読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「かたくななまでに憲法を遵守する姿勢のルーツ

 

天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を口にされ、また「憲法の命ずるところにより」とも言われている。そしてその私生活は、まことに生まじめなぐらい「教育勅語」の通りである。そしてその基本を「五箇条の御誓文」に置かれていた。

 

 

この「憲法遵守」は少々、「杓子定規」といった感じさえするほどで、近衛(文麿)などはそれに対してある種の”不満”さえ口にしている。これについて「倫理御進講草案」の中で「教育勅語」の解説を行っているが、その「国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」のところで彼が語るエピソードがある。

 

 

もちろん全体の趣旨は、天皇がまず率先して「国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」でなければ、国民に法律を尊重させることは出来ない、であるが、彼の挙げている例が興味深い。次にその例を記そう。

 

 

文化年間(一八〇四 — 一八年)、北海道エトロフ島にロシアの南下により事変起こり、幕府は御目付・羽太正養を蝦夷地奉行として、さっそく、かの地に赴かせた。正養は幕府の命を受けて急ぎ旅の仕度をし、種々の兵器・大砲を牽き、下総の国栗橋の関所に到着したが、あまり急いだために、通行券を置いてきてしまった。(略)

 

 

関守は、それは関所の規則に反すると言って受け付けない。正養やむなく、多くの供人、兵器・大砲を引き連れていったん江戸に帰り、通行券を持って再びその関を通り抜けた。

 

 

「この関守が高位の人に恐れず、法則を取って動ぜざると、正養が急変に赴く身にもかかわらず関所の規則に従いしとは、ともに遵法の道を守りしものというべし」

 

言うまでもなく杉浦は、この関守の態度を高く評価している。「そんな杓子定規に規則に拘泥して、そのためエトロフ島をロシアに占領されたらどうなるか」といった非難は「乱世の論理」であって、「守成の論理」ではない。

 

 

そして天皇はこの関守のように「明治憲法」を遵守して動こうとはしない。前述のニ・二六事件の処理と終戦の「聖断」は、憲法を考慮せずに純粋に政治的にのみ見れば、きわめて適切なもので、これを非難する者はいないであろう。ただ天皇御自身にとっては「立憲君主としての道を踏みまちがえた」のである。

 

 

こういう点で、どう見ても天皇は「憲政の王道を歩む守成の明君」ではあっても、「覇権的な乱世の独裁君主」ではない。」

 

 

〇 3.11の原発事故によって、多くの法律違反が行なわれました。「乱世」だったので、しょうがないということだったのでしょうが、今の安倍首相が平然と大っぴらに法律を破るのは、あの時を基点にしているように感じます。

ルールは、一旦無視されると、どこまでもルーズになってしまうのだと。

感じます。

 

どこかで、きっちり法律に則って、彼を刑務所に入れない限り、この国は、法律など一部の人間には何の意味も持たない、ただの飾り物になってしまいます。

 

 

天皇を「ロボット」と見做した人々

 

大正民本主義がそのまま戦後民主主義へと通じていれば、天皇は最も幸福な生涯を送られた君主ということになったであろう。だが、天皇が摂政に就任されたとき、早くも乱世の徴候が現れていた。

 

摂政になられたのは大正十年十一月二十五日、その二十日前に、原敬首相は、東京駅で中岡艮一に刺殺されていた。

この暗殺から二・二六事件まで、暗殺者やその背後にいる者には、共通した一つの誤認があった。

簡単にいえば彼らは、天皇を、「君側の奸」にあやつられているロボットと見ていたことである。

 

 

天皇絶対」と言いながらこれを「ロボット視」していた彼らの態度を、津田左右吉博士は鋭く批判しているが、これは天皇への最大の侮辱である。しかし信じた彼ら右翼は「君側の奸」さえ除けば、天皇は自分たちの思い通りのロボットになると思い込んでいた。一人格に対する之以上の侮蔑を私は知らない。

 

 

彼らは「天皇絶対」を口にしながら、天皇を「玉」とか「錦の御旗」とか表現し、平然と「物扱い」にしていた。(略)

 

 

天皇は彼らにかつがれるロボットではない。彼らがこのことを思い知らされたのは二・二六事件の時であった。そしてそうではないと知ったときの、「天皇への呪詛」はすさまじい。(略)

 

京都から九州へと敗走する足利尊氏に、この敗因は「錦の御旗」がなかったからであり、そこで光厳院を立てて「錦の御旗」を手に入れるようにと言ったのが赤松円心である。下剋上の時代に、彼がなぜこう言ったかは本書ではとくに追及しないが、それは足利時代がはじまるころのことであり、明治天皇は決してロボットではない。

 

 

そして明治大帝を模範とすることを、幼児期から叩き込まれた天皇が「君側の奸」のロボットであるはずはなかった。ただ、明治は「創業の時代」自分は「守成の時代」という任務の差をはっきりと自覚されていたということである。

 

 

 

帝国陸軍 —— 天皇に対し最も「不忠」な集団

 

表面的には敬意を払いつつ、内心では軽視している者は、彼らの他にもいた。何しろ即位された時の天皇は二十五歳であり、海千山千の連中から見れば、自分の子どものような若輩である。天皇が味わねばならなかったのは、家光と同じような「三代目」の苦労であった。

 

 

昭和三年、関東軍の一部による張作霖爆殺事件が起こる。(略)出先軍部の暴走を懸念された天皇田中首相に関係者の厳重処罰と軍紀の粛清を命じられた。ところが田中は陸軍の強い反対で軍法会議さえ開けず、行政処分の方針を報告したところ、天皇は激怒された。これは陸軍刑法から見れば「抗命罪」になるであろう。昭和戦前を通じて、天皇に対して最も「不忠」だったのは、実は陸軍だったのである。

 

 

岡田啓介回顧録」には、次のように記されている。

 

「田中はさきに陛下に、取り調べの上厳重に処罰します、と申し上げたてまえ、その後のことを御報告しなければならないので、参内し拝謁を願った。陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色がお変わりになり、読み終わるや否や、「この前の言葉と矛盾するではないか」とおっしゃった。

 

 

田中は、恐れ入って「そのことについては、いろいろ御説明申し上げます」と申し上げると、御立腹の陛下は、「説明を聞く必要がない」と奥へおはいりになったそうだ」

 

 

陸軍大将から政友会総裁、ついで総理となった田中義一は、天皇よりも陸軍の意向を重視し、天皇を軽視して法律を無視した。しかしこれが田中内閣の総辞職となり、ついで田中義一の急死となると、天皇は、立憲君主として少し行き過ぎではなかったかと思われたらしい。(略)

 

 

不吉な兆候が、裕仁親王が摂政に就任された翌年に起こっている。ムッソリーニ率いられたファシスト黒シャツ党がローマに進軍し、ムッソリーニは首相になり、史上はじめてのファシズム政権が樹立された。

 

 

しかしこのことは、ほとんど日本では問題になれなかった。(略)

社会主義者国家社会主義者すなわちナチスに転換しやすいのは、別に不思議な現象ではない。スターリズムといわれる一国社会主義も、言葉を換えれば国家社会主義であろう。ナチススターリンの敵対関係は、一種の「近親憎悪」にすぎない。(略)

 

 

というのは、翌大正十二年には関東大震災があり、首都が壊滅した日本はそれどころではなかったからである。

 

 

 

しかし不吉な運命が、杉浦重剛山川健次郎も予期しなかった運命が、天皇の前にあった。何人も、自己の運命を予知することはできない。要はそれに対して、生涯を通じての「自己の規定」を貫き得るか否かである。」

 

 

〇 社会主義者ナチス国家社会主義)に転換しやすい、という説明が、

ショックでした。