読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「売家と唐様で書く三代目」

 

この「憲政の王道を歩む守成の明君」を育てるという杉浦の方針は相当に徹底したもので、「草案」で日本の例を挙げる場合、信長・秀吉・家康は、その表題にはないが「徳川家光」は出てくる。理由は明らかで、彼は家康から三代目、天皇もまた明治天皇から三代目だからである。(略)

 

 

もっとも、これ以外にも彼はしばしば「三代目」について語っており、「徳川家光」の末尾でも次のように記している。

 

 

「かつても申し述べたる所なるが、「売家と唐様で書く三代目」といえる俗諺あり。その意味は、父祖が苦心して積み上げたる家屋なれども、三代目ごろに至りては、その苦痛を知らず、新奇を好み、柔弱に流れ、終に家を傾け産を破るに至るをいうなり。これ最も恐るべく慎むべきなり。家光が如きはこれに反し、三代目にして能く父祖の事業を大成したるもの、また偉なりとすべし」

 

 

 

戦前、尾崎咢堂(行雄)の「三代目演説事件」というのがあった。(略)

もっとも尾崎咢堂は「天皇は三代目だから……」と言ったのではなく「国民が三代目で……」と言っており、その主眼はむしろ「憲政擁護」なのだが、これについては後述する(十章)。

 

 

これはひとまず措き、いわゆる「三代目問題」は、杉浦が折に触れてしばしば「述べたる所」であり、天皇は三代目の問題をよく知っていた。簡単にいえば、初代以来の功臣との関係である。これには二つの面がある。

 

 

一つは三代目自身が、何となく「位負け」を感ずる創業の功臣、いわば経験者を遠ざけ、同年輩の気の合う「イエスマン」を集めたがる傾向があること。典型的なのは「反面教師」ウィルヘルム二世で、彼はビスマルクを免職にして若い連中を周囲に集めた。(略)

 

 

第二が、創業の功臣の側の「若き当主」への「面従腹背」である。一応はたてまつっているが内心ではバカにしており、心服はしていない。家光も天皇も同じような問題を抱えており、これが最もひどかったのは実は陸軍であった。口では天皇絶対などと言いながら、陸軍の天皇無視は前述のように天皇自らが「大権を犯す」と憤激するほどひどかった。(略)

 

 

三代目・家光にみる「守成の勇気」

 

では以上の、三代目が宿命的に遭遇せざるを得ない状態に、家光はどのように対処したか。若き家光酒井雅楽頭(家康、秀忠に仕えて来た重臣。本名忠世)を嫌い、彼の家だと言われると顔を背けて通るほどであった。ところがあるとき秀忠に呼ばれて言われた。

 

「「将軍(家光)には雅楽が気に入らぬとな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣え、天下大小の政事に熟練しぬれば、大統(将軍位)を譲らせ給うにそえて、彼を進らせぬ。さるを気に入らぬとあるは、御身の我意というものなり。天下を治るものは我意はならぬものぞ」と」

 

 

家光はこの言葉を聞いて後悔し、忠世(雅楽頭)を召して言った。

「「今日はご隠居様よりことのほか御勘事(おとがめ)あり。よく思いめぐらせば、汝が天下の政道を大事と思いていう詞を、われ悪しざまに聞ぬるは、今さら悔いても甲斐なし。この後はなおさら思う所残さず聞こえ上げよ」」

と言って彼を優遇したという。

 

 

 

興味深いことに、天皇が最も信頼していたのは明治維新の経験者、また日露戦争の経験者で、慎重な意見の持ち主であった。前者の代表と言えば西園寺公望(元老、一八四九 — 一九四○年)、後者の代表は鈴木貫太郎(一八六七 — 一九四八年)、すなわち終戦の「聖断」の時の総理である。

 

 

天皇はその「聖断」について、一章でも紹介したとおり、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている」と言われている。天皇はこの点、ウィルヘルム二世の逆であり、天皇と同年輩の青年将校にかつがれるようなことは絶対になかった。(略)

 

第二が「若き当主」への先代の功臣の面従腹背である。(略)

これに対して家光は、諸侯に対して、俗にいう「生まれながらの将軍」の宣言をし、「これを以て他日さらに君臣の義を用い、衆(諸侯)を遇せんと欲す。(略)

 

 

目の前で与えた刀を抜かせる。誰か一人でも、家光を殺そうと思えば殺せる。

「衆みなその宏度(広い度量)に服したりき」と彼は記す。

簡単にいえば「守成の勇気」は「創業の勇気」と同じではないということであろう。信長は確かに勇敢だが、その勇気の質は家光と同質ではない。そしてこの勇気がないかぎり守成はむずかしい。簡単にいえばそれは、マッカーサーの所に行き "You may hang me" と言える種類の勇気であろう。(略)

 

 

昭和五十四年の記者会見で、天皇は「ジョージ五世は私に親しくイギリスの立憲君主のあり方を話してくださった。その時以来……」と言われているが、そこに自らの模範を見られたのであろう。言うまでもないがイギリスには成文憲法はなく、政局の運営はすべて慣例に基づいて行われている。

 

 

 

天皇はおそらくここに、確立された「憲政の運用」を見られ、それを理想とされたのであろう。天皇明治憲法とそれに基づく慣例によって、すべてが整然と運営される方向へと目指された。その方向に行こうというのがおそらく天皇の自己規定である。」