読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「第5章 科学と宗教というおかしな夫婦

 

物語は人間社会の柱石の役割を果たす。歴史が展開するにつれ、神や国家や企業にまつわる物語はあまりに強力になったため、ついには客観的現実まで支配し始めた。(略)

 

 

 

もちろん、科学理論は新種の神話だ、私たちが科学を信じるのは古代エジプト人が偉大な神セベクを信じるのと何ら変わりがない、と主張することもできるだろう。あいにく、この比較はまったく通用しない。(略)

 

 

 

抗生物質は神と違い、自らを助けない者さえも助ける。人がその効力を信じていようといまいと、抗生物質感染症を治す。

したがって、現代世界は近代以前の世界とはまったく違う。エジプトのファラオや中国の皇帝は何千年も努力を重ねたのに、飢饉と疫病と戦争を克服できなかった。

 

 

近代社会はそれを数世紀のうちにやってのけた。これこそ、共同主観的な神話をしてて客観的な科学知識を採用した結果ではないか?そして、今後の年月にこの過程が加速すると思っていいのではないか?テクノロジーのおかげで人間をアップグレードしたり、老化を防いだり、幸せのカギを見つけたりできるようになるだろうから、人々は虚構の紙や国家や企業への関心を失い、代わりに物質的現実や生物学的現実の解明に的を絞るのではないか?

 

 

 

そのように思えるかもしれないが、じつは物事はそれよりはるかに複雑だ。近代科学はたしかにゲームのルールを変えたが、あっさり神話を事実で置き換えたわけではない。さまざまな神話が人類を支配し続けており、科学はそうした神話の力を強めるばかりだ。

 

 

 

科学は共同主観的な現実を打ち砕くどころか、共同主観的な現実が客観的現実をかつてないほど完全に制御することを可能にするだろう。そして、人々が自分のお気に入りの虚構に合うように現実を作り変えるにつれて、コンピューターと生物工学のおかげで、虚構と現実の違いがあやふやになっていく。(略)

 

 

 

その結果、科学の台頭は、少なくとも一部の神話と宗教をかつてないほど強力にするだろう。したがって、その理由を理解し、二一世紀のさまざまな課題に取り組むためには、あらゆる疑問のなかでも最も悩ましいもの、すなわち、現代の科学は宗教とどう折り合いをつけるかという疑問に立ち返るべきだ。

 

 

 

 

この疑問に関して言うべきことはすべて、すでに何度となく語られてきたように思える。とはいえ実際には、科学と宗教は、五〇〇年もカウンセリングを受けて来たにもかかわらず、いまだにお互いがわかっていない夫婦のようなものだ。夫は相変わらずシンデレラを夢見ながら、そして妻は白馬の王子に恋い焦がれ続けていながら、今度ゴミを出しに行くのは誰も番かを言い争っているのだ。

 

 

 

 

病原菌と魔物

 

科学と宗教にまつわる誤解のほとんどは、宗教の定義の仕方が間違っているために生じる。人は宗教を、迷信や霊性、超自然的な力の存在を信じることや神の存在を信じること等と、じつに頻繁に混同する。

 

 

 

だが、そのどれ一つとして宗教ではない。宗教は迷信と同一視することはできない。なぜなら、大半の人は自分が最も大切にしている信念を「迷信」とは呼びそうにないからだ。私たちはつねに「真実」を信じる。迷信を信じるのは他の人々だけだ。

 

 

 

同様に、超自然な力を信じる人はほとんどいない。(略)霊の存在を信じない人だけが、霊は自然の摂理とは別個のものと考えるのだ。

超自然的な力を信じるのを宗教と同一視するのは、既知のあらゆる自然現象を宗教抜きで理解できることを意味する。宗教はオプションのおまけにすぎないというわけだ。

 

 

ところが、ほとんどの宗教は、その宗教抜きにはこの世界を理解することなど望むべくもないと主張する。その宗教の教義を考慮にいれなければ、病気や旱魃地震の真の原因はけっして理解できないというのだ。

 

 

 

宗教を「神の存在を信じること」と定義するのにも問題がある。敬虔なキリスト教徒は神を信じているから宗教的だが、共産主義には神がないから熱心ね共産主義は宗教的ではない、と私たちは言いがちだ。

 

 

 

とはいえ、宗教は神ではなく人間が創り出したもので、神の存在ではなく社会的な機能によって定義される。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ。宗教は、人間の社会構造は超人間的な法を反映していると主張することで、その社会構造を正当化する。(略)

 

 

 

自由主義者も、共産主義者も、現代の他の主義の信奉者も、自らのシステムを「宗教」と呼ぶのを嫌う。なぜなら、宗教を迷信や超自然的な力と結びつけて考えているからだ。(略)だが宗教的というのは、人間が考案したのではないもののそれでも従わなければならない何らかの道徳律の体系を、彼らが信じているということにすぎない。私たちの知る限り、あらゆる人間社会がそうした体系を信じている。

 

 

 

どの社会もその成員に、人間を超越した何らかの道徳律に従わなければならないと命じ、その道徳律に背けば大惨事を招くと言い聞かせる。(略)

 

 

 

もしあなた自身もたまたま共産主義者なら、それでも共産主義キリスト教は大違いだ、共産主義は正しく、キリスト教は間違っているから、と主張するかもしれない。階級闘争は本当に資本主義体制には付き物だが、金持ちは死んだあと、実際に地獄で永遠の責苦を味わうわけではない、と。

 

 

とはいえ、仮にあなたの言う通りだとしても、共産主義が宗教ではないことにはならない。むしろそれは、共産主義こそが唯一正真正銘の宗教であるということだ。どの宗教の信奉者も、自分の宗教だけが本物だと確信している。ひょっとすると、どれか一つの宗教の信奉者が本当に正しいのかもしれない。

 

 

 

もぢブッダに出会ったら

 

宗教とは社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段であるという主張は、宗教は何はさておき霊的な道を示していると考える人をまごつかせるかもしれない。とはいえ、宗教と科学の隔たりが一般に思われているよりも小さいのとは裏腹に、宗教と霊性の隔たりは意外にもずっと大きい。宗教が取り決めるのに対して、霊性は旅だ。(略)

 

 

 

なぜそのような旅に「霊的」というレッテルを貼るのか?これは善悪二つの神の存在を信じていた古代のさまざまな二元論の宗教の遺産だ。二元論によれば、善良なる神は、霊の至福の世界に暮らす純粋で不滅の魂を生み出したという。

ところが、ときに悪魔とも呼ばれる邪悪な神が、物質からなる別の世界を創り出した。

 

 

 

 

悪魔は自分の創造物をどうしたら永続させられるか知らなかったので、物質の世界ではすべてが朽ち果て、ばらばらになる。悪魔は欠陥を抱えた自分の創造物に命を吹き込むために、霊の純粋な世界から魂を誘い出し、物質でできた体の中に閉じ込めた。

 

 

 

魂の牢獄である肉体は、衰え、やがて死ぬので、悪魔は肉体的な喜びで絶えず魂を誘惑する。その喜びの最たるものが、食べ物とセックスと権力だ。(略)

二元論は人々に、こうした物質的な束縛を断ち切り、霊の世界へ戻る旅に就くように指示する。霊の世界は私たちにはまったく馴染みがないが、じつは本当の故郷なのだ。(略)この二元論の遺産のせいで、俗世界の慣習や取引を疑って未知の目的地に敢然と向かう旅はみな、「霊的な」旅と呼ばれる。

 

 

 

そのような旅は宗教とは根本的に違う。なぜなら、宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとするからだ。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである場合が多い。禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。

 

 

 

もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。

宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒たちの霊的な探求を抑え込もうと躍起になるし、これまで多くの宗教制度に疑問を呈してきたのは、食べ物とセックスと権力で頭が一杯の俗人ではなく、凡俗以上のものを期待する霊的な真理の探究者たちだった。(略)

 

 

 

歴史的視点に立つと、霊的な旅はいつも悲劇的だ。社会全体ではなく、個々の人間だけふさわしい、孤独な道のりだからだ。人間が協力するには確固たる答えが必要で、疑問ばかりでは足りない。だから、無用になった宗教構造にいきりたつ人々は、それに取って代わる新たな構造を創り出すことが多い。(略)

 

二人は断固として真理をついきゅうしていくうちに、伝統的なヒンドゥー教ユダヤ教の戒律や典礼や組織を突き崩した。

だがけっきょく、歴史上、他の誰と比べても、彼らの名において生み出された戒律と典礼と組織の数の方が多い。」