読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る(十四章 天皇の”功罪”)

「「天皇は戦争を止められるのに、なぜ止めなかった」

 

天皇にも、「憲政の伝道師」という意識はあったであろうか。私の勝手な想像だが、天皇にはそういう意識はなかったと思う。(略)

考えてみれば、これは実に不思議なこと、人類史上、これを行ったのは昭和天皇だけかもしれない。というのは、元来「憲法」とは君主の権力を制限し、実質的には無権力の存在にしてしまうものだからである。(略)

 

 

では天皇は、憲法を無視することが不可能だったのだろうか。明らかに可能であった。そしてそれを望む者がいたことは否定できない。それはただに軍部だけではなかった。天皇が、啓蒙的独裁君主として、国民の困窮を救ってほしい、否、救うべきだといった気持ちが、その人たちにあったことは否定できない。(略)

 

 

磯部浅一の呪詛は、簡単に言えば「青写真ばかり眺めていないで、歴史的実体として日本の現状に目を向けて下さい」であり、「天皇よ、なぜこれが分からないのか」が、彼の痛切な叫びである。

 

 

憲兵の調査報告にあるが、彼の家は実に貧しかった。それだけでなく、村人からも疎外されていた。その苦境の中から彼は陸軍経理学校に進んだ。といってもその意味は、今では分からないであろうが、これは約六〇人に一人の合格という大変な試験。その点、彼は少年期より稀代の秀才であり、そして彼は当時の日本の貧農の絶望的な悲惨さを知っていた。

 

 

そしてその現実の前には「憲法という青写真」など、何の価値もないものであった。そんなものは棄て、北一輝の「日本改造法案大綱」に基づいて、徹底的にこれを改造しなければ民衆は救われない ―― 、彼は彼でこの信念を貫いている。

 

 

そして彼の天皇への呪詛は、「天皇はそれを出来るのにやらない」という点にあったことは言うまでもない。そして戦後にもこれに似た意見はある ―― 「天皇は戦争を止められるのに止めなかった」。

この言葉は、単に庶民が口にしているのではない。侍従武官・平田(昇)海軍中将も天皇に同じ趣旨の質問をしている。

 

 

天皇のお答えは「平田は憲法を知らんよ」、それだけであった。

これは天皇の功罪の最も大きな問題点であろう。そこへ進む前に、もう一度「整理」しておきたい問題がある。近衛は「日本の憲法天皇親政の建前で……」と言っており(139ページ参照)、戦後も何となくそう思っている人がいる。もし本当にそうなら「憲法停止・御親政」という言葉がおかしいであろう。

 

 

この点、磯部浅一の方がはっきりしている。天皇親政なら憲法は不要のはず。近衛の言葉は一種の「語義矛盾」か、彼らしい「責任逃れ」である。天皇がこれに対して大変な不快感を示され「近衛は自分に都合のいいことを言っているね」と言われたのは実は理由がある。(略)

 

 

 

天皇の口を封じた近衛と軍部の策謀

 

明治憲法七十六カ条を読んだ人は少ないであろうし、今の人が読んでも、この古めかしい日本語で記されたことの意味を理解出来る人も、少なくなったであろう。さらに問題なのは、その表現が少々「慇懃無礼」で、意味がつかみにくい点である。(略)

 

 

近衛の言葉、「日本の憲法天皇親政の建前」を「憲法天皇親政らしい表現を用いているが、しかし内容は機関説どおりである」と言い換えれば、意味は通る。そうでなく本当に「天皇親政」なら、憲法はいらないはずである。

 

 

前述のように、日本の運命の岐路は、昭和八年の熱河作戦にあった。(略)ではこのとき、憲法第五十五条を無視して閣議の決定を天皇が覆したらどうなったか。それは一種の「王様クーデター」であろう。天皇はこれを行いそうになったと私は想像する。

 

 

その先は分からない。拡大二・二六事件ともいうべき「逆クーデター」となり、天皇は「御不例」ということで幼児の皇太子が即位され、秩父宮が摂政になったかもしれない。何かのときの摂政に予め高松宮を指名した天皇に、この危惧がなかったとは言えまい。

 

 

 

もしそのような「逆クーデター」も起こらず、閣議の決定を上奏しても天皇が「意に満ちる」ものは裁可し、「意に満たないものは裁可しない」となれば、日華事変も太平洋戦争も起こらなかったかもしれない。もしそれが国民の望んでいた状態なら、結局、国民が望んだのは「立憲君主制」でなく「啓蒙的開明君主による直接統治」であったということかもしれぬ。磯部浅一が夢見たのも、それであったのだろう。(略)

 

 

昭和一二年、近衛は「大本営政府連絡会議」をつくった。これが後の戦争指導会議である。問題は、これが「閣議」か否かである。(略)

憲法上疑義があることは絶対に行わない天皇は、この点を、元老・西園寺公望に問い合わされた。彼の返事は、この席での「御希望」、ないしは「御質問」は差支えないであろうということであった。

 

 

しかし、このことを内大臣から聞いた近衛は絶対反対で、次のように言ったと半藤一利氏は記しておられる(「陛下ご自身による天皇論」/ [アステイオン」十一号所収)。

「本案は総理大臣の全責任において、すでに決定し(ということは「閣議決定」)j、単に御前で、(統帥部との合意を)本格的に決めるにすぎないから、御発言のないことを望む」(略)

 

 

これによって天皇の統帥部への発言も封じられた。二・二六事件後の四月二十五日の天皇の次のお言葉は、このことへの予感を示している。

 

 

「軍部にては機関説を排撃しつつ、しかも自分の意志にもとることを勝手になすは、すなわち朕を機関説扱いとなすものにあらざるなきか」

 

 

いわば軍部は「機関説以上の機関説」で天皇の発言を封じたわけである。そのため天皇がこの会議で発言されたのはおそらく二回だけであろう。前述のように、昭和十六年九月十六日、明治天皇の御製を誦まれ、平和への強い要望を示されたのと、第二が終戦の時の「聖断」である。なぜ天皇がこれを「立憲君主としての道を踏み間違えた」と考えておられたか、もはや説明の必要はあるまい。」