脳裏に浮かんだ。(略)
それには、武藤軍務局長の大きな写真が載り、「政党解散は軍の方針」だという(表現は少し違うと思うが)彼の言葉が載っていた。


いま、食堂の方へ歩いて来るのは、その新聞写真とそっくりの彼であった。(略)
彼が何をやったのか、軍の心底の恐怖を一掃すべく、いかなる秘策を練り、だれを動かし、どのようにそれを実現して行ったか。その真相は永久にわからないであろう。

 

帝国陸軍におかるさまざまの重要な決定は、日本における多くの重要な決定と同様、常にわからない所で行われていた。

 

至るところに、実力者という名の不思議な人物がいた。それは、いまもいるであろう。その人は、組織上では何の力ももたず、従って何の責任もない地位にいながら、実質的にはすべてを行い得る人である。従って軍にもその種の人がいて、少しも不思議ではなかった。」

 

 

 

「数年前、戦前長いあいだ陸軍省づめをしていた老記者に、この不思議な威圧感の話をしたところ、その人は深くうなずきながらさまざまな「武藤伝説」を語ってくれた。

一佐官だった彼に威圧されて将官があわてて敬礼してしまったこと。彼の上級者が、私を退役(くび)にするのはこの男だろうと言ったこと等々から、一にらみで雀が落ちたとか、彼が歩けば自然に人が道をあけたとかいった他愛のないものまで_そのすべては、彼が、そのとき私が受けた印象通りの人物であることを物語っていた。


そして、本当に意思決定を行うのは常に、こういうタイプの人物だったのである。
帝国陸軍では、本当の意思決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。というのは、その決定が「命令」という形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、わからないからである。

 


そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎ分けることが出来たし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。(略)

 

しかしS中尉は、かつての軍務局長であった彼が、議会の実質的無力化を決断しかつ実行に移した実力者であることを、知っていたのであろう。

 


一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上巻が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。

 

戦後、帝国陸軍とは、「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。

 

このことは日本軍の「命令」なるものの実態がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである。

 

だがその細部すら「上依存下」であって、参謀長は参謀に、参謀は参謀部員に指示させるという形になっている。これがまた「私物命令」が横行する原因でもあった。こういう状態だから、一中佐の軍務家長が「代読者」を通じて全陸軍を、ひいては全日本国を支配し得ても、それは不思議ではない。

 


ではこの実力とは何なのか。それは軍という組織とともに消滅するものなのか、それとも軍が解体しても残るものなのか。

 

その疑問を感じさせたのは奇妙な噂を聞いたからである。それは武藤参謀長はA級戦犯として内地に送られていたが、このたび、山下裁判の証人として比島に召喚された。そして”未決(一コン)で、戦犯容疑者を集めて「軍の名誉」のために恐るべき”命令”を下したという噂である。
彼の顔が近づくにつれて、私の関心は、むしろその方が重くなっていった。」