読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

キリスト教は社会的改革や倫理的改革を引き起こしたのに加えて、経済やテクノロジーの重要な革新ももたらした。カトリック教会は中世ヨーロッパの最も高度な管理制度を確立し、文書保管所や目録や時間表をはじめとするデータ処理技術の使用の先駆けとなった。

 

 

ヴァチカンは、一ニ世紀のヨーロッパでシリコンヴァレーに最も近い存在だった。カトリック教会はヨーロッパ初の経済団体、すなわち修道院を設立し、それが一〇〇〇年にわたってヨーロッパ経済の戦闘に立ち、先進的な農業と管理の手法を導入した。

 

 

修道院は他のどの組織よりも早く時計を使い始め、何世紀もの間、ヨーロッパでは修道院司教座聖堂学校が最も重要な学習拠点であり続け、ボローニャ大学やオックスフォード大学やサラマンカ大学と言ったヨーロッパにおける最初期の大学の多くの創立を助けた。

 

 

 

今日もなお、カトリック教会は何億もの信徒の忠誠と献金を享受し続けている。とはいえ、カトリック教会やそのほかの有神論の宗教は、創造的な勢力から受け身の勢力に変わって久しい。(略)

 

 

こう自問してほしい。二〇世紀の最も影響力のある発見や発明や創造物はなんだったか?これは難しい質問だ。なぜなら、抗生物質のような科学的発見や、コンピューターのようなテクノロジー上の発明や、フェミニズムのようなイデオロギー上の創造物など、じつに多くの候補のリストから一つ選ぶのは至難の業だからだ。(略)

 

 

 

この二つの質問をじっくり考えたうえで、二一世紀の大きな変化はどこから生まれ出てくると思うか?イスラミックステート(イスラム国)からか、それともグーグルからか?たしかにイスラミックステートはyoutubeに動画をアップロードする方法を知ってはいるが、拷問産業を別とすれば、最近シリアやイラクからどんな新発明が出現したか?(略)」

 

 

〇 キリスト教カトリックが社会に対して及ぼした影響を見るとき、それは、まるで植物になぞらえて言えば、土の下の根のような働きをしていたのでは?と感じます。

一人ひとりの心(魂)の領域にまで影響を及ぼし、様々なアイディアや情熱を掻き立てていたように見えます。

今、もう神を信ずる人はいなくなった…、では、その根はどうなったか?

私から見ると、神とか、日本で言えば天とかいうような「もの」を信じることはなくても、その概念、イメージは今も残っていて、信実なるもの、善なるもの、美なるもの、そして愛、を求める心の働きは生きているように見えます。

 

その心の動きが今も根を腐らせずに働きを続けている様に見えるのですが。

むしろ、キリスト教とかカトリックという組織が完全になくなってしまった時、本当に、概念だけで、これからもその根の働きを生かし続けられるのか、が気になります。

 

 

「多くの科学者を含めた何十億もの人が、権威の源泉として宗教の聖典を使い続けているが、それらの文書はもう、創造性の源泉ではない。たとえば、キリスト教の中でも進歩的な諸宗派が同性婚や女性聖職者を受け容れたことについて考えてほしい。どうして受け容れることになったのか?

 

 

聖書、あるいは聖アウグスティヌスマルティン・ルターの書いたものを読んだからではない。そうではなくて、ミシェル・フーコーの「性の歴史」(渡辺守章訳、新潮社、一九八六~八七年)やダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」のような文書を読んだからだ。(略)

 

 

そういうわけで、伝統的な宗教は自由主義の真の代替となるものを提供してくれない。聖典には、遺伝子工学やAIについて語るべきことがないし、ほとんどの司祭やラビやムフティーは生物学とコンピューター科学の最新の飛躍的な発展を理解していない。

 

 

なぜなら、もしそうした発展を理解したければ、あまり選択肢がないからだ、古代の文書を暗記してそれについて議論する代わりに、科学の論文を読んだり、研究室で実験したりするのに如何を掛けざるをえないのだ。(略)

 

 

本書は、二一世紀には人間は不死と至福と神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明があるものでもない。それはただ、自由主義的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。

 

 

 

人間至上主義は人間の命と情動と欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と幸福と力を最大化しようとしたところで、驚くまでもない。

とはいえ、本書を締めくくる第三部では、この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノりじーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張することになる。

 

 

人間至上主義に従って感情を信頼したおかげで、私たちは大小を払うことなく現代の契約の果実の恩恵にあずかることができた。私たちは、人間の力を制限したり意味を与えてくれたりする神を必要としない。消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに私たちがいったん気づいたら、そして彼らの気持ちを計算したり、デザインしたり、その裏をかいたりするテクノロジーを一旦手にしたら、どうなるのか?

 

 

もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となってスーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、いったい何が起こるのだろう?」

 

 

〇 …と、ここで、第二部が終わっています。第二部は上巻からの続きです。上巻を読まなければ、はっきりしないことがたくさんあると

思いながら読みました。第三部は、ここで触れられている、「消費者と有権者は断じて自由な選択をしていない」ということについて、具体的な例をたくさん挙げて、証明してくれています。