読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「日本のあらゆる法の上に立つ憲法で、よくメディアがとり上げるのは

第九条である。(略)日本人のなかには、この国は世界で三番目もしくは四番目に相当する巨額の防衛費を使って軍隊を維持しているのだから、憲法に違反しているという人もいることだろう。

 

 

だが憲法違反は第九条二止まるものではなく、その範囲は一般の人々が気づいているよりはるかに大きく、またそこにはっきりした傾向も認められる。

 

 

なぜなら第一五条[公務員の選定・罷免権、全体の奉仕者性ほか]、二〇条[信教の自由、政教分離]、三八条[不利益供述の不強要、自白の証拠能力]、四一条[国会の地位・立法権]、六五条[行政権と内閣]、七六条[裁判官の独立ほか]、九八条[憲法最高法規性ほか]といった条項は、ほとんどの場合、完全に無視されているのではないかと思える。

 

 

そしてこうした条項のほとんどが戦前や船中のような非公式な官僚支配を抑えるために起草されたのだから、なんともおかしな話である。」

 

 

労働基準法も無視されてきて、今や、骨抜きになってしまった。

共産党のポスター、「8時間働けば、普通に暮らせる社会に…」というフレーズを見るたびに、そうなってほしいと、心から思います。

 

 

「管理者たちはずっと以前に非公式権力の方があるかに有効で、しかも公式の法にもとづいた権力よりもふるいやすいことに気づいていた。国を問わず政治経験の豊かな人間であればみなこのことを知っている。

 

 

有力者の知り合い、同窓会のネットワーク、家族の結びつきといったものが、政治的な野心を抱く者たちが大事業を成し遂げ、出世するのに役立つ。(略)

 

 

私は戦後の融資のやり方を通じて、いかに製造業者が日本銀行に、そして大蔵省にいまだかつてないほどに依存するようになっていったかを、本書の第二部で検証しようと思う。(略)

 

 

行政指導は日本的な手法として国際的に有名になった。非公式であればあるほど、彼らにとっては都合がよかったのだ。日本の「奇跡の経済」はやんわりと圧力をかけることから、笑顔での脅しにいたるまで、彼らのさまざまな戦術に負うところが大きい。

 

 

 

これに関して通産省には有名なエピソードがある。昔、同省であるとき、官僚たちがそれまで何年も用いていた一連の慣行を正式に法制化しようとしたことがあった。ところが、この「特定産業振興臨時措置法案」は、大蔵省やビジネス界、銀王業界の強い反対で、国会を通過できなかった。

 

 

 

この法律が成立すれば、通産省には産業カルテルをつくる正式な権限が与えられるはずであった。ところが何年も後に元通産省審議官の天谷直弘が語ったところによれば、同省は長年同じようなことを手掛けてきていたので、この法律はまったく必要なかったのであった。(略)

 

 

大企業は政府に依存し、その指示におとなしくしたがっていたが、大企業と零細企業の中間レベルの企業の数が非常に多かったので、通産省やほかの経済関連省庁はそうした企業を監視し、指導するので手一杯であった。そこで官僚たちはあらゆる機会をとらえては企業家たちを業界組織の網目に縛り付けることで、彼らを抑えようとした。(略)

 

 

 

日本の民主主義の敵、検察官

 

あらゆる国にはそれを守る人々、ガーディアンがいる。彼らは社会のなかでの文化的な生活を破壊しかねない、犯罪や行き過ぎた搾取を防ぐよう期待されている。官僚から政治家にいたるまで、統治機構に属するだれもが、めいめいに割り当てられた場所で、多少なりとも、こうした役割を果たすよう期待されている。

 

 

 

ところが社会的な貢献に見合う以上の影響力をおよぼしたがる人々というのは必ずいるものである。個人や、グループや企業といった組織など、なんらかの利害を持つ人々だ。すると彼らが分不相応な権力、利権を獲得するという状況が生じることになる。(略)

 

 

 

真の民主国であるならば大抵は、メディアがある程度そうした役割を演じている。日本社会における特異で興味深いメディアの役割については、後で詳しく検証しなければならないだろう。だがここでは、少なくとも最近まではスキャンダルが起きるたびに、日本の人々から大いに尊敬されてきたある存在に焦点を絞って論じるつもりだ。

 

 

世間一般の人々は、彼らこそ社会を良好な状態に保ってくれる、信頼に足る存在、つまりスーパー・ガーディアンと見なしている。それがすなわち検察である。(略)

 

 

日本の検察官がつねに神聖なる雰囲気をただよわせていることこそが、実に嘆かわしいのだ。なぜなら彼らのこうしたイメージは現実とかけ離れた絵空事なのであり、そこには日本の司法の実態が現れているからだ。(略)

 

 

日本の検察こそ、この国に民主主義を実現させるまいと最後まで抵抗を続ける、もっとも手強い勢力だとさえいえるのだ。(略)

 

 

日本の検察官は重犯罪や軽犯罪をおかしたと疑われる人間を逮捕し、取り調べ、起訴するかどうかを独自に決定できるなど、とてつもなく大きな権力を有している。仕事を通じて司法システムとかかわりのある多くの外国人たちが、日本の司法制度を研究しにやってくると、この国の検察官がこれほどの自由裁量権を与えられていると知って驚く。(略)

 

 

つまり論理的に考えるならば、本当の意味での裁判は行われていない、ということになる。あるいは、裁判は裁判官が登場する前、つまり検察官のオフィスで行われる、とも言えるだろう。(略)」

 

〇つい最近、このことが身に沁みた出来事がありました。

二つの記事を載せておきます。

 

検察審査会とは」

「検察官が独占する起訴の権限(公訴権)の行使に民意を反映させ、また不当な不起訴処分を抑制するために地方裁判所またはその支部の所在地に設置される、無作為に選出された日本国民(公職選挙法上における有権者)11人によって構成される機関。 」

 

〇2019年3月15日「佐川元国税庁長官の不起訴は不当だ」との議決がなされたという記事を読み、まだ民主主義は機能していると思ったのもつかの間、

8月10日の記事で、その結論がひっくり返されたことが報じられました。

 

 

「校法人「森友学園」を巡る財務省の決裁文書改ざんで、有印公文書変造・同行使容疑などで大阪第一検察審査会の「不起訴不当」議決を受けた佐川宣寿(のぶひさ)元国税庁長官(61)ら当時の財務省理財局幹部ら六人について、大阪地検特捜部は九日、再び不起訴とした。(2019年8月10日東京新聞)」