読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「日華事変・ノモンハン事件

 

(略)

加藤 (略)

まず、推移を簡単に述べておきます。きっかけは一九三七年七月七日の盧溝橋事件です。この夜、北京の郊外盧溝橋のほとりで夜間演習をしていた支那駐屯軍の一中隊長が、不意に中国軍の方向から飛んでくる十数発の銃声を聞きます。以下、井上清氏のものもあまり信頼できないので児島氏著作に従いますが、これは、その直前に演習で伝令を敵襲と間違え、一方の部隊が軽機銃を発射していたので(それは演習用の空砲だったのですが)、対峙する場所に駐屯していた中国軍がそれに誘われ、対応したものでした。

 

 

 

しかしたまたま伝令にでた兵士が一名、行方不明であったため、事態は緊迫します。後に、その兵士は用便を足していたというので無事現れるのですが、連絡に齟齬があり、最初の射撃のあと、一方では必死に現地の軍による戦闘回避の努力が行われていながら、やがて散発的に続いた応酬が本格的戦闘に発展していってしまう。

 

 

 

こうして小競り合いのあと、翌八日午後六時、歩兵第一連隊長牟田口廉也大佐の指揮のもと、中国軍兵営に本格的攻撃をかけることになります。これが事件の概要です。(略)

 

ですから、まず満州・中国をかたづけて自分たちの力をつけ、将来、ソ連と決しようというのが当時、関東軍作戦参謀だった石原莞爾らの考えだったのです。

それで最初に満州に手を付けた。これが一九三一(昭和六)年の満州事変です。しかし、やってみたら、それは成功したものの、次から次へと新しい事態を追わなければならなくなった。

 

 

それで、こんなことをいつまでも続けていたら、兵員もとられるし、予算もなくなるし、ソ連が攻めてきたら一挙にやられるというので、焦り始める。(略)

先の石原は一九三五年八月に参謀本部作戦課長に就任しているのですが、就任して見て日ソ間の兵力差に愕然とする。(略)

 

 

 

そこで石原は、なんとか紛争を回避して時間をつくり、そのあいだに対ソの兵力格差を埋めなければならないと、軍需のための統制経済化を含む軍備充実計画に着手します。そうしたところに二年後、一九三七年七月七日に盧溝橋事件が起こる。石原は参謀本部の作戦部長になっています。そのときには石原の考えは満州事変時とまるきり逆転している。彼は、いまは戦力拡充の時期で、戦線を拡大すべきではないと考える。(略)

そして最終的に強硬派におしきられる。(略)

 

 

このとき天皇は戦線拡大に懐疑的です。だから天皇はまともです。参謀総長に二度、あと軍令部早朝にも一度会って、本当に大丈夫かと質問して、そのあとでこの華北派兵を裁可している。(略)

 

 

つまり、このときには現地軍ではなく、軍部中央、政府が実質的な拡大の力となった。そして、天皇はそれを承認したかたちです。最初、不拡大を唱えながらも、現地軍の意向を無視して、戦線拡大を承認している。(略)

やはり、例の「結果オーライ」のパターンに近い。

 

 

橋爪 ご指摘はわかりました。(略)

ところでこちらも、いろいろな資料から書き抜いてきた、天皇の行動についてのデータがあるので、それを紹介したいと思います。

 

※ 日華事変の起こる直前、天津事変の際に、杉山陸相ならびに閑院宮参謀総長を呼び、蒋介石と妥協(和平)が講ぜられないか探ろうとした。

 

(略)

 

※八月九日に大山海軍中尉らが上海で射殺される事件が発生すると、それまで不拡大方針に従っていた海軍が態度を一変させ、陸軍兵力の増派を主張し、閣議もこれを決定したので、出兵を裁可したが、「カウナッタラ止ムヲ得ンダラウナ。……外交ニテ収ムルコトハ難シイ」と嘆息した。

 

(略)

 

※ ノモンハン事件の際、関東軍が命令に違反して国境外のタムスクを空襲した際、報告を受けた天皇は、命令違反であるから関東軍司令官の処分が必要だと閑院宮参謀総長に示唆した。参謀総長は処分のことを「研究」すると回答しながら、実際には処分を行わなかった。   一九三九(昭和十四)年六月

 

 

※ 陸軍の体質は教育に問題があるとして、板垣征四郎陸相を批判した

         一九三九(昭和十四)年七月六日

 

※ ノモンハン事件後、天皇は侍従武官長蓮沼蕃中将に、閑院宮参謀総長も責任をとったほうがよい、と考えを示した。実際には、畑陸相の意向で参謀総長は留任した。

         一九三九(昭和十四)年十一月十四日

 

 

天皇は、陸海軍の統帥権者でありながら、実質的に陸海軍をコントロールする方法を、なにももっていなかったという制度上の構造を、よく理解しないといけません。(略)

 

 

加藤 いや、でも上海で事変がおこり、石原が先に行ったような理由からなかなか参謀本部の作戦部長として現地に増派しないときには、「二ケ師(二ケ師団―引用者)の兵力では上海は悲惨な目に遭ふ」と思い、天皇は「私は盛に兵力の増加を督促した」が石原はそれに従わなかった、と言っています。

 

 

統帥権者として、天皇は冷静な態度を貫いた。勝てる時には、勝とうとした。しかしベースは平和主義者だった。そういうことだと思う。」