読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「二代目 — 卑屈から一転して増長慢

 

「(乙)第二代目ころの世態民情

 

明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引き換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。

 

 

古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。(略)

 

 

僥倖にも露国の内訌(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。

 

 

右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を官舎するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、ニ、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。

 

 

近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公にしたが、日露戦争にあの結末を得たのは、天祐と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の驕慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。

 

 

右の精神状態は、ひとり軍事外交方面にみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落し入るべき傾向を生じた。

前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一箇条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」

 

 

浮誇驕慢で大国難を招く三代目

 

「(丙) 第三代目ころの世態民情

全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四年、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動踵を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く「売家と唐様で書」かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を捲き起こさなければ、やみそうもない形勢を現出した。

 

 

 

予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。

 

 

よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき法案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。

 

 

しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく「こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十四か国の反対を招くべきすじ道の振舞である。日本一カ国の力を以て、五十余カ国を敵に廻すほど危険なことはない」と。(略)

 

 

連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不可入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考え直したらしい。(略)

 

 

ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の噴起を怖れて、躊躇しているようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。(略)

 

 

全国民の大多数は、国難の趣旨は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は「売家と唐様で書く」ことの代りに「国難とドイツ語で書いて」いるようだ……」

 

 

まことに「貞観政要」で魏張が主張したように「守成」はむずかしい。

 

 

 

システムと実体との乖離がもたらした悲劇

 

この尾崎行雄の上申書を「天皇語録」と対比してみると、さまざまな点で天皇と共通していることが感じられるが、それを要約すれば、昭和二十年九月九日に、日光へ疎開されている皇太子へ送られた手紙の次の一節になろう。

 

 

「……… 敗因について一言いわしてくれ

我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである

我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである……」

 

 

これは、九月二十七日にマッカーサーのもとへ行かれた一八日前であり、あるいは「皇太子への遺書」のつもりで書かれたのかも知れない。

(略)

 

 

戦後は「明治憲法」には欠陥があったとされている。もちろん、いずれの時代であれ「完全な法」はあり得ない。また「旧憲法・七十六ヶ条」の条文ですべてを律し得るわけではあるまい。

 

 

問題はその運用にあろう。そして美濃部達吉博士は、機関説どおりに運用されるなら、憲法の改正すなわち新憲法の公布は、すぐには必要ないと考えておられたと思われる。ということは、機関説どおりならば、戦前も戦後も、あまり変わりはないということであり、美濃部博士はツギのように述べている。

 

 

「議会の最も重要な権限として見るべきものは、議会が内閣の信任を得ることを要し、したがって議会、ことに衆議院は内閣組織の原動力をなし、内閣は通常衆議院の多数党から組織せられ、もし衆議院において内閣の不信任を議決すれば、衆議院を解散して民意に問う場合のほかは、内閣は当然辞職せねばならぬことに在るのであるが、これらの点については、(明治憲法下の)現行制度の下においても、議会各院は弾劾上奏権、および不信任決議の権を認められており、しかして内閣の組織は時の政治情勢によって左右せられ、法律的にこれを一定することは困難であるから、憲法または議員法にこれを規定することは、むしろこれを避くることを適当とするであろう」

(「世界」創刊号)

 

 

確かにそのとおりであろう。ただそこに一つの条件がある。それは帝国議会が本当に国会として機能しうるか否かという問題である。「リクルート国会」を立派というわけにいかないが、戦前の帝国議会も、また、戦後の国会より立派だというわけにはいかない。疑獄事件、今日的に言えば議員の汚職のニュースは、戦前も絶えることがなかったといってよい。

 

 

 

尾崎行雄の訴えは、残念ながら実をむすんだとは言えないのが現実であった。その理由は一言で言えば「憲法に描かれている社会システムとしての日本の青写真と、歴史的実体としての日本の現実との乖離」ということになる。

 

 

 

この「解離」を超える方法は二つしかない。言葉を換えれば、天皇の選択肢は、二つしかない。それは

 

 

(一) あくまで頑固に「憲法どおり」で、どのような犠牲を払っても歴史的実体としての日本を憲法へと引き寄せるという、速効性のない道を、”鈍行馬車”のように遅々として進むこと。

 

 

(ニ) 憲法を無視して「歴史的実体としての日本の現実」に直接に対応していくこと、言葉を換えれば「憲法停止・御親政」へと進むこと。

 

 

もちろん天皇は、絶対に(一)であった。しかし、(一)か(ニ)かの岐路に立たされたことは一再ではない。

この時の天皇の選択については、後述しよう。」

 

 

〇 明治憲法でも、今の日本国憲法でも、天皇機関説どおりなら、あまり変わりはないと言われています。でも、国民が、天皇陛下の下にある「臣民」と規定されている時、実態は変わりなくても、こちら(国民)の気持ちは、大きく違ってくるのではないかと思います。

 

私は、天皇が私たちの国の象徴だということは、受け容れて暮らしていますが、私自身が、天皇の臣民だと思ったことは一度もありません。

臣民となると、やはり、天皇陛下のためには、命を捧げ、忠誠を尽します…という気分になってしまうような気がします。