「十二章 立憲君主の”命令”
白川大将に示した、天皇の精一杯の”褒賞”
福沢諭吉は「帝室論」で次のように記した。
「帝室は政治社外のものなり。いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとのことは、我輩の持論にして……」
「人あるいは我が帝室の政治社外にあるを見て、虚器を擁するものなりと疑う者なきを期すべからずといえども、前にも言える如く、帝室は直接に万機を統べ給うものなり」
福沢諭吉の言葉は、今の表現でいえば「君臨すれど統治せず」であろうが、この言葉は現実にどういう状態を指すのか、具体的に理解することは、相当にむずかしい。ではここで、天皇が模範とされたイギリスのジョージ五世の例を挙げてみよう。当時のイギリスは「七つの海に日の没する所なき」、文字どおりの大英帝国である。(略)
その結果、第一次大戦前の欧州諸国の王の多くはジョージ五世の従兄弟であり、その一人がロシアのニコライ二世であった。(略)
ロシアで十月革命が起こった時、ジョージ五世は当然にニコライ二世の身の上を心配され、救助してイギリスに亡命させるようボールドウィン首相に言われた。しかし何度言われても、ボールドウィンはこれを実施しない。否、外交的に何らかの手を打ったのかもしれないが、それ以上のことはしない。
そのうち、ニコライ二世一家は虐殺されてしまった。ジョージ五世の希望は完全に無視されたわけである。ジョージ五世は悲しまれたが、ではボールドウィン内閣は何らかの責任を問われたか。もちろん何の責任も問われなかった。内閣の責任を問うのは議会であって国王ではない。(略)
昭和七年一月末、上海で日本海軍陸戦隊と中国第十九路軍が衝突し、増援部隊が派遣されることになった。軍司令官白川義則大将は天皇の「早期終結」の御内意を受け、一応相手を撃破すると追撃せずにすぐ停戦し、停戦協定を結んで五月に撤退することになった。
追撃・南京進撃の陸軍内世論を無視してこれを強行した。しかし白川大将は上海での天長節祝賀の際、独立派の朝鮮人に爆弾を投げられて重傷、後に死亡した。
「陛下は深く大将の果断なる処置を御嘉奨相成り、その当時も白川はよくやったとの御述懐をおもらし遊ばされた」
「(白川)大将の薨去せし際には、和歌を詠みて未亡人に与えたることもあり」
(以上は「木戸日記」)
とある。いわばこういうとき「和歌を詠みて」与えるのが、天皇個人の褒章の限度であろう。
木戸と近衛に対する天皇の”差別”
”私的には”明らかに一視同仁でない場合もある。昭和二十年十二月六日、近衛(文麿)と木戸(幸一)に戦犯容疑者として出頭命令が来た。天皇はすぐ「木戸に御相伴(私的会食)に御召しの思し召しあり」。
そこで藤田侍従長が、
「戦争犯罪者となりたる今日、あるいはご遠慮申し上ぐるにあらずや」と言上せしに、聖上は、
「米国より見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり。もし遠慮するようなれば、料理を届け遣わせ」」
と言われ、そのお言葉に感激して木戸は参上、(略)
(「木戸日記」)
となった。
それだけでなく、天皇から愛用の硯を賜り、皇后からもさまざまの品を下賜された。(略)
ただ、同じ日に出頭命令が来た近衛には何の音沙汰もなかった。近衛は自分こそが天皇の新任が最も厚いような印象を世の中に与え、今でもそう思っている人が少なくないが、彼が大政翼賛会をつくって総裁になったころから、天皇は、近衛には信頼できない点があったようである。
天皇は翼賛会を「幕府」と評されたといわれるが、それ以前、日華事変の「不拡大方針」のころからの彼の行き方を見ていると、信頼しかねても無理ないと思われる。
だが、この差別には、近衛も心がおだやかではなかったであろう。前述の手記の「日本の憲法は天皇親政の建前で……」(139ページ)は天皇への抗議だったかもしれぬ。その写しを見た天皇は「どうも近衛は自分にだけ都合のよいことを言っていね」とまことに冷たかった。
五・一五事件後の首相選定で示された強い「御希望」
こういう区別はあり、その区別から天皇の内心での「御希望」を推察できるが、これとは別に、明確に「御希望」を述べられている場合がある。だがジョージ五世の場合のように、うやむやにされたもの、また天皇の御希望どおりにはいかなかった例がきわめて多く、白川大将のような場合はむしろ稀であり、そこで和歌を贈られたのであろう。
たとえば五・一五事件で暗殺された犬養首相の後継者について、七項目の具体的な「御希望」を伝達されたと「西園寺公と政局」にある。
「昨夜、侍従長が来て、「陛下の御希望」というようなことを自分(西園寺公の秘書、=原田熊雄)に伝えたが、いずれも、ごもっともな思し召しで、その御趣旨は、
一、首相は人格の立派な者
二、現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、一に
首相の人格如何による。
三、協力内閣、単独内閣は敢えて問うところにあらず。
四、 ファッショに近きものは絶対に不可なり。
五、憲法は擁護せざるべからず。しからざれば明治天皇に相済まず。
六、外交は国際平和を起訴とし、国際関係の円滑に努むること。
七、事務官と政務官の区別を明らかにし、振粛を実行すべし。
というようなことであった」
大正七年(一九一八年)の原敬内閣は、陸海外務以外の閣僚は、すべて政友会員で、この時に、「明治元老内閣」から「議会の多数党内閣」
へと移行したと見るのが普通である。(略)
その後、多少紆余曲折はあったが、大体「政党政治」の原則が守られてきて、すでに一四年を経過している。そしてこれは天皇が摂政に就任されてから一貫して変わっていない。(略)
もしこのとき「お言葉」の第三項に重点を置いて、帝国議会が挙国一致内閣をつくったらどうなっていたか、歴史に仮定はあり得ないが、「お言葉」がどれだけの政治力を持ち得たかを考える場合、興味深い点である。ただ西園寺公は、なるべく天皇の御希望に副うようにと、最大の努力をしたことは疑う余地はあるまい。
無視された天皇の、「提案」と「御希望」
このような例もあるが、天皇の「御希望」など、はじめから無視されている場合もある。これは後に藤田侍従長に言われたように「憲法上の責任者が慎重に審議を尽して、ある方策を立て、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道がない」(前出、13ページ参照)である。(略)
昭和八年十二月二十三日、皇太子明仁親王がお生れになった。こうなるとすぐ「恩赦」が出てくるのは、戦前も戦後も変わりはない。特に選挙違反や疑獄に引っかかっている代議士は「恩赦」で内閣に揺さぶりをかける。(略)
これは非常に微妙な問題である。栄典の授与と恩赦は明治憲法の大十五条・第十六条で天皇の大権に属する。恩赦は果たして行政権に属するのであろうか。恩赦ぐらいは天皇に拒否権があってもよいと思うし、こういうことぐらいは、まず天皇の御意向を確かめるべきであろう。
天皇は先例のないことは許可されないと知った何者かが、新聞に巧みにリークしたのであろう。天皇は「面白くない」と言われている。
では、この「お言葉」どおりに、恩赦とりやめとなったかと言えば、結局そうはならない。まことに「意に満たなくても」内閣から規定通りの要請があれば裁可され、翌年二月十一日、五万人の減刑が行なわれた。
「新聞辞令」という言葉があるが、これなどは「新聞恩赦」だったのかもしれない。(略)
日華事変が拡大すると、当然のことだが、英米や国際連盟などは、日本が中国に領土的野心を持つと見る。ところが杉山(元)陸相は「自衛」であって領土的野心などは毛頭ないという。では一体、何を目的に戦争をしているのかとなると、実はこれが、いまだに明らかでない謎としか言いようがない。いずれにせよ「西園寺公と政局」によれば、天皇と杉山陸相との間に、次のような問答があったという(昭和十三年九月十日)。
「陸軍大臣が、先月陛下に拝謁して、「英米に対して、日本は(中国に)領土的野心のないことを明らかにしたいから、外交機関を以てなんとかして頂きたい」ということを奏上したところ、陛下から陸軍大臣に対して「陸軍大臣はそう言うが、一体、部下の統制は取れるか」と御下問があったので、陸軍大臣は「責任を以て必ず取ります」と奉答したが、その後すぐに陛下は武官長を召されて、
「陸軍大臣は部下の統制は取れますと言ったが、それならば外国新聞の東京駐在者を官邸に招んで、陸軍大臣自ら、帝国には領土的野心はないことをはっきり言ったらどうか」という御伝言をなされた」
この「お言葉」に基づいて、外国人記者を官邸に招くなり、あるいは自らプレスクラブに出かけるなりして、彼らにはっきり「領土的野心」のないことを明言したか、となると、それを行なったらしい形跡はない。もしやれば、彼らの遠慮のない質問の前に立ち往生したであろう。
天皇の「御希望」は無視されたが、それは別に命令違反ということではない。」
〇 以前、安倍首相は、「自虐史観」を持つのはやめよう、というようなことを言ってました。でも、現在の私たちの国の首相が安倍氏であることを考えると、私たちは情けない国民だと、心から恥ずかしくなります。
私たちの国が、法治国家であるという前提を滅茶苦茶に破壊した
のが安倍首相です。
社会にはして良いことと悪いことがあり、悪いことをすると
罰せられるというルールがないがしろにされている、それが今の日本、私たちの国です。
私たちは、そんな人間を国のトップにしている。
辞めさせることが出来ずにいる。
こんな恥ずかしいことがあるでしょうか。