読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織の名誉と信義)

「武藤参謀長の顔を見て、すぐ「彼だな」といった一種の緊張を感じたもう一つの理由は、全焼で「軍の名誉」と記した、その名誉に関するある噂であった。ま
前にも記したようにこのカランバン収容所群の中には、われわれが「未決」とか「一コン」とか読んでいた収容所があった。正規の名称は「第一収容所(コンパウンド・ナンバー・ワン)」であり、私がジャングルを出た頃には、一時的仮収容所であったが、その後、性格をかえ、あらゆる意味の「未決定社の収容所」になっていた。(略)

 

武藤参謀長はここで、戦犯関係の”未決”の人を集めて、次のような”命令”を下したといわれていた。「皆は特攻隊員となり、裁判による被害者を最小限にとどめよ。日本陸軍および日本の名誉のために、現地人・捕虜の殺害命令を下したと言ってはならぬ……」

 

これは「比島戦とその戦争裁判(坂邦康著)からの引用だが、当時の収容所内の噂は、表現に多少の差はあっても、要旨は同じであった。いま冷静にこの言葉を読めば、これは、日本のあらゆる組織の原則であり、彼はそれを単に直截に端的に言い切っているにすぎない。

 

今でも日本のさまざまの”戦犯裁判”は結局この形である。商社が”戦犯”として告発され「モチ米ヤミ取引」で丸紅が法廷に立たされる。しかし、「会社がそういうことを命じたと言ってはならぬ」の原則で、裁かれているのは直接に手を下した責任者の”大隊長”クラス、官庁で汚職が摘発されれば、同じ原則で、飛び降り自殺は”小隊長”クラス、田中金脈がいかに叩かれても法廷に立つのは”中隊長代理”、選挙違反で下獄するのは”軍曹”クラスに決まっている。

 

よほどのヘマをしない限り、逃れ得ぬシッポをつかまれない限り、山梨半造も田中角栄も出て来ない。前者は、収賄で法廷に立った陸軍大将・前朝鮮総督である。一体これらの実態の基礎になっている考え方は何なのか。それは彼が言った「組織の名誉」という考え方であろう。


名誉は組織のものなのか個人のものなのか?帝国陸軍には、そういう問題意識すらなく「組織の名誉」以外に名誉はなかった。生きて虜囚の辱めをうけた者を、その個人の名誉を救うため自決させて”名誉の戦死”として扱うことは一見”個人の名誉”のためと見えるが、実は、「捕虜なし」という組織の名誉の絶対化が個人を抹殺しているにすぎない。

 

これが帝国陸軍だったのだ。そして自転する。”組織の名誉”という考え方が日本を破滅させたのだ」。私はまずそう感じた。

 


師団の名誉のため、軍旗(連隊)の名誉のため、大隊の名誉のため、それに差しさわりのある事実は死んでも口にしない、それを口にするぐらいなら黙って死ぬ、それが帝国陸軍の一貫した倫理観であった。これはおそらく徳川時代の”一家一門の誉れ””一家の恥は外に出さない”に由来する考え方であろう。

 


この倫理観は、戦後三十年、いまなお続いているほど強い。中国戦線で、中国ゲリラのため次々に砲を馬ごと盗まれたという事件は確実にあった。だがそれを私に書き送ってきたその人でさえ「連隊の名誉のため、何部隊かは絶対に言えぬ」と記した上で、匿名であった。

 

だがこの点では私も同じであったと告白せざるを得ない。テレビで丸紅に大久保専務青を見た時、かつて似たような立場に立たされた自分のことを思った。

 

十九年の十一月ごろ、私は司令部に呼ばれ、詰問責めにあった。それは国会の委員会のような、なまやさしい場ではない。ガソリンの二重受給の件、自走砲用燃料をトラックに流用して食糧集めをやっているという、どこかの部隊からの”密告”に関する件の調査である。

 

米軍が捨てていった自走砲は、燃料を食うバケモノのような存在なので、一キロあたり一・五リッターで申請を出し、それが通っていた。(略)
こういう点では、「動かざる自走砲」は「故障のダンプ」同様、荷車より扱いにくい存在になってしまう。この移動と、そのためのエンジンの調整と、予備陣地への移動訓練のためわずかに燃料が支給された。だが実際には、この燃料は食糧集めに使われていた。

 


爆撃がひどくなると、貨物廠や兵器廠は、消失するより鳥に来た部隊に渡してしまうという態度になり、当然それだけでも、機動力があって人員の少ない部隊は、それのない部隊よりはるかに給与がよくなり、また豊富なダイナマイトの受領で陣地構築の労働量も軽減できた。

 

さらに受領した多量の塩との交換で、民間からの物資や人夫の調達でもはるかに有利になり、こうなると、あらゆる面での他部隊との差は歴然として来て否応なく目につき、羨望とともに「あやしいぞ」といった非難めいた言葉が、私の耳にも入って来た。それだけでも問題なのに、実は、司令部と燃料廠との連絡不備を逆用して、ガソリンの二重どりをやっていたのである。

 


私は司令部の爆薬・燃料係のT中尉に呼ばれたが、結局、「知りません」「存じません」「絶対にありません」でつっぱねた。私にそれが出来たのは、まず第一に、すべては部隊のため「兵士の健康と休養すなわち”兵力”維持のため」という大義名分があり、私個人は何一つ「私せず」、万分の一の役得さえ得ていない、従って良心のとがめは一切ないという気持ちである。

 

第二は、一粒の米さえ送ってくれず、「現地自活の指示」という紙っぺらだけを送って来る無責任な大本営が悪いのであって、この悪い大本営から部隊を守っているのだといった一種の「義賊意識」であろう。いわば「政府が悪いから、こうするのはあたりまえだ」という意識である。
だが、私自身がそれを横流しして利得を得ていたなら、こうはつっぱねられなかったであろう。」


〇「よほどのヘマをしない限り、逃れ得ぬシッポをつかまれない限り、山梨半造も田中角栄も出て来ない。」とあります。でも、安倍総理はその「ヘマ」をしつづけ「シッポ」を掴まれ、もうどこから見ても言い逃れが出来ない状態にあります。それでも、平然と総理の座に座り続けています。これは、ドロボウが現行犯で捕まって言い逃れが出来ないのに、「安倍晋三」だから許される…というのが、私たちの国のルールなのだ、と国中にふれ回ったに等しいことです。


また、山本氏は、少しの「私」もなかったから丸紅の大久保専務のように、「知りません」「存じません」を繰り返したとあります。では、あの財務省の佐川氏は、どうだったのでしょう。
私は、ここで、この少し前に書かれていた、「日本は「帝国陸軍」によって占領されていた」という山本氏の説にを思い出しました。
佐川氏の中にある「日本」は自民党と官僚なのかもしれません。彼はその「日本」の為に、良心の痛みを感ずることなく、平然と偽証したのでしょう。

私たちは、「自民党と官僚」に占領されているかのようだ、と感じました。
つまり、それほどに「今の自民党と官僚は「帝国陸軍」のようだ」と
言いたいのです。

 

「第三が部隊の名誉、特に、朝夕顔を合わせる部隊長の信頼を裏切りたくないという気持ちである。軍隊の表も裏も知り尽していた部隊長が、見て見ぬ振りをしているぐらいのことは私でもわかる。

 

そして「山本なら、絶対に口を割らん」と思っていることも明らかである。この暗黙の信義は破り得ない_第一、何もかもしゃべったら、部隊に帰って、部隊長のみならず全員に「合わす顔」がなくなるではないか。

 

それを思えば、撲られようが蹴られようが処罰されようが「知らぬ、存ぜぬ」で押し通すのが最も楽、何もかも行った時の、処罰でない”処罰”の方がよっぽど恐ろしい。第一、そんなことができるわけはない、部隊長以下グルになって何かをごまかしたとなっては”部隊の名誉”にかかわる。

 

動かぬ証拠をつきつけられれば「独断でやりました。部隊長は何も知っておられません」が精一杯ではないか。

 

第四が、ほかの部隊だってみんな何かをやってるではないか。なぜオレにだけこうウルサクとっつくのだ。問題にするのなら公平に問題にしてくれ、私の立場に立たされれば、だれだってこうせざるをえないではないか、と言った気持ちである。

 


おそらくは、少々”やりすぎ”で、黙認の範囲を超えていたということなのだろう。そしてだれよりも困っていたのは、ドラム缶の員数が合わなくなったT中尉だったのである。ウルサイ参謀が控えていたから、柄を描くのが唯一の趣味であった彼とて、この問題はウヤムヤに出来なかったのだろうと思う。彼には収容所であった。すまなかったという気持ちと、戦争は終わったのだからもう”時効”だろうという気持ちから、私は彼にすべてのカラクリを白状した。

 

彼はこのためよほどひどい目に会ったらしく、その瞬間血相をかえ、一瞬にして一年前にもどり「アレはやはりキサマかッ」と叫ぶと、私に撲りかかりそうになった。だが次の瞬間、ふっと我に帰ったらしく、沈黙して気分を沈めた後に行った。「砲兵隊の兵器係のヤツラは、全く一騎当千だったよ。

 

司令部に来りゃ何かカッサラって行ったなあ。しかし、あなたの部下のS軍曹もO伍長も、私心のない、からっとした、いい男だった……みんな死んだなあ」

 

この状態は、昔も今も変わっていないであろう。私は「ロッキード事件における丸紅」を見て、その組織内の原則は結局同じなのだなと思わざるを得なかった。また丸紅が特別な例外的存在とも思わなかった。


今ですらこの通り、まして戦時中は、ひとたび”名誉”となると、だれも事実を言わない、死んでも言わぬ。言わないのがあたりまえだが、しかし、言わなければ司令部は実態が把握できず判断を誤る。だが、たとえ判断を誤らしても”名誉”に関わることは言わない。そしてそのため上級司令部が失態をおかせば、ここでもまた”名誉”のため事実は言わぬ。


それがつもりつもって大本営に集約されて発表されれば、悪名高い大本営発表になる。この発表のうちどこまでが前記の”集約”、どこからが”作為”か、これは今ではわからなくなった問題だが、彼らが真相を把握したうえで、意識的・計画的に国民を欺くほどがの明晰さを持ち得なかったことは事実であろう。」


〇 政治家の中の一部の人々は、従軍慰安婦は無かった、南京大虐殺は無かった、と繰り返し繰り返し歴史を修正しようとしています。なんとか不名誉な事実はなかった事にしたいのでしょう。「不名誉」と感じるなら、そのようなことは最初からしない、という選択肢はないのでしょうか。

平然と不名誉なことをして、それを隠してなかったことにしようとする、というのは、単に「不名誉なことをする」という以上に恥ずかしいことだという感覚はないのでしょうか。

恥ずかしくて見ていられない。

 

 

「武藤参謀長の言葉は、一言でいえばこの原則「事実を口にせず、戦犯法廷の裁判長の判断を狂わせた上で死に、それによって組織の名誉を守れ」ということである。そして、この裁判長を上級指揮官とすれば、前記のように、それがそのまま帝国陸軍の実情であった。

 

”名誉”は正確な情報を伝達させず、指揮官の実体把握を妨げ、その判断を狂わせ、最終的には一国を破滅させた。だが破滅してもこの原則は変わらず、同じ原則で戦犯裁判に対処する。

 

このことは結局、敗戦もこれを清算せず、戦後にそのまま引き継がれた証拠であろう。従って公害企業などの例を見るまでもなく、また、前記の例だけでなく、この実態は戦後も変化がないし、これを批判する組織もその内部は結局は同じように思われる。

 

個人の名誉という考え方がなく、組織の名誉が絶対化すれば、常に、同じことの繰り返しとなるであろう。われわれはそれを覚悟しなければなるまい。

 

だが、他の多くの人が「武藤訓示」と言われるこの”命令”に強い抵抗を感じていたのは、彼が参謀長だったという事実である。統帥権すなわち命令権という点からいえば、参謀はスタッフであり、従ってその長ではあっても、命令を下す権限はない。ところがないはずの権限を彼らは実質的にもっていた。「私物命令」はその表れの一つにすぎない。

 

しかし米軍はそれを知らないから名目的責任者だけが追及をうける。そこにまたこの”命令”だから抵抗を感じざるを得ない。それは「米軍は日本軍の参謀なるものの実態を知らなさすぎる」と、当時の戦犯容疑者収容所のほとんどすべての人が口にした言葉にも表れている。

 


実力者参謀が本当の「発令者」で司令官はその命令文の「代読者」にすぎぬ、一体なぜこういう状態になったのか。収容所でもそれが論じられたが、多くの人は、日露戦争の伝説的な「大山・児玉」の名コンビの模倣が、これを生み出したと言った。

 

確かに大山型を気取る司令官は多かった。だがその実態は全く別であった。
大山・児玉コンビは、児玉参謀長の方が大山軍司令官に完全に心理的に依存しており、そしてこの依存によって得た心のゆとりにより、戦場のすごいストレスを排除し、自由な発想で独創的な作戦プランを練り得た。(略)


「負け戰さになれば、わしが全責任をもって処理するから、安心して思う存分にやれ」という形で、児玉参謀長に心のゆとりを与え、大胆な独創的な発想を可能にしたわけである。(略)

 

前述した小松さんが「慮人日記」で記した例、女を山に連れ込む参謀に兵団長が一言も言えないという例、こういう兵団では、兵団長とは文字通りの「代読者」、横暴をきわめた指揮官は実は参謀なのである。従ってその「訓示」「指示」「指導」は結局命令に等しい。だが参謀は、名目的には指揮官ではないから一切責任は問われない。(略)

 

閣下たちは近づいて来た。私はのろのろと椅子から立った。武藤参謀長の姿と「軍の名誉のため黙って死ね」といった彼の「訓示」とは、私に、気後れを感じさせていた。砲の遺棄やら抗命やら、そういった事件のため終戦後に自決させられた将校の話などが、頭の中をかすめた。

 

武藤参謀長と私とは、たとえ帝国陸軍が厳存していても、指揮権の上では無関係である。とはいえ、師団長のM閣下はあきらかに「代読者」にすぎず、従ってどんな心理的影響を彼らか受けるかは、予測がつかない。

 

確かに戦争は終わった。帝国陸軍は壊滅した。しかし少なくとも当時の私の常識では、破産の後には清算があるはずであった。私は局外者でも傍観者でもない。大日本帝国陸軍の一少尉である。従って、要求されれば、少なくとも”清算人”_それがだれかわからぬにせよ_には、すべてを報告する義務があると思っていた。そして、その要求がないとは信じられないが_その要求に応じた場合の状況は、皆目、見当がつかない。それが気後れの原因であった。(略)

 

席に着くと同時に、四方八方から、私めがけて質問がとんできた。何やら私は、閣下たちの間で話題になっているらしかった。(略)

 

しかしその質問は、本気の質問ではなかった。一同の関心は明らかに、中央よりやや左に座っている武藤参謀長であった。(略)

 

食卓には不思議な秩序が支配していた。それは軍隊の階級順先任順秩序でもなく、命令系統でもなく、「心理的依存に基づくトマリ木の秩序」とでも言うべき感じの秩序であった。

 

「なるほど、これが実力者というものか、一体なぜ、彼は、このような支配力をもちうるのであろうか」。私は、終戦前と全く変わらぬ態度で、意外に詳しくかつ的確に私に今の仕事の内容を聞き出した武藤参謀長を見ながら、そして、全く異質とはいえ、同じようにおそらく戦前と変わらぬ落ち着いた態度であった阿部さんを連想し、この奇妙な共通点に驚きながら、「実力者」について考えていた。

 

一口に心理的依存といっても、その対象は必ずしも同じではない。戦局が悪化し、師団長クラスがノイローゼになると、たいていは、大言壮語して一方的に言いまくり、罵詈讒謗をあびせて暴力を振い、何やら”超能力的”雰囲気を振りまく詐欺師的人物に依存してしまう。

 

M閣下もそうだったが、これは軍人だけでなく、会社が倒産する時も同じ。また出版社は倒産しそうになると、必ずこういうタイプの著者に言いまくられてその人の原稿を掲載したr、本にしたりするから面白い。

 

こういうとき、OL的立場にある者には、かえって、その詐欺師的人物の実態がよくわかるので、本人以外は、ほとんどみながみな「なぜあんな人物に……」と不思議がるのである。(略)

 

だが目の前にいる武藤参謀長は、どう見ても、今まで見慣れた、ありきたりのそのようなタイプではなかった。むしろ逆のような気がした。彼の持っていた異常な実力の背後にあるものは、そんなまやかしとは全く違う「生きながら死者の特権をもつ」という、帝国陸軍の基本的な姿勢そのものであり、それをそのまま持ち続けていたからであろう。

 

死者の籍に入って責任を免除され、そのうえ死者の特権を要求するなら、それは前に述べた将官たちと同じである。だがこういう「生ぐさ出家」的な生き方を生み出した考え方の基本は、むしろその逆だったのであり、その世界では、本気でそれを信じ、それで自己を規定した人間は、階級も組織も越えて、あらゆる意味の実力を獲得しうるのであった。その点で彼は、文字通りに本物の、帝国陸軍の体現者に見えた。」

 

「武藤参謀長の”未決”の訓示には「軍の名誉のため、ワシもそうやって黙って処刑されるから……」という前提があったはずである。(略)従って一切を無視しうる。それは本当に無視しているのであって、無視しているふりをしているのではない。

 

これがどれだけの力を持ちうるかは、少なくとも武器を手にした経験のある人間には、説明不要のはずである。それは暗殺者やハイジャッカーの力にも似た、絶対的な力である。

 

暗殺者は、暗殺の瞬間には「それを殺した」という意味で、独裁者以上の権力を持つ。そして、その場で殺されれば、その瞬間に、地上のあらゆる権力は、もはや彼にふれることは出来ぬという意味で、これはまた絶対の力をもちうる。

 

軍隊でこの関係が明確に出てくるのは、上官射殺のときである。その瞬間、絶対的な権力をふるったものが、彼の下に立つ。そしてその者がその場で射殺されれば、両者は平等に死者となる。死者には戦場も階級も組織もない。

 

生者はこれに影響力を行使し得ない。従って、この位置に、常に、明確に自らを置いている者は、超法規的に一切を支配しうる。一言で言えば、これは「知的テロ」の哲学であり、死の威力による生者支配である。

 

帝国陸軍は、「陛下のために死ぬ」こと、すなわち「生きながら自らを使者と規定する」ことにより、乗機の「死者の特権」を手に入れ、それによって生者を絶対的に支配し得た集団であった。

 

言うまでもなくそれはタテマエであり、実態は「生きながら死者の籍に入って責任を免除され、かつ死者の特権は手に入れる」か「入れようとした」者が多かったであろう。

 

戦後は、はっきりとそれを露呈させた。それが、戦争直後の、一般人の軍人に対する「あんなことを言って人を死地に起き撃ったくせに、結局自分だけはオメオメと生き延びて……」といった徹底的な軽侮の原因であったろう。(略)

 

私は武藤参謀長を眺めた。そこには阿部展也氏と全く違う位置に立ちながら、同じように独立している一人の人間がいた。(略)ただし阿部さんは自らの世界をもって行き、そこにすわって食事をしているのはその逆、生の世界なき”生ける死者”であった。そして死者にとっての唯一の関心事が、地上に残していく名誉であり、その…、彼の言葉もまた不思議ではない。

 

軍部ファシズムの四本柱「統帥権・臨軍費・実力者・組織の名誉」の底にあったものは何か。それは「死の哲学」であり、帝国陸軍とは、生きながら「みづくかばね、くさむすかばね」となって生者を支配する世界であった。それは言論の支配でなく、死の沈黙の支配であり、従って「言葉なし」である。(略)

 


帝国陸軍の暗い支配力の背後にあったものは、この「死の支配力」であった。それは集団自殺の組織にも似て、それに組み込まれた者が、その中心にあって、すでに死者の位置に自らを置いている者の支配から逃れられない状態に、よく似た状態といえる。

 

それは、一億玉砕というスローガンに表れ、住民七千を強制的に道連れにしたに等しいマニラ防衛隊二万の最後に現実に表れ、沖縄にも表れ、それらの状態はすべて、本土決戦のありさまを予想させていた。」


〇 「死の支配力」によって支配していた、という説明はわかりにくく、一体どういうことを言っているのか、と思いながら読みました。
確かに何かを強調する時、「死んでも嫌だ」とか「死ぬほど好き」とか、死が最上級を表すようです。死以上に「強い」ものは、ないように見えます。


でも、現実には「死ぬほど好きだ!!」と死んで見せたからと言って、その対象者=死ぬほど愛された人は、少しもその愛を受け取っていないことになるのでは?と思います。


それよりも、日々並んで一緒に生きる中でぬくもりを感じたり笑い合ったり、慰め合ったり励まし合ったりということが、その人の力になる、という面もあると思います。


そんな風に、「死ぬほど!!」「命かけて!」という強調には、幼稚な子供っぽさを感じてしまいます。
上手く言えないのですが、「死んでも…」と次の瞬間の終わりを考えている時、継続的に努力し続け、道を開拓し続ける「建設的な考え方」は生まれないような気がするのです。それは、拙い態度ではないか、と思うのですが。

若い頃から、何度も死ぬことばかり考えた私としては、今、そう思います。

 

 

「八月十五日の高見順氏の日記は、この関係を示している。これは、そうなって少しも不思議ではない。人が、死に打ち克つことができない限りは_私は、暴君ネロと奴隷制という「死の臨在による生者への絶対的支配」の下に生きた使徒パウロが、なぜ「死に克つ」こと即ち死の支配を克服することを解放と考えたか、わかるような気がした。

 

「死の臨在による生者支配」には、自由は一切ない。人権も法も空文にすぎない。(略)そしてこの「死の臨在」による生者への絶対的支配という思想は、帝国陸軍の生まれる以前から、日本の思想の中に根強く流れており、それは常に、日本的ファシズムの温床となりうるであろう。

 

食餌はいつもより早く終わった。(略)師団長のM中将と私とが残った。私は彼の前に立った。(略)あのときは見習士官、それからまだ一年半しかたっていない。


「座れ」彼は言った。(略)沈黙がつづいた。不意にM閣下は、テレたような薄笑いを浮かべると、視線をそらし、次にうかがうように私の方を見て口を切った。一瞬の緊張、だが意外も意外、彼が口にしたのは砲兵隊の最後でも、砲の処置でもなく、一杯の水のことであった。

 

彼は言った_「砲兵隊査閲のとき、余り喉が渇いていたので、茶を所望したことがあったが……」と。そしてその顔は「お前あの時のことを知っているか」と問いかけているように思われた。

 

全く予期せぬ言葉に、私は思わず彼を見た。その驚きと意外さの表われを、彼は、私がその小事件を知らないものと誤解した。急に顔がなごみ、何やら取り繕った威厳さえ示した。だが私はその小事件を知っている。

 

それは砲兵隊がツゲガラオより少し北の、イギグとアムルンという小村に駐留していた時、十九年九月末の出来事である。(略)はじめての炎暑の町は、師団長にとってはつらかったのであろう。だがこの行為は確かに異常であり、非礼であり、乗用車を下りる前に副官の水筒で喉をうるおしてくるのが、戦場における武人のたしなみであっただろう。部隊長も後で、ちょっとそういった皮肉を言った。

 

だが今の驚きは、また別である。「砲兵隊」という言葉で、師団長が気になっていたのが、その一言だったのかという驚きであった。砲の処置も、部隊の運命も、彼は一言も聞こうとはしない。(略)

 

私は、天幕食堂の入口に立ち、陽光がぎらぎらと反射するひびわれた”運動場”を、手をうしろに組み、前かがみになって、自分の幕舎の方に去って行く、かつての師団長の後ろ姿を見ていた。そこには何もなかった。

 

この人たちの取り繕った威厳の奥にあるものが、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかったカガシと見えて来て、不思議ではなかった。彼らのほとんど全てが、実力者なるものに心理的に依存し、それに支配され、その決定を読み上げる「代読者」だったのだから、そしてそれなるがゆえに、唯一の関心事は「外面的威厳の維持」となった_そしてそういう世界では真の責任者が常に不在であって不思議ではない。

 

武藤参謀長の姿はすぐ消えた。おそらく内地に送還されたのであろう。その後も、私の将官収容所勤務はしばらく続いた。将官たちは、全く影のようで何の印象も残っていない。(略)

 

その中でただ一人、今もはっきりと脳裡に残るほど強い印象を受けたのは、宇都宮参謀副長であった。
死は、被収容者全体の代表(スポークスマン)として米軍との折衝にあたられたが、米軍人も尊敬していた。

 

あのものすごい壊滅・混乱・逆転の中で、最後の最後まで冷静さと良識と落着きと人間的な尊厳を、虚勢でなく保持することは、普通の人間にはできない。(略)

 

収容所の噂では、非常に傲慢な態度で日本人に接したカムバックという米軍大尉でさえ、宇都宮参謀副長にだけは、不動の姿勢で自分の方から敬礼した、と言われる。だが、立派な個人も、動物的攻撃性と死の臨在の秩序にすぎぬ軍の内部では、その力を生かし得なくて不思議ではない。多くの人は戦後になってはじめて氏の存在を意識したはずである。

 


私は、復員船も復員列車も氏と同じで、列車では偶然その隣に掛けて来た。どこの駅か忘れたが、ヤミ屋らしい一団がどかどかと乗り込み、明らかに「兵隊やくざ」の感じのする男が、われわれの前に陣取った。

 

その時は、将官も兵隊も、佐世保で支給された冬服と冬外套を着ていたから、その男は、自分の目の前にいるのが復員者だとわかっても、その正体はわからない。
彼は得々として、復員船の中でやった将校や下士官へのリンチの話をした。その話は、昔の内務班の、加害者・被害者の位置が逆転しているだけで、内容は全く同じであった。

 

「かつて加害者は、こういう顔をしてリンチを語ったなあ、戦争は終わっても、立場の逆転だけで、その内容は、結局何もかも同じことか」。私はそう考え、暗い気持ちになった。宇都宮参謀副長はただ黙って聞いていた。

 

相手にはわれわれの藩王が意外であったらしく、「アンタらの船にゃ、そういうことは、なかったんすか」ときいた。私は口をきく気はなかった。そのとき氏は静かに言った。「なかったな。何もなかった……。この人たちはみな地獄を見たのだ。本当に地獄を見たものは、そういうことはしないものだ」

 

私はこの言葉に不意に「死の支配」の克服を連想した。
宇都宮参謀副長の言葉を人は不思議に思うかも知れない。いや、人はこの逆を常識としているのかも知れぬ。殺される場に居た者は殺すことが平気、残虐な扱いを受けた者は、残虐な扱いをするが当然、そういう人たちが一番強い復讐心を持っているはずだと。

 

だが静かに思い起こせば、人は、戦争直後に”特攻くずれ”という言葉はあり得ても、”ジャングルくずれ”という言葉はなかったという奇妙なことに気づくはずである。

 

また収容所の暴力団も、その主力は、敗戦前に投降して、あの極限の”地獄”を知らない者が多かった。そしてこの不思議な現象は、たぶん日本人だけではない。アメリカ人にもある、イギリス人にもある。

 

あーネスト・ゴードンは、「戦場に掛ける橋」で有名なクワイ川の「死の収容所」にいた一人であった。(略)この収容所の中で人はさまざまに変化していく。(略)だが戦争は終わる。立場は逆になり、彼は釈放され、帰国のためバンコクに向う。その途中、ある駅で、収容所に送られる日本の傷病兵を満載した車両とすれ違った。

 

ゴードンたちは、病人よりむしろ”病物”としてつまれていく人々を見、「自国の兵隊さえあのように取り扱う日本軍が、どうして敵国兵を人間として取り扱うことがありえようか」と思う。


そして勝者である連合軍側の将校も、これを冷然と見ている。一瞬、ゴードンらは立ち上がり、夢中でかけよってこの傷病兵たちに、自分の水筒から水を飲ませ、包帯でその傷を包む。

 

連合軍側の将校は驚き、「こいつらは、われわれの敵じゃないか。その上あなた方は……」と大声で叫んでこれをやめさせようとするが、不思議なことに彼らは、頑としてそれをやめようとしない……、不思議と言えば不思議だが、彼らもまた、「地獄を見た人たち」であり、それはアーロン収容所を支配したイギリス人とは別人のように見える。

 

そして、常識から言えばあり得ない逆、いわば奇蹟に等しいこのことを、人間のことの一面を、人は心のどこかで、無条件で信じている。そしてそれが信じられる限り、パンドラの箱を開けたに等しいどのような世界にも、一つの希望(エルビス)があるのであろう。」


〇 このあと、「あとがき」があって、この本は終わっています。以前読んだ「私の中の日本軍」は「百人斬り競争」がいかにあり得ないことか、繰り返し検証している本でした。それにもかかわらず、それが、単なる戦意高揚のための作り話だと認めるのを拒む新聞記者の為に、死刑にされた日本兵を擁護するために書かれているように見えました。

でも、この「一下級将校の見た帝国陸軍」は、もう少し読者のことを考えて、「物語的に」書いてくれているように感じました。読んでいて、こちらの方が、読みやすく、引き込まれました。また、これほどの絶望的な「物語」にもかかわらず、最後に「希望」も見い出す山本氏の言葉に、ちょっと感動しました。


その時々に、もっともっと色々想ったのですが、次々と消えてしまい、改めて感想を…と思っても何も浮かびません。
この後も、何か思い浮かんだら、その都度、付け足して行くことにしたいと思います。

 

(あとがき)

 

「(略)確かに追及らしきことも行われた。しかし追及するその人が、自分が戦争中何を信じ、何を言い、何を行ったかを忘れかつ棄却するための他者への追及は、追及という名の打ち切りにすぎない。


いまそれを批判することは、戦争中を批判すると同様にたやすい。だが私はいつも、その批判の横から、奇妙な”戦争中の顔”がこちらをのぞいていることに、気づかないわけにいかなかった。

 

最初にこれを強く感じたのは、辻政信の華々しい復活であった。確か六〇年安保の少し前と思うが、参院選における彼の街頭演説の現場を偶然目にし、その痛烈な騎士首相批判演説と実に見事な演技と、それに対してやんやの喝采を送り、次々と握手を求めている聴衆の姿を見た時であった。

 

なぜこれが可能なのか、なぜこれが常に通用するのか。なぜ彼が常に一つの「権威」として存続しうるのか。彼よりもむしろ、興奮し喝采し声援を送っている人々の姿に、私は、あの敗戦も克服し得なかった”何か”を感じた。


そして同じことは、大学騒動にも、横井さん・小野田さんの出現にも、連合赤軍のさまざまな事件にも、官庁の機構にも国鉄の組織にも、感じざるを得なかった。と同時に多くの人々が何かを錯覚しているように感じた。というのは、新聞雑誌は、横井さんの出現を戦前の異質の世界の出現として捉える一方、連合赤軍のリンチを戦前に考えられぬ戦後社会の異常が生み出した現象と断じたからである。(略)

 

簡単に言えば、日本軍の如く目前の何かを「片付けた」のであろうが、それは何かが本質的に「片づいた」ことではなく、変化を続ければすべてが永久に「片づく」わけでもない。

 

言葉を換えれば日章旗を「片付けて」赤旗を振ったとて、さらにその赤旗を「片付けて」他の旗を振ったとて、その外面的変化は、振っている人間の髪の毛一本をも変え得ないというとである。まして、内面的変化は到底期待できない。

 

それゆえ我々が内にもつ問題点は、その外面的変化の華々しさに関係なく、なんらの解明も解決もされずに、そのまま残っていて当然なのである。
外面的変化で自らを欺くことなく、冷たく自己を再把握しこれを統御することによって自らを変革さす、これが本当の変革であろうが、このことの困難さは、古来多くの文学に取り上げられ、ヘブル文学の旧約ではいわゆる「知恵文学」の主題の一つである。そしてこの困難さに耐え得た者だけが、未来に対処できるのであろう。

 

この恐怖から逃れるため、人々は自らの内に未来のシナリオを書き、「進歩」「必然」「流れ」等のさまざまの言葉で、これが確定済みであると自分で信じ込もうとしたり、既存の秩序の一端にとりつけば、それがエスカレーターの如く、確定した未来に安穏に自分を運んでくれると信じ込もうとしたりする。


そしてこれらは、別のように見えて、実は同じ発想のシナリオであった。それを如実に示しているのが、帝国陸軍青年将校であったろう。(略)

 

だが、過去の日本は、自らの描いたシナリオによって自ら破滅した。そして興味深いことに、これと同じ表現が本稿に引用した週刊朝日の記事で、赤軍派永田洋子への表現に使われている。

 

自己の持つ未知の未来への不安を、社会に拡散して解消しようという一つの逃避は、確かに何かを演じつつ破滅する道であろう。
人はいかにすればこの道から逃れ得てリアルでありうるか。その第一は、おそらく、いかにして自らを再把握するかということであろう。本書がその一助となり得れば、幸いである。

 

昭和五十一年十一月               山本七平  」


〇 「変化を続ければすべてが永久に「片づく」わけでもない。……その外面的変化は、振っている人間の髪の毛一本をも変え得ないということである。まして、内面的変化は到底期待できない。…」といかに私たちは変わることが出来ないか…ということについて、私自身のこととして、身につまされました。


昔から政府のやり方や社会のありかたについて、色々想うことはありました。でも、私も他の多くの人々と同様に、個人的にブツブツ文句を言ったり、批判めいたことを言ったりしても、それを何かの行動に結びつけて、例えば「市民運動」のようなことをしよう、思ったことは一度もありませんでした。

でも、あの3.11の原発事故に対するあれこれを見、知り、一番問題なのは、いわゆる「市民」「国民」なのだ…と思いました。私たちが変わる必要があるんだ、と思いました。


でも、それを私の周りの人々、夫、友人、兄弟、そして子供たちに言っても、
全員昔の私と同じ、色々想うけど、それを行動にしようとは思わない、
あなたがするのは、勝手だけれど、巻き込もうとしても無駄だし、自分にはそのつもりはない、という人ばかりでした。


ほんの少し前まで、私自身が同じようなタイプだったのだから、人にあれこれ言えた筋合いではないのですが、でも、ここで言われていることは、そのことだと思います。


例えばあれほど酷い「私物命令」で多くの兵士を自決させた辻政信になぜ、人々は喝采を送り声援を送っているのか、それは、その後ろにいる人々が、沈黙してそれを「通して」いるからです。


つまり、「沈黙している国民」がそのようなことを「可能にさせている」のです。
いろんな人がいるので、辻政信は、今後も次々と現れる。そして、それを支持する人も当然現れる。


でも、もし、心の内で、「そんなことは赦せない!」と思うだけでなく、声に出して、行動にして、「赦せない!」「そんなことはもう通用させない!」という声を大勢の声にしたら、そのようなことは、出来なくなるはずなのです。


でも、この国では、ほとんど多くの人が、沈黙したままでいる。
そこにどうしようもない問題があるのだと思いました。


朝ドラの「まんぷく」の中で、まんぺいさんは、本当に酷い目にあいました。
不当に逮捕され、課税され、追徴金も取られ、国家権力によって、やりたい放題のことをされました。もし、あそこで、新聞がお国のいうことを聞いて、まんぺいさんの不当逮捕を報道しなかったら、もし、国民がその記事を読んで、抗議のデモをしなかったら、多分、まんぺいさんは、救われないままだったと思います。


そして、何よりも、あのような弁護士が現れなかったら、そして、まんぺいさんを支える奥さんが居なかったら、ただ、一人で、苦しみ泣くしかなかった。


問題は、市民、国民が変わらなければならないということだと思うのですが、
でも、これは、本当に本当に、大変なことだと思います。
第一、体質的にそのようなことが出来るように育ってないのです。


自己主張や意見を言うなんて、「普通の人」はしないように育っています。
その体質に抗うようにして、生きるのは、本当にそれだけで疲れます。


でも、多分、そのようにしてでも、少しずつ私たち一人一人が変わらなければ、
本当の民主主義は手に入れられないのだと思います。